「狂気のセービング」
仁王のような威圧感で相手の前に立ち塞がり、俊敏な反応と優れたセービング技術でゴールを死守した。その強烈な個性と闘争心、強いリーダーシップでチームを牽引したドイツの守護神が、オリバー・カーン( Oliver Rolf Kahn )だ。
がっちりとした身体でFWに詰め寄る姿は迫力満点、1対1の場面で強さを見せた。劣勢のゲームで何度も決定的ピンチを防ぎ、バイエルン・ミュンヘンに多くのタイトルをもたらす。
代表で正GKの座を掴んだのは30歳と遅かったが、主将を務めた日韓W杯では精神的支柱としてチームを鼓舞。決して前評判の高くなかったドイツを準優勝に導き、大会MVPに選ばれた。
カーンは1969年6月15日、西ドイツ南部の都市カールスルーエで生まれた。ラトビア生まれの父ロルフは、カールスルーエSCの元プロ選手。怪我で諦めざるを得なかったサッカーへの想いを父親から託され、オリバー少年は6歳の頃から地元クラブでプレーを始める。
9歳でカールスルーエの下部組織に入団。向上心にあふれていたカーンは、明けても暮れても練習漬けの毎日を過ごし、GKとしての研鑽を積んでいった。
18歳となった86-87シーズンの開幕前、彼にトップチーム昇格のチャンスが訪れた。チーム第2キーパーの座が空席となり、若い選手が充てられることになったのだ。
候補に挙がったのはユースチームのカーンと、アマチュアクラブでプレーするヴィマーという選手。カールスルーエのシェーファー監督は、直接彼らの力を見極めるため、二人を練習場に呼んでテストを行った。
最初はヴィマー選手がゴール前に立ち、シェーファー監督自らが10本のキックを蹴ってテストを行った。傍らでその様子を見つめていたカーンは、自分の番が来ると、悠然とした足取りでゴールに向かう。
シェーファーが蹴った10個のボールは周辺に散らばったまま。ゴール前で動こうとしないカーンに、監督が「一体誰がボールを持ってきてくれるんだい?」と叫ぶと、気押されたヴィマーが「すみません」と言って球を拾いだした。
ふてぶてしい態度にカッとしたシェーファーが強いボールを蹴り込むと、カーンはもっと来いと挑むような姿勢。いつしかテストはキーパー練習の様相を呈していった。シェーファー監督はその心臓の強さに感心し、迷うことなくカーンをトップチームに引き上げる。
87年11月、リーグ戦のFCケルンとの試合でプロデビュー。試合は0-4と惨敗し、ブンデスリーガのデビュー戦を飾れなかった。
当時のチームには経験豊富な守護神ファムラが君臨していたため、若いカーンはしばらく控えに甘んじる事になる。それでも着実に経験を重ね、22歳となった91-92シーズンにようやく正GKの座を手にした。
そこからカーンの躍進が始まり、初の国際舞台となる93-94シーズンのUEFAカップで存在感を見せる。16強のFCバレンシア戦は、敵地の第1レグで1-3と敗れて劣勢に追い込まれるも、気落ちするチームを叱咤してホームの第2レグで7-0の大勝。歴史に残る大逆転劇を演出し、チーム初のベスト4入りに貢献した。
その活躍が認められ、翌94-95シーズンはブンデスの名門バイエルン・ミュンヘンに移籍。ドイツ代表にも選ばれ、第3キーパーとしてアメリカW杯に参加した。しかし移籍早々の94年11月、レバークーゼンとの試合中に味方DFとぶつかり、右膝十字靱帯断裂の大怪我を負ってしまう。
それでもリハビリ中に自分を見つめ直したカーンは、フォームの改造に着手。驚異的な回復力で5ヶ月後にチームへ復帰すると、すぐに正GKの座を得た。しかしチームの成績は低迷、前シーズンの優勝からリーグ6位へ転落する。
95-96シーズン、復権を目指すバイエルンはクリンスマン、スフォルツァ、ヘルツォークら大型補強を敢行。決勝に進んだUEFAカップでは、ボルドーを3-0と下して大会初制覇を果たす。
96-97シーズンはリーグタイトルを奪回。97-98シーズンは12年ぶりとなるDFBポカール(ドイツカップ)優勝を果たし、カーンは不動の守護神としてチームに君臨。その偉容は、ギリシャ神話の巨人 “タイタン” にも例えられた。
その一方、本能むき出しでプレーするカーンは、手抜きする味方DFの首根っこを掴まえて振り回したり、興奮して相手選手の首を噛んだりと、振る舞いがまるでゴリラのようだとメディアに面白がられるようになってしまった。
98-99シーズン、バイエルンはチャンピオンズリーグの決勝へ進出。ベッケンバウアーやゲルト・ミュラーを擁した70年代黄金期に続く、欧州制覇のチャンスを得た。
決勝の相手はマンチェスター・ユナイテッド。この年プレミアリーグとFAカップを制覇、CL優勝でのトレブル(3冠)達成を狙う強敵だった。
99年5月26日、バルセロナのカンプノウ・スタジアムで決勝の試合が行われた。開始6分にバスラーのFKでバイエルンが先制。反撃を図るユナイテッドに対し、バイエルンはマテウスを中心とした堅い守備と、カーンの安定したセービングで失点を防いだ。
そしてついにゲームは後半のロスタイムに突入。バイエルン23年ぶりの栄冠に向け、試合終了の瞬間が近づく。
だがロスタイムの90分35秒、ベッカムの左CKからシェリンガムに同点ゴールを決められ、土壇場で試合は振り出しに戻った。さらに92分17秒、再びベッカムの左CKからスールシャールが決勝ゴール。「カンプノウの奇跡」と呼ばれるロスタイム102秒の逆転劇に、優勝を目前にしたバイエルンは沈んだ。
90分間ゴールを死守しながら、最後の最後で決定的なゴールを許してしまったカーン。さすがの彼も心に深い傷を負い、しばらく敗戦のトラウマに苦しめられることになる。
ドイツ代表での不遇
イルクナー、ケプケに続く第3キーパーとして参加した94年Wカップではカーンの出番はなく、95年6月のスイス戦でようやく代表デビューを果たす。
そして第2キーパーに昇格したユーロ96も、優勝したドイツチームにあって、彼に出場機会が与えられることはなかった。最初こそ経験を積むためと割り切っていたカーンだが、いつまでも控えに甘んじる状況に、心穏やかでいられなくなる。
その後バイエルンで絶対的守護神となったカーンは、万全の体調で98年のWカップ・フランス大会に臨む。しかしフォクツ監督が正GKに選んだのは、36歳となった大ベテランのケプケだった。
ドイツは準々決勝でクロアチアに敗退。結局カーンが大舞台のピッチに立つことはなく、失意のまま大会を去って行った。
Wカップ後、ケプケが代表を引退。ようやくカーンに正GKの座が巡り、満を持してユーロ2000(オランダ・ベルギー共催)に出場する。だがドイツはG/Lで屈辱の最下位となり敗退。またもカーンは代表で力を発揮することは出来なかった。
決して諦めない男
99-00シーズンのリーグ戦、最終節の試合を残してバイエルンは2位。首位レバークーゼンとは3ポイント差をつけられていた。レバークーゼン最終節の試合は、下位に低迷するウンターハヒングが相手とあって、バイエルンの逆転優勝は難しいと考えられた。
しかしカーンは「勝負は最後まで分からない」と仲間を鼓舞。バイエルンが最終節でブレーメンに3-2と勝利すると、レバークーゼンが0-2で敗れたという知らせがもたらされ、バイエルンはリーグ2連覇を果たす。
翌00-01シーズンも、優勝争いは最終節までもつれ込んだ。首位に立つバイエルン最終節の試合は、アウェーでのハンブルグ戦。この試合で引き分け以上なら、優勝が決まる計算だった。
ゲームは緊迫した展開となり、スコアは0-0で後半の終盤に入った。このまま守り切ればバイエルン3連覇達成となるはずだったが、終了直前の89分、思わぬ失点でリードされてしまう。
その瞬間、ピッチに崩れ落ちるバイエルンの選手たち。誰もが優勝の可能性は消えたと思った。たがカーンひとりが「諦めるな、まだまだこれからだ!」と、意気消沈する仲間を叱咤。その言葉に奮い立ち、バイエルンは反撃を開始する。
そしてロスタイムの94分、間接FKのチャンスからアンディションが劇的な同点ゴール。バイエルンは土壇場でリーグ3連覇を決めた。
カーンの逆襲
ブンデスリーガ3連覇を決めた4日後の01年5月23日、バイエルンはチャンピオンズリーグの決勝でFCバレンシアと戦った。
試合は互いにPKを取り合って1-1の同点。延長の120分を終わってもスコアは動かず、勝負はPK戦にもつれ込む。
バイエルン1人目のパウロ・セルジオがシュートを吹かして外すも、カーンはバレンシア3人目・サビチェビッチのキックをストップ。
バイエルン4人目・アンディションのシュートがGKカニサレスに止められると、カーンもカルボーニのシュートをセーブしてイーブンに戻す。
このあと、1人ずつが決めてPK戦はサドンデスに突入。バイエルンの2人が続けてシュートを沈め、カーンはバレンシアの7人目・ペジュグリーノのシュートコースを読んでナイスセーブ。ついにチャンピオンズリーグ優勝を決めた。
この勝利により、カーンは2年前の悪夢を払拭。この年の世界最優秀GK賞、欧州最優秀GK賞、UEFA最優秀GK賞、ドイツ最優秀GK賞、ドイツ年間最優秀選手賞と個人タイトルを独占。名実ともに世界一のキーパーと認められる。
同年11月にはトヨタカップに出場、前年度チャンピオンのボカ・ジュニアーズとクラブ世界一を争った。試合はスコアレスのまま延長に入り、DFクフォーのゴールでバイエルンが優勝。リケルメ操るボカの攻撃を封じたカーンは、東京の夜空に優勝杯を掲げた。
ドイツ代表の精神的支柱
00年9月より、Wカップ欧州予選が開始。ドイツは同組となったイングランドと、出場1枠を懸けて戦った。
10月7日のアウェー戦では、イングランドに1-0の勝利。しかしホームで戦った翌01年9月の第2戦は、オーウェンのハットトリックを浴びて1-5の歴史的惨敗。最終節でイングランドにグループ首位を奪われ、プレーオフでウクライナを下してようやくW杯出場を決める。
02年5月31日、Wカップ・日韓大会が開幕。近年低迷が続くドイツの前評判は、決して高くはなかった。大会の4ヶ月前、ルディ・フェラー監督はビアホフに代えてカーンを代表キャプテンに指名。現役代表キャプテンの交代は、異例の措置だった。
G/Lの初戦は、サウジアラビアに8-0の大勝。ドイツは最高のスタートダッシュを切った。しかし第2戦のアイルランド戦は、ミスによる失点でロスタイムに追いつかれて引き分け。試合終了後カーンは怒り爆発、その迫力に選手たちは気を引き締めた。
最終節はカメルーンとの対戦。前半40分にエトーを倒したDFラメロウが退場処分となるも、後半の50分に先制点。カーンは一人少なくなったチームを鼓舞、気迫のプレーでエトー、エムボマの攻撃を防いだ。79分にはクローゼが追加点、2-0と勝負を決めG/Lを首位で突破した。
トーナメント1回戦は、チラベルト率いるパラグアイと対戦。主力3人を出場停止で欠いたドイツは苦戦を強いられる。前半36分、チラベルトの鋭いFKをカーンがパンチングで対処。後半74分にもチラベルトがFKを蹴るが、これはバーの上を越えていった。後半終了間際の88分にノイビルが決勝弾、名物GK対決はカーンに軍配が上がった。
準々決勝はアメリカに1-0の勝利。勢いに乗る地元韓国との準決勝も、1-0と制してドイツは決勝に進んだ。カーンは再三の好セーブでピンチを防ぎ、トーナメントの3試合を完封。ドイツ7度目の決勝進出は、まさにカーンの奮闘あってこそだった。
痛恨の失点
決勝の相手は、W杯初の顔合わせとなる王国ブラジル。カーンとブラジル攻撃陣「3R」との対決が注目された。
19分、ロナウジーニョのスルーパスに反応したロナウドと1対1。だがカーンが素早く詰めると、その気迫に押されたのかシュートは左に流れていった。30分にもロナウジーニョの浮き球からロナウドがDF裏に抜け出すが、落ち着いた対応でシュートを打たせない。
45分、ロベカルの高速パスを受けたロナウドが反転シュート。カーンは右足1本でボールを弾き、0-0のまま前半が終了した。ドイツはバラックを出場停止で欠いたのが響き、序盤にペースを掴みながら決定的なチャンスが作れなかった。
後半の52分、ブラジルCKの場面でジウベウト・シルバと接触。右手を踏まれたカーンは薬指の靱帯を痛めてしまう。67分、ロナウドのパスからリバウドが強烈なシュート。すると負傷が影響したのか痛恨のキャッチミス、素早く詰めていたロナウドに先制点を押し込まれてしまう。
さらに79分、クレベルソンのグラウンダークロスをリバウドがスルー、フリーとなったロナウドに追加点を決められる。ドイツの反撃も空しく試合は0-2で終了、優勝杯はブラジルの手に渡った。
試合終了の笛が吹かれると、歓喜に沸くセレソンたちの向こうには、ポストに背中をもたれかけいつまでもその場を動こうとしないカーンの姿があった。
それでも試合後の記者会見では「7試合やってあれが唯一のミスだった。だがミスは自分の責任、指の怪我は関係ない」と言い訳をすることはなかった。大会MVPには、優勝&得点王のロナウドを差し置いてカーンが選ばれている。
最後の舞台
04年6月にはユーロ04に出場。しかしドイツは1勝2分けのグループ3位に終わり、前大会に続きG/L敗退。ユーロ終了後にカーンはキャプテンの座をバラックに引き継ぐ。
そのあと代表監督に就任したクリンスマンは、カーンと彼のライバルであるイェンス・レーマンを併用。そして自国開催のWカップを控えた06年4月、クリンスマン監督からレーマンを正GKにするとの発表がなされた。
「正GKでなければWカップに出ない」と公言していたカーンだが、熟慮のすえ大会への参加を決意。6月から始まったWカップ・ドイツ大会では、第2GKとしてチームを支えた。
ドイツはG/Lを全勝で勝ち上がり、トーナメント1回戦はスウェーデンを2-0と撃破。準々決勝でアルゼンチンと戦う。
試合は延長120分を戦って1-1の同点。勝負はPK戦で決まることになった。カーンはゴールに向かうレーマンを激励。意識するあまり普段は会話も避ける二人だったが、大事な場面でスポーツマンとしての振る舞いを見せた。
レーマンはカーンの激励に応えて2本のシュートをストップ。ドイツは準決勝に進んだ。だが準決勝ではイタリアに敗れ、ポルトガルとの3位決定戦を行うことになった。
3位決定戦には、カーンがレーマンに代わり出場。好セーブを連発し3-1の勝利に貢献する。試合終了後カーンは代表からの引退を発表、12年間で86試合のゴールを守った。
バイエルンの経営トップへ
08年5月、38歳で現役を引退。20年を過ごしたバイエルン・ミュンヘンでは、チャンピオンズリーグ優勝1回、ブンデスリーガ優勝8回、DFBポカール優勝6回と、多くのタイトルを獲得。世界最優秀キーパー賞にも3度輝いた。
引退後にコーチライセンスを履修する一方、大学に通って経営学の修士号を取得。会社を設立してビジネスでも成功を収めている。実はカーン現役時代の趣味は株式投資。あの野性的な見た目とは違い、ビジネス肌の人間だったのだ。
19年8月からはバイエルンの執行役員に就任。ルンメニゲCEOが21年の任期限りで勇退するのに伴い、名門クラブの経営を引き継ぐことになった。