「冬の時代の伝道師」
日本サッカーが「冬の時代」と呼ばれた長い低迷期(1970~80年代)を過ごした時代、国内サッカーリーグ(JSL)に大きな足跡を記したのが、ブラジルから来た日系人選手だった。
ヤンマーディーゼルの補強策を端緒とし、ブラジルから助っ人選手が続々来日。海外の情報が少なかった時代にフットボール先進国の技術を持ち込み、当時のサッカー少年たちに小さからぬ影響を与えた。
その中でもネルソン吉村、セルジオ越後、与那城ジョージの3人は、長きにわたり日本サッカーの普及・発展に貢献。「冬の時代の伝道師」として大きな業績を残している。
ネルソン吉村は1947年8月16日、サンパウロ州郊外のアダマンティナという田舎町で生まれた。父は13歳で熊本からブラジルにわたり、現地で生まれ育った日系移民2世の母と結婚している。
小さい頃から自然にサッカーに親しみ、16歳でサンパウロの中心街に引っ越すと、日系2世連合会(AUSP)が運営する日系人リーグのクラブ、“グレミオ・レクラチーボ・トウキョウ” に所属する。
66年、“トウキョウ” がAUSPの大会で優勝。当時18歳のネルソンは大会得点王となり、注目される存在となる。そんなときヤンマーディーゼルが、現地法人を通じて彼に日本行きを持ちかけてきた。
デッドマール・クラマーの提言により65年にJSLが発足。ヤンマーは関西唯一のチームとして、最初の年から新設リーグに参戦した。しかしチームの成績は低迷。なんとか関西出身の大型新人・釜本邦茂を獲得したものの、まだまだ戦力は不足していた。
そこで目をつけたのは、自社工場を持つブラジルでの人材発掘。ヤンマーの関係者がAUSPに相談すると、すぐにネルソン吉村の名前が挙がった。
しかしその話を持ちかけられたネルソンは完全拒否。だが熱心に日本行きを勧める父親の説得に折れ、1年間という約束で19歳にして未知の国へ渡った。
サッカー未開の地の先駆者
当時のヤンマーのレベルは、ブラジルの草サッカー以下。誰ひとりリフティングも満足に出来ないのを見て、ネルソンは驚きを通り越して呆れてしまったという。
ブラジル時代はFWとして活躍したネルソンだが、こんなチーム事情から中盤にポジションを移し、攻撃の舵取り役を担うことになった。
柔軟なテクニックを持つネルソンのプレーは、当時ボールを前に蹴るだけだった日本では衝撃的なもの。チームで唯一信頼できる釜本とホットラインを組み、エースのゴール量産をアシスト。ヤンマーは着実に力を伸ばし、天皇杯初制覇も果たす。
日本滞在は延長され、翌69年にヤンマーはブラジル黒人選手のカルロス・エステベスを補強。さらに70年には日系選手のジョージ小林も加入した。
また優秀な若手も育ち、ヤンマーの戦力は充実。60年代の終わりから80年代の初めに、天皇杯優勝3回、準優勝5回。JSL優勝4回、2位4回と、一時代を築くことになる。
ヤンマーの成功は、JSLの他のチームも影響を与えた。JSLでパウロ横山、セイハン比嘉、セルジオ越後といった選手が活躍しだすと、やがて助っ人補強は日系以外のブラジル選手へと広がり、日本サッカーは徐々にレベルアップしていく。
70年、ネルソンは日本選抜に呼ばれ、日の丸をつけて招待チームのサウサンプトンやベンフィカと対戦。同年12月には、“吉村大志郎” の名前で日本国籍を取得。日本代表に選ばれアジア大会に出場する。
当時は帰化審査が現在のように厳しくなく、3枚の書類にサインをしただけで手続きが終わったと言われる。そして74年の日韓定期戦では鮮やかなダイレクトシュートを決めて、15年ぶりの韓国戦勝利に貢献した。
日本代表では6年間プレー。Aマッチ46試合に出場し、7得点の記録を残した。ヤンマーでは80年までプレー。チームのプレーイングマネージャーを務めていた釜本から、コーチ就任の要請を受けて32歳で現役を引退。14年間でリーグ戦189試合の出場を果たし、30得点を挙げている。
セルジオ越後の歩み
セルジオ越後は1945年7月28日、サンパウロ州都のサンパウロ市で生まれた。父親はサンパウロの銀行員。姫路から単身ブラジルに渡り、熊本出身の母親と出逢って結婚した。
現地生まれのセルジオは草サッカーでプレーを磨き、17歳のときにコリンチャンスの入団テストに合格。そしてクラブのジュニオール(ユースチーム)で活躍、東京五輪の代表候補に名を連ねるまでになった。
そのオフシーズン、日系人チームから声を掛けられ、軽い気持ちで試合に参加。たまたまそのプレーを見ていたサントスFCのサテライトコーチから、スカウトされる。
結局サントス入団には至らなかったが、王様ペレを擁した最強チームに誘われたことでセルジオの株は上がり、64年にコリンチャンスとプロ契約を交すことになった。
「サッカーが下手」と思われていた日系人のプロ契約は快挙とされ、地元の新聞でも大きく報じられている。
この年、ユースからトップチームに昇格したのはセルジオを含めて4人。そのうちの一人は、後に代表でペレの10番を受け継ぐことになるリベリーノだった。
セルジオは、自らが編み出したフェイント技「エラシコ」を紅白戦で駆使。その妙技は周囲のチームメイトたちを驚かせた。それをリベリーノが真似したことから有名な技となり、のちにロナウジーニョが得意として彼の代名詞にまでなった。
だがコリンチャンスとの契約は1年で終了。セルジオはアマチュアとしてプレーを続けながら、鉄骨会社に就職して営業の仕事に従事する。
27歳で日本へ
72年、27歳となった彼に、JSL1部に昇格したばかりの藤和不動産からオファーが舞い込む。こうして日本に向かったセルジオだが、思わぬ待ちぼうけを食らうことになる。
当時のJSLには、まだ純粋なアマチュアリーグの精神が残っていた。そのため、元プロ選手の経歴を持つセルジオの試合出場が問題視されたのである。
日本協会でこれについての議論がなされ、いつ結果が出るのか分からない状況でセルジオは不安な日々を過ごす。だがリーグ戦開幕直前、何の前ぶれもなく出場許可が下り、無事日本デビューを果たすことになった。
ちなみにこれ以降、来日・登録から半年間、外国人選手の出場を認めないという規定が設けられ、プロの受け入れが進んだ86年まで続けられている。
当時の日本サッカーで、ブラジルの元プロ選手の高い技量はまさに出色。長短の正確なパスと、多彩なフェイント、そして緩急を使った巧みなボール運びは相手チームを翻弄した。
藤和では2年あまりプレー。弱小クラブで40試合6ゴール5アシストの記録を残し、74年に29歳で引退した。日本への帰化も打診されたが、それを断っている。
藤和でのセルジオは、選手を押さえつける日本流の不合理な指導に反発。監督にはっきり意見をぶつけ、時に衝突も辞さなかった。
その精神は、セルジオがチームを辞めたあとも後輩に引き継がれた。藤和は75年にフジタ工業(現、湘南ベルマーレ)へ改称。セルジオの紹介で優秀なブラジル人助っ人を補強し、自立心を持った日本人選手が成長。77年にリーグ初優勝を果たしている。
与那城ジョージの歩み
与那城ジョージは1950年11月28日、サンパウロの郊外で生まれた。両親は沖縄からの移民。ジョージは5人兄弟の末っ子として育ち、「馬鹿」がつくほどサッカーにのめり込んだ。
19歳を過ぎた頃に、兄を追いかけてAUSPの “トウキョウ” へ入団。小柄ながらスピードあふれるプレーでCFやMFとして大活躍し「チグリーニョ(小さな虎)」というニックネームで呼ばれた。
やがてネルソン吉村に続くヤンマーへの助っ人として名前が挙がるも、そのときの話は流れていった。だがすぐに、JSL2部の読売クラブからオファーが舞い込み、21歳のジョージは迷うことなく日本行きを決める。
72年の9月に来日。初練習では、バックス3人を一気にドリブルで抜き去ってのシュートを披露。誰ひとりボールに触れられないその凄技に、みな呆気にとられるだけだったという。
1年目はシーズン途中の加入だったものの、9試合で5ゴール。翌73年は18試合にフル出場し、15ゴールの活躍を見せる。74年は13ゴールで初の2部得点王に輝き、そのあと3年連続でアシスト王となる。
チームも7位、3位、優勝、2位、2位と順調に成績を伸ばしていったが、74年から3年連続で入れ替え戦に敗れ、読売は1部昇格を果たせずにいた。
3年で帰国するつもりだったジョージだが、そのままチームに留まり、77年の2部リーグ優勝に貢献。そしてついに4度目の挑戦で入れ替え戦を突破し、念願の1部リーグ入りを果たした。
さらにこの年、ジョージはAUSPの仲間に補強選手の推薦を依頼。自らブラジルに赴き、5~6人の候補から2人の選手を選ぶ。その1人がルイ・ラモス(ラモス瑠偉)だった。
「ミスター・ヨミウリ」
ジョージとラモス、そして永大産業から移籍してきたジャイロとのトリオによる、ワンツーを駆使したパスサッカーは観客を魅了。ここから読売のブラジルスタイルが生まれ、日本リーグに新風を吹き込んだ。
読売は昇格の1年目からリーグ4位と好成績を収め、翌79年は優勝争いを演じて2位となった。そして83年には、ついに悲願のJSL1部初制覇。チームの大黒柱となったジョージは、「ミスター・ヨミウリ」の称号で呼ばれるようになる。
84年、読売は2人の欧州人選手を補強。1試合で起用できる外国人枠は3人だったため、クラブはジョージに帰化を要請する。それをジョージは承諾、85年2月に “与那城ジョージ” の名前で日本帰化が認められた。
するとジョージは森孝慈監督によって日本代表に招集され、34歳で日の丸をつけることになった。そして、85年10月26日に国立競技場で行われたWカップ・アジア最終予選の韓国戦で、初出場を果たす。
この大事な試合は木村和司「伝説のFK」で韓国に追いすがるも、力及ばず1-2の敗戦。11月3日のアウェー戦も0-1と敗れ、日本はまたもやアジアの壁に跳ね返されてしまう。
ぶっつけ本番で出場したジョージも実力を出し切れず、代表キャップはこの2試合に留まった。そしてこれを機に、現役引退も決意。読売クラブの14年間で、1部・2部通算239試合に出場、93ゴールの記録を残した。
ネルソン吉村は、10年間ヤンマーのコーチを務めたあと、90年に監督へ昇格。そのあとチームが93年にセレッソ大阪へと移行するまで、3年間指揮を執った。
Jリーグ開幕時には他チームからも好条件の勧誘を受けるが、それを固辞してヤンマーの社員として会社に残り、セレッソの若手発掘と育成に尽力する。
03年11月1日、脳出血により急死、享年56歳。10年に日本サッカー殿堂入りとなった。
引退後ブラジルに帰国していたセルジオ越後は、永大産業コーチ就任の要請を受け75年に再来日。永大サッカー部は77年に廃部となったが、自主的に子供たちへの指導を行っていたことから、サッカー教室開催のきっかけが生まれた。
78年、日本協会がジュニア育成に力を入れ始めると、セルジオはコカ・コーラ社の協力を得て「さわやかサッカー教室」の普及活動を開始。02年までに日本全国の1000ヶ所以上を巡り、延べ50万人以上の子供たちを教えたという。
その一方で、なまりの強い日本語と辛口評のコメンテーターとしても知られ、70半ばを過ぎた現在も精力的な活動を続けている。
与那城ジョージは、86年の引退と同時に読売クラブの監督に就任。ラモス、松木安太郎、加藤久、戸塚哲也、都並敏史ら主力に加え、武田修宏、菊池新吉、堀池巧らのルーキーも活躍。いきなりリーグ優勝と天皇杯制覇の2冠を達成する。
4年間読売クラブを指揮し、Jリーグ開幕後は名古屋グランパスや京都サンガでコーチを務めた。そのあともJFLなどの各クラブで監督を歴任、現役の指導者として今も活躍中である。