
「中盤の貴公子」
中盤を華麗に仕切り、柔らかなボールタッチと、エレガントなパスで攻撃の起点となった。また素早く危険の芽を摘む守備で、ボランチとしての能力の高さも見せた。その優雅さ漂わせるシルエットと、長髪の似合う端正な容姿で「エル・プリンシペ(貴公子)」と呼ばれたのが、フェルナンド・レドンド( Fernando Carlos Redondo Neri )だ。
アルゼンチンのサッカー選手では珍しい大学卒の経歴を持ち、21歳でスペインのテネリフェへ移籍して中心選手として活躍。94年にはリーガ・エスパニョーラの名門レアル・マドリードに移り、攻守の要としてリーグ優勝2回、UEFAチャンピオンズリーグ制覇2回、インターコンチネンタルカップ優勝などに貢献する。
20歳でアルゼンチン代表に初招集されるも、学業を優先して辞退。94年のアメリカW杯には中盤のレギュラーとして初出場を果たすが、マラドーナ薬物騒動の影に隠れて目立った活躍を見せられなかった。98年フランスW杯でもパサレラ監督と意見が衝突し、ユニフォームを脱いで己の意志と姿勢を貫いた。
レドンドは1969年6月6日、首都ブエノスアイレスの郊外にあるアドロゲの高級住宅街で生まれた。父親は元サッカー選手で、その影響を受けて幼少からボールへ慣れ親しみ、9歳の時に地元レメディオ・デ・エスカラーダのジュニアチームで本格的にサッカーを始める。
この小クラブでレドンドは早くも才能を発揮、卓越したサッカーセンスは他の追随を許さなかった。1年後にはブエノスアイレスの有力クラブ、アルヘンティノス・ジュニアーズの下部組織に入団。15歳でU-16代表に招集され、中心選手として南米選手権制覇の原動力となる。
その実績が買われ、16歳でアルヘンティノスのトップチームに昇格。若くして国内屈指のゲームメイカーと評価され、国内の各クラブがレドンドの争奪戦に乗り出した。しかし彼は数々の誘いを断わりチームに残留、大学で法律を学びながらさらなるチャンスを待った。
89年、レドンドは翌年のイタリアW杯を見据えたアルゼンチン代表から招集を受けるが、学業優先を理由にその要請を辞退して世間を驚かせた。当時の代表監督は、86年のメキシコW杯でアルゼンチンを優勝に導いたカルロス・ビラルド。彼のあまりにも守備的な戦術では、自分に活躍の余地はないだろうと感じたのも辞退の理由だった。
90年に大学を卒業。アルヘンティノスとの契約が切れてフリーとなったレドンドに、アルゼンチン人のホルヘ・ソラーリが監督を務めるスペインのCDテネリフェが代理人を通して接触。レドンドは急遽テネリフェ島に向かい、2日後には契約書を交す。テネリフェは小クラブながら、レドンドはかねてからスペイン挑戦を熱望。若き貴公子にチャンスが訪れたのだ。
91年には元アルゼンチン代表FW、ホルヘ・バルダーノがテネリフェの監督に就任。新監督は本国から遠く離れたカナリア諸島に本拠を置く弱小クラブを、降格の危機から救う。91-92シーズン最終節では「テネリフェの奇跡」と呼ばれる大逆転劇を演じ、強豪レアル・マドリードに3-2と勝利。常勝チームのリーグ優勝を阻止した。
攻撃的サッカーを志向するバルダーノ監督のもとでレドンドは重用され、プレーの成熟度を増していくことになる。92-93シーズンもテネリフェはレアルに勝利し、レドンドは中盤の要として活躍。チームのリーグ5位躍進に貢献する。テネリフェは翌年のUEFAカップに出場、ベスト16入りを果たしてサポーターを喜ばせた。
代表デビューとなったのは、92年10月16日のコートジボワール戦。91年から代表を率いるアルフィオ・バシーレ監督は、レドントやバティストゥータ、シメオネといった若手を積極的に登用、91年と93年のコパ・アメリカでは大会2連覇を達成した。
93年のコパ・アメリカでは精彩を欠いてしまったレドンドだが、同年のキング・ファハド・カップ(のち、コンフェデレーションズカップ)では、中盤の底からチームを指揮し優勝に貢献。印象に残る活躍で大会MVPに選ばれた。
93年8月からはW杯南米予選が開始。しかし南米王者のアルゼンチンは予想外の苦戦を強いられ、強敵コロンビアとのアウェー戦は1-2の敗戦。雪辱を期したホームでの対戦では、司令塔バルデラマのパスが冴え渡りアルゼンチンの守備が崩壊。アスプリージャ、リンコン、バレンシアの攻撃陣に次々と得点を決められ、0-5と歴史的大敗を喫する。
結果、南米予選1組で2位に終わってしまったアルゼンチンは、アメリカW杯の出場権を懸けて、オーストラリアとホーム&アウェーの大陸間プレーオフを争うことになった。この負けられない戦いで代表に呼び戻されたのが、薬物使用により1年間の出場停止処分を受けていたディエゴ・マラドーナである。
南米予選の直前、レドンドのプレーを批判したマラドーナの発言がマスコミの記事になり、二人の仲が危惧されていた。しかし同じピッチに立った二人の間に大きな問題が生じることもなく、無事プレーオフを勝ち抜いて、アルゼンチンは本大会出場を果たすことになった。もともとマラドーナの発言はレドンドの才能を認めてのもの。そこに初めから対立はなかったのだ。
輝けなかった初めてのW杯
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。初戦で初出場のギリシャと対戦したアルゼンチンは、バティストゥータがハットトリックを記録。レドンドのお膳立てからマラドーナの復活ゴールも生まれ、4-0の圧勝を収める。第2戦はカニーヒアが2得点を決め、アフリカの新興ナイジェリアに2-1の勝利。グループ突破をほぼ確実にした。
ここまで順調なアルゼンチンだったが、ナイジェリア戦後のドーピング検査でマラドーナの尿から禁止薬物が検出される。アルゼンチン協会はすぐにマラドーナを大会登録から抹消、勢いを失ったチームは最終節ブルガリア戦を0-2で落としてしまう、
それでもどうにかグループ3位でベスト16に勝ち上がるが、トーナメント1回戦ではゲオルゲ・ハジ擁するルーマニアに2-3と競り負け。前回の準優勝チームは、早くも大会から姿を消した。
レドンドはこの大会4試合全てにフル出場を果たすが、マラドーナの薬物騒動の陰に隠れて強い印象を残すことが出来なかった。
レアルのエル・プリンシベ
94年夏、バルダーノ監督がレアル・マドリードの監督に就任すると、同時にレドンドもレアルへ移籍することになった。そして1年目の94-95シーズンから攻守の要として活躍。ラウル・ゴンザレス、イバン・サモラノ、ミカエル・ラウドルップらのダイナミックな攻撃をボランチとして支え、リーガ優勝に貢献した。
だが翌95-96シーズンはケガに悩まされ、チームもリーグ6位と低迷。76-77シーズン以来となる、UEFA大会への出場権を失ってしまう。
しかしこの苦しい時期を経験し、精神的成長を果たしたレドンドは、96-97シーズンに復活の輝き。レアルは「ボスマン裁定」(95年12月)の恩恵によりミヤトビッチ、シュケル、セードルフ、Rカルロス、カランブーら世界中の選手をかき集め、レドンドはスター軍団のバランス役となって2季ぶりのリーガ優勝に大きく貢献する。
97-98シーズンはリーグ4位に終わるも、欧州チャンピオンズリーグでは決勝へ進出。アムステルダムで行なわれた決勝ではジダンやデル・ピエロを擁するユベントスを1-0と下し、32年ぶりの欧州クラブ王者に輝く。レドンドは決勝までの11試合すべてに出場し、チームの攻守を支えた。
欧州王者となったレアルは12月には、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)に出場。ブラジルのヴァスコ・ダ・ガマをラウルらの得点とオウンゴールで2-1と下し、世界一クラブの栄冠も手にする。まさにこのチャンピオンチームで組み立ての采配を振るったのが、中盤の「エル・プリンシベ」レドンドだった。
94年W杯後、バシーレ監督の後任としてリーベル・プレートで手腕を振るったダニエル・パサレラがアルゼンチン代表の指揮官に就任。選手の長髪、イヤリング、同性愛を禁じた新監督に、レドンドは反撥。まだ左サイドでの起用法を巡って対立し、代表でプレーすることはなくなった。
97年11月、アルゼンチンは南米予選を首位で突破し、98年W杯フランス大会への出場を決める。パサレラ監督はスペインのレドンドを訪れ、シンボルである長髪を切り落とすことを条件に、W杯メンバー入りを約束した。
しかしレドンドは、「長髪は私の人格の一部だからカットしない。サッカー選手である前に、一人の人間でいたい」とパサレラ監督からの条件を拒否。W杯を諦めてまで己の意思を貫き通した。
レドンドが再び代表へ招集されたのは、ビエルサ新体制となった99年3月のこと。実に5年ぶりとなる代表復帰で、ブラジルとの親善試合に出場した。このあと02年W杯日韓大会への意欲を見せるが、右膝靱帯を断裂の重傷を負って断念。自らアビセレステス(白と空色)のユニフォームを脱いだ。実質4年間の代表歴で29試合に出場、1得点を記録している。
99-00シーズン、レドンドはキャプテンとしてレアルを牽引。リーグ戦で5位に沈むも、CLは順調に勝ち上がってベスト8進出。準々決勝で昨年王者のマンチェスター・ユナイテッドと戦う。
ホームでの第1レグを0-0の引き分けで終えたレアルは、敵地オールド・トラッフォードでの第2レグに臨む。2点のリードで進んだ後半52分、ドリブルで敵陣を切り裂いたレドンドは、バックヒールで相手DFを股抜き。タッチラインからのパスでラウルのゴールをアシストする。
このあとユナイテッドに2点を返されるも、レドンドの「伝説のアシスト」から生まれた3点目が効いてレアルが勝利。敵将アレックス・ファーガソン監督を「彼のブーツには磁石でも入っているのか」と感嘆させた。
準決勝は、前回準優勝のバイエルン・ミュンヘンを2戦合計3-2と撃破。2大会ぶりの決勝へと進む。決勝では同じスペインのバレンシアに3-0の快勝。レドンドは自身2度目となるビッグイアーを手にし、その顕著な活躍で大会MVPに選出。同年のUEFA年間最優秀選手にも輝く。
00年にはレアルの会長選が行われ、フロレンティーノ・ペレスが新会長に就任。ペレス会長の選挙公約により、レアルは毎年のようにビッグネームを獲得。「ロス・ガラクティコス(銀河系)」と呼ばれるスーパースター軍団が形成された。だがその煽りを受けて、チームから押し出される形となったのがレドンドだった。
レアルに愛着を持っていたレドンドだが、クラブ間で移籍話が進み00-01シーズンにACミランへ移籍となる。しかしセリエAのシーズン開幕直前、トレーニング中に右膝靱帯を断裂、長期離脱を余儀なくされてしまった。
その長いリハビリのあと、03年3月のCLグループステージ、レアル・マドリード戦で復帰。79分にアンドレア・ピルロとの交代でピッチを去る際には、古巣サンチャゴ・ベルナベウのサポーターから心温まるスタンディングオベーションが贈られた。
しかし懸命のトレーニング虚しく、レドンドの膝は完全回復に至らなかった。そして03-04シーズンを最後に、34歳で現役を引退。引退後はブエノスアイレスに戻って悠々自適に過ごすが、最近では指導者を目指してライセンスを取得中であるという報道もされている。
ちなみにレドンドの妻ナタリアは、アルゼンチン代表のチームメイトだったサンティエゴ・ソラーリ(横浜マリノス監督も務めたホルヘ・ソラーリの息子)のいとこ。夫婦の次男フェデリコ・レドンド・ソラーリは、父親と同じポジションで将来を嘱望されるサッカー選手である。