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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》エドガー・ダーヴィッツ(オランダ)

 

スリナム生まれの闘犬」 

無尽蔵のスタミナでピッチを駆け回り、攻守に稼働したディフェンシブハーフ。小柄ながら頑丈な身体とフィジカルの強さを持ち、相手に食らいつくような激しいプレースタイルから「闘犬」と呼ばれたのが、エドガー・ダーヴィッツ( Edgar Steven Davids )だ。

 

スリナム系の仲間であるクライファートセードルフとともにアヤックスで頭角を現し、リーグ連覇と95年のチャンピオンズリーグ優勝に貢献。その後移籍したユベントスでも、チームの心臓として欠かせない存在となった。

 

ドレッドヘアーと、ゴーグルを装着してプレーする姿がトレードマーク。オランダ代表では人種対立による内紛を起こすが、98年のWカップではベスト4進出に大きな役割を果たしている。

 
アヤックスでのキャリア開始

ダーヴィッツは1973年3月13日、南米スリナム共和国の首都パラマリボで生まれた。彼がまだ幼児の頃、一家はオランダのアムステルダムに移住。3度のトライアルを経て、12歳のダーヴィッツ少年はアヤックスの育成組織に加わった。

91年、ダーヴィッツは18歳でトップチーム昇格。9月6日のRKCヴァールヴァイク戦で公式戦デビューを果たし、シーズン13試合に出場。UEFAカップ優勝も経験する。

優れた育成システムを持つアヤックスには次々と若手が育ち、ダーヴィッツと同じスリナム系のクライファートセードルフを始め、ファン デルサール、フィディニ・ジョージ、ヌワンコ・カヌー、オーフェルマルスヤリ・リトマネンら有望選手の宝庫となっていた。

レギュラーとなった92-93シーズンはオランダカップを制覇、93-94シーズンには5季ぶりのリーグ優勝を果たす。そして94-95シーズンはエールディヴィジを連覇し、チャンピオンズリーグでは14年ぶりに決勝へ進んだ。

CL決勝では前回チャンピオンのACミランと対戦。0-0で進んだ85分、途中出場した18歳のクライファートが、ライカールトのアシストから当時大会最年少となるゴールを決めてアヤックスが1-0の勝利。70年代前半のクライフ時代以来となる、ビックイヤーを手にした。

同年12月には、東京国立競技場で行われたトヨタカップに出場。南米王者のグレミオPK戦で下して、クラブ世界一の称号も獲得する。

ダーヴィッツは驚異的な運動量と持ち前の闘争心で中盤を支配。ボールを奪ってからの展開が早く、機敏な攻守の切り替えによるチャンスメイクはアヤックスの快進撃を支えた。アヤックス監督のルイ・ファン ハールは、ハードスタイルで奮闘するダーヴィッツを、「ピットブル(闘犬の一種)」と呼んで重用した。

 

トラブルメーカーの挫折と再生

オランダ代表には、94年4月20日の親善試合・アイルランド戦で国際Aマッチデビュー。同年のWカップではメンバーに選ばれなかったが、96年のユーロ・イングランド大会で初めて大舞台のピッチに立つことになった。

G/L初戦のスコットランド戦でフル出場を果たすも、結果はスコアレスドロー。続くスイス戦は1-0とリードした終盤に途中出場、僅か8分間のプレーに終わった。

スイス戦での起用に不満を持ったダーヴィッツは、「ヒディンク(監督)はお気に入り選手のケツばかり舐めるのをやめろ」とインタビューで暴言。また白人選手とも対立し、大会中に強制帰国させられてしまう。

それでもアヤックスでは、95-96シーズンのリーグ3連覇とUEFAスーパーカップ優勝に貢献。翌96-97シーズンには、イタリアの名門ACミランへの移籍を果たす。

しかし移籍した1年目は、チームの戦術に馴染めず15試合の出場にとどまる。しかも自己主張の強いダーヴィッツは、ミランの中心選手であるマルディーニコスタクルタと軋轢を起こし、プレーにも精彩を欠いてしまった。

2シーズン目の序盤には右足を骨折。ダーヴィッツは長期離脱を余儀なくされ、チームへ復帰した時にもはや彼の居場所は無くなっていた。そんな手負いの「闘犬」に声を掛けたのが、ライバルクラブのユベントスである。

98年1月、シーズン途中でユベントスに移籍。そのエネルギッシュな働きはジダンデル・ピエロの攻撃力を助け、スクデット獲得とCL決勝進出に大きな役割を果たす。こうしてダーヴィッツは、ユベントスで見事な復活を遂げることになった。

 

フランス・ワールカップの活躍

98年のWカップを控え、ヒディンク監督はダーヴィッツと話し合いの場を持つ。こうして二人は和解、ダーヴィッツはWカップの代表メンバーに選ばれた。さらにヒディンクライカールトを代表コーチに招聘、白人とスリナム系の対立が続くチームの融和を図る。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。ヒディンク監督の融和策は功を奏し、一体となったオランダは順調にG/Lを1位で通過。ダーヴィッツは豊富な運動量と展開力でチームを支えた。

決勝トーナメントの1回戦は、ユーゴスラビアとの対戦になった。1-1で迎えた後半の50分、ミヤトビッチがPKを失敗。オランダは最大の危機を逃れ、試合は同点のまま90分を過ぎていった。

そのロスタイム、果敢に飛び出したダーヴィッツが25mの距離から左足シュート。鮮やかな決勝ゴールが決まり、オランダは準々決勝へ勝ち上がった。

準々決勝のアルゼンチン戦も接戦となったが、1-1で進んだ終盤の89分、ベルカンプが芸術的なトラップから決勝弾。オランダは接戦を制して20年ぶりのベスト4入りを果たす。

準決勝はPK戦でブラジルに敗北。3位決定戦もクロアチアに2-1と敗れて大会4位に終わってしまうが、期待以上の結果に自国開催となるユーロ2000への期待が高まった。

 

闘犬のトレードマーク

98-99シーズンの開幕戦、ユベントスセリエAに昇格したばかりのペルージャと対戦。ゲームはユベントスが4-3で勝利したが、セリエA初登場の中田英寿が2ゴールの衝撃デビュー。試合終了後、ダーヴィッツは中田のもとに駆け寄り「お前、本当に日本人なのか?」と尋ね、ユニフォーム交換もしている。

この頃、アヤックス時代から患っていた緑内障が悪化。シーズン終了後に左目の手術を受け、99年9月の代表親善試合、ベルギー戦で初めて保護ゴーグルを装着してプレーする。そしてこれ以降、ゴーグル姿が彼のトレードマークとなった。

2000年6月、ライカールト監督率いるオランダは自国開催のユーロ(ベルギーと共催)大会に出場。優勝を期待されるも、準決勝でイタリアにPK戦の末敗れ、4位の成績にとどまってしまう。そして大会終了後、ライカールトは監督を辞任する。

 

絶えないトラブル

01年4月23日、ウディネーゼ戦のあとに抜き打ちのドーピング検査が行われ、ダーヴィッツの尿から禁止薬物のナンドロロン(筋肉増強剤)が検出された。

潔白を訴えるダーヴィッツだが、セリエA規律委員会の裁定は罰金と5ヶ月の出場停止(のち4ヶ月に軽減)処分。さらに復帰戦でも乱闘騒ぎの主役となり、再び出場停止処分を受けてしまう。

02年にはマルチェロ・リッピ監督とも諍いを起こし、クラブとの関係は冷却化。同年12月にはオファーのあったローマへの移籍を訴えるが、クラブは問題児のワガママを許さなかった。03-04シーズン、ガーナ代表アッピアーの入団により出場機会は激減。トラブルメーカーのダーヴィッツは飼い殺し状態となった。

そんなとき、ユーロ04を控えてダーヴィッツのコンディションを憂慮したオランダ代表のアドフォカート監督が、バルセロナライカールト監督に提言。こうしてダーヴィッツは半年間の期限付きで、04年1月からバルセロナへレンタル移籍することになった。

するとダーヴィッツのハードワークはバルサの中盤を安定させ、しばらく低迷を続けていたチームをリーグ2位に押し上げる活躍を見せた。そのプレーが認められ、04-05シーズンにはインテル・ミラノへ完全移籍することになる。

 

衰えない闘争心

オランダがW杯の欧州予選で敗退を喫したため、02年日韓大会は不参加。それでも2年後のユーロ04・ポルトガル大会では無事に予選を突破し、本大会ベスト4進出に貢献する。

大会後にファン バステンが代表新監督に就任し、ダーヴィッツはキャプテンに指名される。だがインテルでの不振が響き、05年は僅か1試合の出場。06年のWカップメンバーにも選ばれず、代表でのキャリアを終える。11年間の代表歴で74キャップを刻み、6ゴールの記録を残した。

05-06シーズンは、プレミアリーグトッテナム・ホットスパーへ移籍。最初の1年は31試合に出場して存在感を示すが、またもや監督やチームメイトとトラブルを起こしてしまう。すると2年目は若手の台頭もあって、9試合と出番が激減する。

07年の1月にトッテナムを途中退団して、古巣のアヤックスに復帰。オランダカップ決勝のAZ戦で貴重なPKを決めて、優勝に貢献した。

だが07-08開幕前のプレシーズンマッチで、プロテクターを装着せずに出場して左足を骨折。前半戦の3ヶ月間を無駄にしてしまう。そして08年の6月にアヤックスとの契約が終了。しばらく浪人の身となるが、10年の2月にチャンピオンリーグ(イングランド2部)のクリスタル・パレスに入団する。

12年にはリーグ2(4部リーグ)のバーネットと、選手兼任監督として契約。だが13年12月の試合でシーズン3度目の退場となると、ジャッジに異議を唱えて39歳で現役を引退する。そして翌14年には、成績不振から監督の座も退くことになった。

その後オランダ2部テルスターのアシスタントコーチを経て、21年1月にはポルトガル3部オリャネンセの監督に就任。だがその初陣でいきなりレッドカードを喰らうなど、闘犬の暴れん坊ぶりは相変わらずだ。