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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》デニス・ベルカンプ(オランダ)

 

「ゴールを撃ち抜くアイスマン

柔らかなボールタッチと完璧なトラップから芸術的なゴールを生み出し、知性と創造力あふれるプレーで世界のファンを魅了した。ペナルティーエリアでは常に冷静沈着。精度の高いシュートでゴール隅を撃ち抜き、「アイスマン」の異名で呼ばれたオランダのストライカーが、デニス・ベルカンプ( Dennis Nicolaas Maria Bergkamp )だ。

 

アヤックスのアカデミーで育ち、17歳でトップチームデビュー。翌シーズンイタリアへ渡ったファン バステンの後継者として、チームのエースに成長する。インテル・ミラノで挫折を味わうも、95年に移籍したアーセナルではベンゲル監督のもと輝きを取り戻す。攻撃の中心として黄金期のアーセナルを支え、03-04シーズンの無敗優勝に大きく貢献した。

 

オランダ代表ではユーロ92や2度のW杯で活躍。98年W杯準々決勝、アルゼンチン戦での芸術的なトラップからの決勝ゴールは、今も伝説として語り継がれる。また代表通算37得点はあのクライフやファン バステンを凌ぐもので、クライファートに抜かれるまで歴代1位の記録だった。

 
アヤックス育ちのストライカ

デニス・ベルカンプは1969年5月10日、首都アムステルダムに4人兄弟の末っ子として誕生した。電気工の父親は地元のアマチュアクラブに所属するほどのサッカーファンで、四男坊の名前はマンチェスター・ユナイテッドのスター選手、デニス・ローにあやかって付けられた。

歩けるようになった頃からすでにボールで遊んでいたというベルカンプ。7歳から父親が所属するクラブのジュニアチームで試合に出始めると、早くもその姿が名門アヤックスの目に止まる。そして11歳でアヤックス・アカデミーに入団。トータルフットボールの流れを汲むアヤックス・システムの英才教育を受け、さらに才能を伸ばしていく。

この時期、イングランドサッカー観戦に熱中していたベルカンプが憧れとしたのが、トッテナムのグレン・ホドルだった。

85年、クラブレジェンドであるクライフがアヤックスの監督に就任。ジュニアチームの練習でベルカンプの資質に目を付けたクライフは、まだ17歳だった彼をトップチームに引き上げ、86年12月のローダーJC戦で試合途中からのエールディヴィジ・デビューを飾らせる。そして翌87年2月のハーレム戦で初ゴールが生まれた。

成長途中の華奢な身体と、内向的な性格で最初のシーズンは実力を発揮できなかったベルカンプだが、87年の欧州カップウィナーズ・カップで優勝に貢献。これをきっかけに出場機会を増やすと、ACミランに移籍したファン バステンに代わるエースとして頭角を現す。

そして88-89シーズンに初の2桁得点となる13ゴールを挙げ、89-90シーズンには5年ぶりとなるチームのリーグ優勝に貢献、90-91シーズンには25ゴールを記録して、PSVロマーリオと並ぶリーグ得点王となった。

ルイ・ファン ハールが監督に就任した91-92シーズン、24ゴールを記録して2年連続得点王。UEFAカップ(現EL)では大会得点王(6ゴール)の活躍でチームを初優勝に導き、オランダ最優秀選手賞に輝く。

若者ながらデルカンプのプレーは常に冷静沈着。表情一つ変えることなく正確にゴールを撃ち抜く姿で、「アイスマン」と呼ばれた。「アイスマン」とは、映画『トップガン』(86年)でヴァル・キルマーが演じた戦闘機パイロットのコードネーム。デルカンプは顔がキルマーに似ていると言われていた。

92-93シーズンも26ゴールを挙げて3季連続得点王。KNVBベーカー(オランダカップ)制覇のタイトルを加え、前年に続くオランダ最優秀選手賞。欧州屈指の点取り屋となった彼のもとには、当時世界最高峰リーグ・セリエAから幾多のオファーが舞い込み、自身の選択で93年夏にインテル・ミラノへ移籍する。

 

ユーロ92の活躍

代表へは90年に初めて選出され、9月26日のイタリア戦でデビュー、11月のギリシャ戦で初ゴールを記録した。そして2年後にスウェーデン開催されたユーロ92のメンバーにも選ばれ、この時23歳のベルカンプは初めての大舞台に臨んだ。

初戦のスコットランド戦は、75分にベルカンプが右足ボレーで決めて決勝点。フリット、ファン バステン、ライカールトと、前大会優勝の主力「ビッグ3」から繋がれたパスで生まれたゴールだった。

初戦を1-0と勝利したオランダは、第2戦でCIS(旧ソ連邦共同体)に0-0の引き分け。第3戦では強敵西ドイツをベルカンプのゴールなどで3-0と下し、グループ1位でベスト4に進む。

準決勝の相手は伏兵デンマーク。開始5分にブライアン・ラウドルップの突破からラルセンの先制ゴールを許すが、23分にライカールトの落としをベルカンプが決めて同点。33分にラウドルップのシュートの跳ね返りをラルセンに押し込まれて再びリードされるも、終盤の86分にライカールトが同点とする。

試合は延長120分を終わっても決着はつかず、勝負の行方はPK戦へ。先攻のオランダは、2人目ファン バステンが名手シュマイケルに止められ失敗。このあとベルカンプ以下3人が成功させるが、後攻のデンマークは5人全員が成功。

オランダは決勝進出を逃すが、3ゴールを挙げたベルカンプフリット、ファン バステンとともに大会ベストイレブンに選ばれた。

 

インテルでの挫折

インテルではCFを任されたベルカンプだが、イタリアの戦術に溶け込めずに前線で孤立してしまう場面が続いた。2トップを組むルベン・ソサとの相性も悪く、移籍1年目の93-94シーズンは31試合8ゴールと期待を裏切る成績。UEFAカップでは優勝に貢献したものの、チームはリーグ13位と低迷してしまう。

監督が交替した翌シーズンはベンチを温めることが多くなり、記録したのは僅か3ゴール。インテルは優勝争いに加わることなく、94-95シーズンを6位で終える。高額の移籍金に見合わない成績しか残せないベルカンプには、「史上最高額のガラクタ」の汚名が着せられることになった。

ビアンキ監督との関係悪化が不振の一因ではあったが、それ以上にベルカンプを悩ませたのは、苦手とする飛行機での移動。94年アメリカW杯で海を渡ってから極度の飛行機恐怖症となり、インテルが使用する小型プロペラ機に乗るのは、苦痛以外の何ものでもなくなっていたのだ。

シーズン終了後にはクラブとの話し合いで契約解除を合意。イングランドでのプレーを希望するベルカンプアーセナルからのオファーが届き、新たな活躍の場が決まった。

 

ブラジル戦のゴール

ファン バステンに代わってオランダのエースとなったベルカンプは、92年9月から始まったW杯欧州予選で5ゴールの活躍。オレンジ軍団を2大会連続のW杯出場に導く。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。初戦はサウジアラビアに2-1と勝利するも、第2戦はベルギーに0-1の敗戦。グループ突破の懸かった第3戦の相手はモロッコだった。

猛暑の中で行なわれた試合は、前半終了直前の43分にベルカンプが先制ゴール。後半立ち上がりの47分に追いつかれるも、77分にベルカンプのクロスから途中出場のロイが決勝弾。オランダが首位で決勝トーナメントに進む。

トーナメントの1回戦は、ベルカンプの先制ゴールでスコットランドに2-0の快勝。準々決勝で優勝候補のブラジルと対戦する。ロマーリオとベベトーのゴールで2点をリードされたオランダだが、後半64分、左サイドのスローイングからベルカンプが一気に抜け出し、3人のDFをものともせずゴール。1点差へと迫る。

76分には、オーフェルマルスの左CKからビンターが頭で合わせて同点。驚異の粘りで追いついたオランダだが、81分にブランコの弾丸FKを浴びて2-3の敗戦。あと一歩届かなかった。

 

アーセナルでの覚醒

95-96シーズン、ミドルズブラとの開幕戦でプレミアリーグデビュー。初ゴールを記録したのは7試合目のサウサンプトン戦と遅かったが、そのスキルの高さと多彩なシュートはロンドンのサポーターを魅了。最初のシーズンは11ゴール、チーム成績もリーグ5位に留まったが、ベルカンプのプレーはイングランドでの可能性を感じさせるものだった。

96年秋、アーセン・ベンゲルガナーズの監督に就任。ベンゲル監督はロッカールームでの飲酒文化を一掃するなど、クラブの改革に邁進。徹底した栄養管理や科学的トレーニングの導入を行い、ピッチでは攻撃的かつ柔軟な戦術をチームに浸透させていく。

ベンゲル監督から新たな能力を引き出されたベルカンプは、華麗な身のこなしで得点を狙いながら、高いスキルとイマジネーションを発揮してゲームを組み立てる役割も請け負った。

97-98シーズン、アーセナルマンチェスター・ユナイテッドのリーグ3連覇を阻止し、プレミアリーグ発足後(92年)初となる優勝を達成。FAカップも制した。デルカンプは公式戦40試合22ゴールの大活躍で2冠達成の立役者となり、PFA(選手協会)とFWA(記者協会)のMVPをダブル受賞。さらにBBC選定の「ベストゴール」でも、1~3位を独占するという快挙を成す。

 

フランスW杯の芸術的ゴール

ユーロ96はチームの内紛もありベスト8に終わるが、フース・ヒディンク監督のもと立て直しを図ったオランダ代表は、W杯欧州予選を無事通過。好調ベルカンプもチームトップの7ゴールを挙げて攻撃を牽引した。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。初戦のベルギー戦は怪我のベルカンプが先発を外れ、0-0の引き分け。続く韓国戦では、2試合出場停止となったクライファートに代わり先発復帰。ベルカンプの得点などで5-0の圧勝を収める。

第3戦はメキシコに2-2と引き分けるも、グループを首位突破。トーナメント1回戦ではユーゴスラビアと戦う。前半38分、F・デ・ブールからのロングパスに抜け出したベルカンプが先制弾。48分に追いつかれるが、後半ロスタイムにダーヴィッツが決勝点を叩き込んで2-1。接戦を制して準々決勝へ進む。

準々決勝の相手はアルゼンチン。1-1で折り返した後半の72分、オランダDFヌマンが2枚目の警告で退場。だが87分には、アルゼンチンのオルテガがファン デルサールに頭突きをお見舞いして一発退場。終盤波乱の展開となるが、87分にベルカンプが背後からのロングパスを芸術的トラップでコントロール。DFアジャラをかわし、鮮やかなゴールで決着をつけた。

準決勝ではブラジルにPK戦負け、3位決定戦ではクロアチアに敗れて大会4位に終わるが、美しいゴールで大会を彩ったベルカンプは、オールスター選出のFW部門に選ばれる。

2000年には自国開催のユーロ大会に(ベルギーと共催)出場。ベルカンプは6試合すべてに先発し、ノーゴールに終わるも大会ベスト4に貢献する。そしてこの大会を最後に31歳で代表を引退。11年間の代表歴で79試合に出場、37ゴールの記録を残した。これは引退時で代表歴代最多ゴール数(現在は5位)だった。

「飛ばないオランダ人」の栄光

01-02シーズン、アーセナルは2度目となるリーグ優勝とFAカップ優勝の2冠を達成。終盤まで3位にいたガナーズに勢いをつけたのは、02年3月のニューカッスル戦で見せたデルカンプの伝説的プレー。のちにプレミア10周年の「グレーテスト・ゴール」に選ばれた一発である。

試合開始の11分、左サイドのピレスからグラウンダーのパス。DFを背後に抱えたベルカンプは右スペースにボールを浮かせると、左逆方向に反転して一瞬でマークを剥がした。するとボールはいつの間にかベルカンプの足下に収まり、その右脚からネットを突き刺す。まさにベルカンプの神髄が詰まった、芸術品のようなゴールだった。

このあとアーセナルは残り10戦を全勝。リバプールマンUをかわして4年ぶりの戴冠となった。またデルカンプはロベール・ピレスと合わせた27アシストで、アンリの得点王(24ゴール)をサポートしている。

02-03シーズンはマンUにリーグタイトルを奪い返されるも、03-04シーズンは38戦26勝12分けの「インビンシブルズ(無敵優勝)」を達成。ベルカンプアーセナル攻撃サッカーの要となり、シーズン無敗の快挙を支えた。

そしてアーセナル11年目の05-06シーズンを最後に、37歳で現役を引退。英国国内ではあらゆるタイトルを手にしたベルカンプだが、欧州大会でのタイトルには縁がなかった。

「飛行機に乗らない」ことをアーセナルとの契約条件に加えていた彼は、国外遠征試合の移動手段として自動車か公共交通機関を使用。どんなに時間がかかっても絶対に飛行機を使わないため、クライフのあだ名をもじった「ノン・フライ・ダッチマン(飛ばないオランダ人)」と呼ばれた。これが欧州大会でのコンディションにも影響を与えたと言われている。

引退後は古巣アヤックスコーチングスタッフとして活動するも、クラブ内の対立により2017年に退職。現在は息子ミッチェルが所属するヨング・アルメレ・シティ(オランダ)でコーチをしながら、アーセナルへの現場復帰も視野に入れている。