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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ファン・スキアフィーノ(ウルグアイ / イタリア)

 

「 フトボルの神様 」 

エレガントなテクニシャンとして攻撃の起点となり、決定的なスルーパスで好機を演出。高い得点能力も有し、しばしば貴重なゴールを決めたインサイドレフト。その卓越したプレーと実績により、ウルグアイで「エル・ディオス・デル・フトボル(サッカーの神様)」と呼ばれた名選手が、ファン・スキアフィーノ(Juan Alberto Schiaffino)だ。

 

50年W杯ブラジル大会では、事実上の決勝戦となった開催国との試合で0-1のビハインドから同点ゴールを記録。さらに逆転となったギッジャの得点にも絡み、ウルグアイを2度目の世界王者に導くとともに、ブラジル中を失意のどん底に突き落とした。

 

その名声は欧州にも鳴り響き、54年には当時世界最高の移籍金が払われ名門ACミランへと引き抜き。ミランでは3度のリーグ優勝と、チャンピオンズカップ準優勝に貢献した。同時にイタリア国籍を取得し、アズーリのメンバーとしてもプレーしている。

 

CAペニャロールの中心選手

ファン・アルベルト・スキアフィーノは1925年7月28日、首都モンテビデオのバリオ・スル地区で生まれた。肉屋を営む祖父はイタリア出身、移民2世の父親はマロニャス国立競馬場で働く職員だった。幼い頃から内気な性格だったアルベルトは、パラグアイ出身の母親から「ぺぺ」の愛称で呼ばれて育つ。

小さいときに一家で近隣の町ボシトフへ引っ越し、2歳年上の兄ラウルとモンテビデオのビーチでボールを蹴って遊んだ。8歳の時に地元クラブへ入団。12歳のときに加入したクラブ・オリンピアで右ウィングに起用され、本格的な競技へ取り組むようになる。

17歳となった42年、ウルグアイの強豪クラブ、ナシオナルのユースチームに入団。この頃はパン屋、文房具店、アルミニウム工場などで働きながら、サッカーの技量を磨いた。

翌43年には兄ラウルに誘われ、ナシオナルのライバルチームであるCAペニャロールのユースに入団。ラウルは当時ペニャロールで「リトルマスター」と呼ばれていた若手ホープで、45年にはプリメーラ・ディビシオンウルグアイ1部リーグ)得点王となりチームの優勝に貢献している。

弟アルベルトもユースチームで才能の輝きを見せ、20歳となった46年にトップチームデビュー。インサイドレフトのポジションを任され、細身ながら洗練されたテクニックと正確なシュート、そして高いインテリジェンスで攻撃の核となり、1年目から23試合13ゴールの好成績を残した。

このあともチームのゲームメーカーとして順調にキャリアを積み、ナシオナルに代わってリーグの主役となったペニャロールの中心選手として5度のウルグアイ選手権優勝に貢献する。

兄ラウルは足の故障により早期引退を余儀なくされたが、守護神ロケ・マスポリ、攻守の要で主将のオブドゥリオ・バレラ、驚異的なスピードを誇る右ウィングのアルシデス・ギッジャ、小柄で機敏な左ウィンガーのエルネスト・ヴィダル、国内屈指の点取り屋オスカル・ミゲスとともに、「暗殺部隊」と恐れられる最強チームを構成した。

 

復権を図るラ・セレステ

「ラ・セレステ」と呼ばれるウルグアイ代表には、45年の南米選手権に19歳で招集されるが、この時は出番がなく代表デビューはお預けとなった。初出場となったのは同年12月29日に行なわれた親善試合のアルゼンチン戦。この試合で兄ラウルのゴールをアシストして1-1の引き分けに持ち込み、20歳での代表デビュー戦を飾った。

翌46年の1月にはリオ・ブランコカップ(隣国ブラジルとの親善対抗戦)に出場、2大会連続の優勝に貢献している。

だが40年代のウルグアイ代表は混乱期の真っ只中。監督は頻繁に交代し、49年の南米選手権では選手会ストライキのためベストメンバーを招集できず、出場8ヶ国中6位という過去最低の成績。スキアフィーノも代表デビューから4年でようやく公式戦3試合に出場したのみだった。

しかし第二次世界大戦により12年の中断を余儀なくされていたワールドカップが、50年にブラジルで開催されることになり、ウルグアイは第1回大会チャンピオンのプライドを懸けて代表の立て直しを進める。

W杯直前にブラジルで行なわれたリオ・ブランコカップでは、ウルグアイの2強クラブ、ペニャロールとナシオナルの選手を中心としたベストチームを編成。スキアフィーノはサンパウロの試合で代表初ゴールを記録し、4-3の勝利に貢献。1ヶ月半後に控えたW杯本番への手応えを得た。

 

Wカップ・ブラジル大会開幕

50年6月24日、Wカップ・ブラジル大会が開幕。大会は出場16ヶ国が4組に分かれて1次リーグを行なう予定となっていたが、インド、スコットランド、トルコの3ヶ国が出場を辞退。当時は南米への移動に負担がかかり、結局13ヶ国での開催となった。

ウルグアイの入った4組は2ヶ国が辞退となり、ボリビアとの2チームで1次リーグを対戦。格下を8-0と一蹴して2次リーグに進出する。この試合ミゲスがハットトリック、スキアフィーノが2得点、ギッジャとヴィダルがそれぞれ1得点ずつと、ペニャロール勢が大活躍した。

決勝リーグにはブラジル、ウルグアイ、スペイン、スウェーデンの4ヶ国が進出。開催国ブラジルの意向により、大会のハイライトとなるであろうウルグアイとの対戦は最終節に回された。

国民からの期待を背負ったブラジルは、スウェーデンを7-1、スペインを6-1と蹴散らし順調に2連勝。セレソンのエース、アデミール6ゴールの活躍で悲願のW杯初優勝に王手をかけた。

対するウルグアイは、決勝リーグ初戦のスペイン戦から苦戦。29分にギッジャのゴールで先制するも、このあとバルセロナのスター選手、バゾラの2ゴールで逆転を許す。ピンチに立たされたウルグアイだが、73分にバレラが気迫のこもったプレーで同点弾。どうにか2-2の引き分けに持ち込んだ。

続くスウェーデン戦も、開始わずか5分で失点するという苦しい展開。39分にギッジャのミドルシュートで追いつくも、直後の40分にGKマスポリのパンチングミスで再びリードされてしまう。

またもウルグアイは窮地に追い込まれるが、後半にスウェーデンのヨハンソンが足を痛めて負傷退場。当時は選手交代が認められていなかったため、数的優位となったウルグアイに流れが傾く。

終盤に入った77分、ミゲスが豪快にゴールを叩き込んで同点。85分にもミゲスが逆転弾を決め、辛うじて3-2の勝利を収めた。

こうして決勝リーグの第3節は、2勝のブラジルと1勝1分けのウルグアイによる最終決戦。開催国ブラジルは引き分けでも良いという有利な状況となり、国民の誰もがセレソンの初優勝を信じて疑わなかった。

 

マラカナンの闘い

事実上の決勝戦となったブラジルとウルグアイの試合は、ワールドカップのためリオに新設されたマラカナン・スタジアムに約20万人の観客を集めて行なわれた。

序盤からブラジルの猛攻を受けるウルグアイだが、主将バレラを中心にした堅い守りで対抗。守護神マスポリも、スウェーデン戦のミスを取り返すべく好守連発でゴールを死守する。

しかし0-0で折り返した後半開始の47分、アデミールのパスからフリアッサのゴールを許し、地元ブラジルが先制。超満員のスタンドからは地鳴りのような歓声が沸き上がった。

大観衆の熱気に押されて、さらに攻撃をかけ続けるブラジル。だがその攻めの姿勢が、ウルグアイに反撃の機会を与えることになる。

66分、中盤でパスを受けたバレラが、右サイドを走るギッジャにボールを展開。ギジャは前方に空いたスペースへトップスピードで駆け上がると、ゴール前へ低いクロスでの折り返し。そこへ走り込んだスキアフィーノが右足を合わせて1-1の同点とする。

それでもこのまま引き分ければブラジルの優勝だったが、冷静さを失ったセレソンは勝ち越しを目指しての総攻撃を開始する。79分、相手の前掛かりなったところを、再びギッジャが右サイドを突破。ゴール前に走るスキアフィーノが相手DFを引きつけると、ギジャがクロスと見せかけての意表を突くシュート。キーパーの伸ばした手をかすめて逆転のゴールがネットを揺らした。

ショックと静寂が会場を包む中、残り11分をウルグアイが守り切り、開催国ブラジルに2-1の逆転勝利。ウルグアイは3大会ぶり2度目となるジュール・リメ杯を手にした。この試合はブラジル全土に絶望をもたらし、「マラカナンの悲劇」と呼ばれる歴史的な一戦となった。

3ゴールを挙げて優勝に大きく貢献したスキアフィーノは、バレラ、ギッジャ、マスポリ、ロドリゲス・アンドラーデ(ホセ・アンドラーデの甥)とともに大会ベストイレブンに選ばれた。

 

Wカップ・スイス大会

W杯での活躍は世界の注目を集め、イタリアの幾つかのクラブから声を掛けられるが、当時は南米選手の流出が問題視されていた時代。選手としてピークにあったスキアフィーノの移籍が許されることはなく、欧州挑戦は先延ばしとなった。

52年には、たまたま乗ったバスで出会った女性アンジェリカと結婚。二人の間に子供は生まれなかったが、終生のおしどり夫婦として知られるようになる。

54年6月、Wカップ・スイス大会が開幕。ディフェンディング・チャンピオンのウルグアイは、1次リーグの初戦でチェコスロバキアと対戦。ミゲスのヘディングシュートとスキアフィーノの強烈なFKで2-0の勝利を収める。

第2戦の相手は初出場のスコットランド。この試合絶好調のスキアフィーノが、自由自在な動きと鋭いスルーパスで相手DFを撹乱。7-0の大勝で難なくベスト8進出を決めた。

準々決勝は、伝説の名手スタンリー・マシューズを擁するイングランドと対戦。開始5分、スキアフィーノの囮となるプレーからウルグアイが先制。15分に追いつかれるも、前半終了直前に39歳バレラのシュートで再びリードする。

そして後半開始直後の46分、バレラのFKからスキアフィーノが貴重な追加点を決め、優位にゲームを進めたウルグアイが4-2の勝利を収めた。

そして準決勝は、優勝候補の最右翼に挙げられていたハンガリーとの戦い。圧倒的攻撃力で欧州を席巻、「マジック・マジャール」の呼び名で恐れられ、連戦連勝を続けていた東欧の強豪チームだった。

ウルグアイは主将のバレラが出場停止、ハンガリーはエースのプスカシュを怪我で欠き、両チームのキーマン不在で試合は始まった。

ゲームは豊富なタレントを擁するハンガリーに主導権を握られ、終盤まで2点のリードを許すという展開。だが必死に食い下がるウルグアイは幾度も反撃を試み、76分にスキアフィーノのスルーパスからオベルグが1点差に迫るゴール。さらに終了が近づいた87分、再びスキアフィーノのスルーパスによりオベルグの劇的同点ゴールが生まれた。

試合は延長戦に突入。その開始早々に三たびスキアフィーノのパスからオベルグがシュートを放つも、これはポストに阻まれ逆転とはならなかった。

延長後半に入り、守備の要アンドラーデが怪我の治療のために一時ピッチをアウト。その間ハンガリーのコチシュにヘディングシュートを決められ、勝ち越しを許してしまう。117分にもコチシュが試合を決定づけるゴール。ウルグアイは今大会屈指の好ゲームを演じたものの、惜しくも勝利の女神は微笑まなかった。

3日後にはオーストリアとの3位決定戦が行なわれ、戦意を喪失していたウルグアイは1-3の敗戦。スキアフィーノにとってこれがラ・セレステ最後の試合となった。ウルグアイ代表では公式戦21試合に出場、8ゴールの記録を残している。

 

イタリアでの活躍

W杯終了後、イタリアの名門ACミランへ30歳を目前にして移籍。ペニャロールには当時世界最高額となる20万ドルの移籍金が支払われた。プロ生活10年を過ごしたペニャロールでは227試合に出場、88ゴールを挙げている。

この移籍が公式に発表されると、国内のファンからは「サッカーの神様が去った。取り返しの付かない損失だ」と嘆きの声が上がった。

9月のトリエスティーナ戦でセリエAデビュー。さっそく2ゴールを決めて4-0の勝利に貢献、デビュー戦を飾った。そして「グレ・ノ・リ」で知られたスウェーデンのグンナー・ノルダール、ニルス・リードホルムと強力な攻撃陣を組み、54-55シーズンのスクデットを獲得。55-57シーズンは2位に終わったが、56-57シーズンにタイトルを奪回する。

57-58シーズン、ミランチャンピオンズカップの準決勝に進出。スキアフィーノが2戦合計3ゴールの活躍を見せ、マンチェスター・ユナイテッドを打ち破って初の決勝へ進んだ。

決勝の相手はレアル・マドリード。レアルは55年から始まったチャンピオンズカップで2連覇中、アルゼンチン出身の名選手ディ・ステファノやフランスの司令塔レイモン・コパらのスター選手を擁する最強チームだった。

0-0で折り返した後半の59分、スキアフィーノが素晴らしいドリブルシュートを決めてミランが先制。74分にディ・ステファノの得点で追いつかれるも、78分に再びリード。だが直後の79分にエクトル・リアルのゴールを許して同点とされる。ゲームはチャンピオンズカップ決勝初となる延長戦にもつれ込んだ。

延長ではフランシスコ・ヘントに決勝弾を決められ、ミランが2-3の敗戦で準優勝。レアルの大会3連覇を阻止することが出来なかった。

 

サッカーの神様の余生

イタリア人の血を引くスキアフィーノは、ミラノ到着後すぐにイタリア国籍を取得。アズーリのメンバーにも選ばれ、58年W杯欧州予選など4試合に出場した。

58-59シーズンに3度目のリーグ優勝を経験したあと、60-61シーズンにはローマへ移籍。ここではDF前のポジションでプレーし、フェアーズカップUEFAカップの前身)優勝に貢献する。(決勝戦は欠場)

翌61-62シーズン終了後、36歳で現役を引退。8シーズンを過ごしたセリエAではリーグ戦188試合に出場、50ゴールを挙げている。

引退後は故郷のモンテビデオに戻り、不動産事業で成功。短期間ながらウルグアイ代表監督やペニャロールのユース監督も務めた。

2002年11月13日、癌により77歳で死去。愛妻アンジェリカを亡くしてから半年後の事だった。