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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》クルト・ハムリン(スウェーデン)

 

「北欧の韋駄天」

169㎝と小柄ながら当たりに強く、爆発的な加速力で相手DFを置き去りにした。「北欧の韋駄天」と呼ばれる俊足でサイドを突破し、鋭い得点感覚も備えて勝利に貢献。ドルブルの名手として、スタンリー・マシューズ、ガリンシャと並び称されたスウェーデンの右ウィンガーが、クルト・ハムリン( Kurt Roland Hamrin )だ。

 

自国のAKIソルナで「キング・オブ・ドルブル」の名を馳せ、56年にはイタリアの名門ユベントスへ引き抜かれる。セリエAの1年目は不振に終わるも、その後移籍したフィオレンティーナで本領を発揮し、コッパ・イタリア制覇とカップウィナーズ・カップ優勝に貢献。またACミラン時代の69年にはチャンピオンズカップ優勝も経験した。

 

自国開催となった58年W杯には、セリエAの先達であるニルス・リードホルムやグンナー・グレンとともに主力として出場。4得点を挙げて母国の決勝進出に大きく貢献するも、ペレ擁するブラジルに敗れて準優勝に終わった。

 

北欧の「キング・オブ・ドリブル」

クルト・ハムリンは1934年11月19日、画家カール・ハムリンの5男としてスウェーデンの首都ストックホルムに生まれた。

5歳になる頃からサッカーを始め、そのあといくつかのクラブを経て15歳でAKIソルナの下部組織に入団。17歳の時にトップチーム入りし、スーペルエッタン(2部リーグ)で1試合のみ出場する。

翌52-53シーズン、AKIソルナはアルスヴェンスカン(1部リーグ)昇格。19歳となったハムリンは、53年5月のIFKマルメ戦でトップリーグデビュー。実質2年目の53-54シーズンに22試合で15ゴールを記録してエースの名乗りを上げると、54-55シーズンは22試合で22ゴールを挙げてリーグ得点王。その突破力で「キング・オブ・ドリブル」の名を馳せた。

だが当時のスウェーデンにはプロリーグがなく、選手に支払われるのはゲームごとの出場給と勝利手当のみ。トッププレーヤーとなったハムリンでもサッカーだけでは飯が食えず、地元新聞社の印刷工として働き、結婚したばかりの生活費を稼いだという。

 

イタリア挑戦

クラブでの活躍により、53年10月に行なわれたW杯欧州予選のベルギー戦で19歳にして代表デビュー。同年11月のハンガリー戦で初ゴールを記録する。

そしてサッカー人生における転機のきっかけとなったのが、55年11月にリスボンで行なわれた親善試合のポルトガル戦。「スウェーデンに翼を持った選手がいる」の噂を聞きつけ、試合を観戦していたユベントスのコーチが、得点を決めるなどの活躍を見せたハムリンをスカウト。イタリア移籍が実現し、ハムリンは念願のプロ選手となった。

ユベントスに移籍した56年9月、セリエAデビューとなったラツィオ戦で2ゴールを記録。続けてトリノ戦、インテル戦、ウディネーゼ戦とゴールを重ねて最高のスタートを切るが、セリエAの厳しい洗礼を受けて足首を負傷。回復の時間が与えられないままのプレーを強いられ、次第にパフォーマンスは低下していった。

結局最初の勢いを失って8ゴールの成績に終わり、欠場を繰り返すハムリンは「ガラスの足首」と呼ばれ、「期待外れ」の汚名を負ってしまう。

翌57-58シーズン、ウルグアイのオマール・シボリとウェールズのジョン・チャールズがユベントスに加入。当時セリエAには1チームの外国人選手登録が2名までという制限があったため、ハムリンは押し出される形で放出処分。前年セリエAに昇格したばかりのACパドバにレンタルされる。

そんな失意にあったハムリンを蘇らせたのが、パドバを率いるネレオ・ロッコ監督。ロッコ監督はイタリアに導入されたばかりのカテナチオ戦術(オーストリア人監督が考案)の遣い手として知られ、のちにACミランで2度のチャンピオンズカップ優勝を果すことになる名将である。

ロッコ監督のもとで居場所を見つけたハムリンは、プレーメーカーのローザ、FWのブリゲンティとパートナーシップを結んで30試合20ゴールの大活躍。降格圏の常連だった弱小チームを過去最高成績のリーグ3位に押し上げ、「北欧の韋駄天」の名をほしいままにした。

 

ワールドカップへの参加

北欧の強豪として48年ロンドン五輪金メダル、50年W杯ブラジル大会3位など輝かしい実績を残してきたスウェーデンだが、国内にプロリーグがなかったこともあり、代表チームはアマチュア(もしくはセミプロ)選手のみで構成されていた。

マチュアリズムを貫くスウェーデン代表で、ACミランで活躍した「 “グレ・ノ・リ” トリオ(グンナー・グレン、グンナー・ノルダール、ニルス・リードホルム)」らのプロ選手が代表に呼ばれることはなく、ハムリンもイタリア移籍のきっかけとなったポルトガル戦が最後の代表キャップ。トップ級の選手を欠いて54年W杯は出場を逃していた。

だが自国開催のW杯が近づき、サッカー協会はチーム編成を巡って紛糾。国内選手のみで出場メンバーを固めるか、国外のプロ選手を加えるかで議論は沸騰した。その判断は英国人監督のジョージ・レイナーに託され、大会を1ヶ月後に控えてプロ選手の参加が決定する。

こうしてW杯メンバーとして招集されたプロ選手は、ハムリン、リードホルム、グスタフソン、スコグルンドの4人。また国内に戻ってセミプロとなっていた38歳のグレンも代表に呼ばれた。

大会本番への陣容を整えたスウェーデン代表だが、23歳のハムリン以外、プロ経験者の4人はキャリアのピークを過ぎたベテラン揃い。平均年齢30歳を越えるチームに、国民の期待は決して高くなかった。

 

勝ち進む開催国

58年6月、Wカップスウェーデン大会が開幕。開幕戦となったメキシコとの試合では、力の差を見せつけて3-0の完勝。続く第2戦で前回準優勝のハンガリーと対戦する。前半の34分にハムリンのゴールで先制すると、後半の55分にもハムリンが追加点。ハンガリーの反撃を終盤の1点に抑え、スウェーデンが2-0の勝利。早くもグループ突破を決めた。

主力を温存した第3戦はウェールズと0-0で引き分け、グループ1位でベスト8進出。準々決勝の相手は大会初出場のソ連となった。

スウェーデンが序盤から主導権を握るも、名手レフ・ヤシンの好守に阻まれて前半を0-0。後半に入ると中1日でゲームに臨んだソ連に疲れが見え始め、ハムリンのドルブル突破で何度もチャンスを作る。

そして49分、サイドに走り込んだハムリンがゴール前へクロス。一旦そのボールは跳ね返されるが、こぼれ球をハムリン自らヘッドで押し込んで先制。終了直前の87分にも、ハムリンのお膳立てからシモンソンが追加点。2-0の快勝で準決勝へ進む。

準決勝で戦うのは、前回チャンピオンの西ドイツ。それまでおとなしかった地元の観客も、この試合では盛大な声援を繰り広げるようになっていた。

試合は立ち上がりからスウェーデンが優勢となるも、24分にウーベ・ゼーラーのクロスからハンス・シェーファーのボレー弾を許し失点。だがその10分後、リードホルムの突破により同点ゴールが生まれ、1-1でハーフタイムを折り返す。

後半に入るとハムリンのスピードに乗ったドリブルが西ドイツを苦しめ、57分にはDFユスコビアスのファールを誘い退場処分に追い込む。だが74分、西ドイツ主将フリッツ・バルターへの悪質なファールで、今度はスウェーデンのバールリンが退場となる。

足を負傷したバルターがピッチを離れて治療を受けている間の80分、ハムリンのシュートがブロックされたところをグレンが詰めて勝ち越し点。さらに終了直前の88分、ハムリンが右サイドで3人を抜き去りシュート。鮮やかなゴールが決まった。

このままスウェーデンが3-1と勝利。当初期待されていなかった開催国チームが、ついに決勝へと勝ち上がった。

 

主役の座を譲った決勝戦

決勝の相手となったのは、大会随一の陣容を揃えるブラジル。開始4分、グレンのパスからリードホルムが先制弾。これで地元スウェーデンが主導権を握ったかに思えたが、その7分後にはガリンシャのドリブル突破からババの同点ゴールを喫してしまう。

さらに32分には同じ形でババの逆転ゴールを許し、後半55分にはペレの芸術的なゴールでリードを広げられる。68分にマリオ・ザガロに4点目を決められ、80分にシモンソンが1点を返すも、90分にはペレのヘディングゴールでとどめを刺された。

ベテラン揃いのスウェーデンは躍動するブラジルに2-5と完敗し、開催国優勝は果たせなかった。準決勝まで大活躍のハムリンも、ブラジルDFの両サントス(ニウトンとジャウマ)に封じられ、仕事をさせて貰えないまま終わった。

 

フィオレンティーナでの栄光

パドバとW杯での活躍は、ブラジル人ウィンガー、ジュリーニョの後釜を探していた強豪フィオレンティーナの関心を呼び、58年の夏に完全移籍する。

フィレンツェの町の落ち着いた雰囲気はハムリンとも相性が良く、移籍1年目の58-59シーズンから32試合26ゴールを記録して得点ランキング3位。クラブのリーグ2位に大きく貢献する。また優れた得点能力で2桁ゴールを記録し続け、リーグ得点ランキング2位に2度もなった。

フィオレンティーナでは9シーズンを過ごすことになり、この間コッパ・イタリア優勝2回、欧州カップウィナーズ・カップ優勝2回、ミトローパカップ中欧クラブ杯)優勝1回に大きく貢献。ハムリンは華麗なドリブルで観客を魅了、空中を駆けるような速さと軽やかなステップから「ウッチェリーノ(小鳥)」と呼ばれた。

しかしリーグ戦では毎年のように優勝争いに加わるものの、2季連続2位に終わるなどついにスクデットを獲得することができなかった。シボリら「魔法のトリオ」を擁するユベントス、アルタフィーニとスキアフィーノの南米コンビを擁するACミラン、そして「グランデ・インテル」の黄金期を築いたインテル・ミラノと、3強の壁に阻まれてしまったのだ。

長らくフィオレンティーナの人気選手として活躍したハムリンだが、クラブの若返り策により、32歳となっていた右ウィンガーの放出が決定。67年に夏には恩師ネレオ・ロッコが監督を務めるACミランへ移籍する。

9シーズン在籍したフィオレンティーナでは、リーグ戦289試合に出場して150ゴールを記録。これはのちにガブリエル・バティストゥータに破られるまで、クラブの歴代最多得点記録だった。

 

チャンピオンズカップ優勝に貢献

58年W杯後、ハムリンはしばらく代表から遠ざかるが、64年の欧州ネイションズカップ(のち欧州選手権)で6年ぶりに復帰。ホーム&アウェーで行なわれた予選ラウンドで2ゴールを挙げて準々決勝進出に貢献するも、ソ連に敗れてスペイン開催の本大会に進むことはできなかった。

65年にはW杯イングランド大会の欧州予選に参加し、ハムリンは西ドイツ戦でゴールを記録。しかしスウェーデンはグループ2位で敗退となり、これを最後に30歳で代表を退く。実質8年の代表歴で32試合に出場、17ゴールを挙げている。

移籍したミランでは出番が減ってしまったが、ジャンニ・リベラを中心としたチームは67-68シーズンのセリエA制覇と欧州カップウィナーズ・カップ優勝の2冠を達成。ハムリンはようやく念願のスクデットを手にした。

翌68-69シーズン、古巣のフィオレンティーナが13季ぶりのリーグ優勝。前年王者のミランは3位に終わったものの、チャンピオンズカップでは6季ぶりとなる準決勝に進出する。

準決勝の相手は、前年王者のマンチェスター・ユナイテッドボビー・チャールトンジョージ・ベスト、デニス・ローの “バロンドールトリオ” を擁し、当時黄金期を築いていた最強クラブである。

ホームの第1戦は、ハムリンの得点などで2-0の完勝。アウェーの第2戦はB・チャールトンのゴールを許して0-1と破れるが、2戦合計2-1として決勝に進んだ。

決勝で戦ったのはアヤックス・アムステルダム。当時21歳のヨハン・クライフを擁し、オランダ勢として初めて決勝に勝ち上がってきた新興チームだった。

ミランはこの新興チームを相手にせず、4-1の圧勝。右ウィングとして優勝に貢献したハムリンは、スクデットに続いてビッグイアー(優勝杯、“大きな耳” の意)も手中にした。

 

引退後のキャリア

翌69年にはナポリへ移籍。ここで2シーズンを過ごし、71年にプロのキャリアを終える。ナポリ退団後は古豪プロベルチェッリの監督に就任するも、成績不振により3ヶ月で解任されている。

これで指導者のキャリアに見切りをつけ、72年にはスウェーデンへ帰国。IFKストックホルムセミプロとして10試合に出場したあと、37歳で現役を引退した。

母国では陶器輸入事業に携わるも上手くいかず、フィレンツェに移り住んで保険代理店を営みながらジュニアサッカースクールを運営。98年からは10年間ACミランのスカウトを務めた。90歳近くなった現在もフィレンツェで余生を送っている。