192㎝の高さと手足の長いリーチ、強靱なフィジカルで中盤底に立ちはだかった守備的MF。抜群の身体能力で相手の攻撃を止め、正確な配球で前線へと展開。またダイナミックな攻め上がりから自らも得点を決めた「世界最高のボランチ」が、パトリック・ヴィエラ( Patrick Vieira )だ。
若手だったACミラン時代に燻るも、移籍したアーセナルで持ち前の才能を発揮。優れた身体能力とテクニック、高い戦術眼で攻守に活躍し、ガナーズのキーマンとなった。03-04シーズンにはインヴィンシブルズ(無敗の王者)の中核として重要な役割を果たしている。
フランス代表では98年W杯制覇とユーロ2000優勝に貢献。01年のコンフェデレーションズカップでは、日本との決勝戦で優勝を決める得点を挙げた。02年日韓W杯では屈辱のG/L敗退を喫するが、06年ドイツW杯では代表復帰したテュラム、マケレレと共に強固な守備網を築き、リーダーとしてチームを準優勝に導いた。
雌伏の時
ヴィエラは1976年6月23日、セネガルの首都ダカールに生まれた。学生だったガボン人の父親は、子供がまだ幼い頃家族を残して出奔。ヴィエラが8歳の時にフランスに暮らす叔父を頼って、母・兄弟と共に仏北部の街ドリューへ移住する。
85年、母親の仕事により移り住んだドリューで地元クラブに入団。その後ヴィエラの身長は急速に成長し、13歳になる頃はすでに180㎝近くあったという。
身体能力の高さでいくつかのクラブから注目される中、15歳となった91年にFCツールへ加入。188㎝のひょろりと伸びた体型と手足の長さで、さっそく「ロングマン」のあだ名が付けられた。
ツールでは最初センターフォワードとして起用されたが、優れたゲームセンスとテクニックを買われて守備的MFにコンバート。ここでボランチとしての才能を開花させるも、2年後にクラブが財政破綻。ヴィエラは若手育成に定評のあるASカンヌへ移籍することになった。
移籍から5ヶ月後の93年11月、17歳でトップチームに引き上げられ、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)のナント戦でプロデビュー。翌94-95シーズンは早くもチームの中心選手として活躍し、UEFAカップ(現EL)出場も経験。3年目の95-96シーズンには19歳の若さでキャプテンに任命されている。
しかしここに来てカンヌの経営が悪化。ヴィエラの放出も避けられなくなり、シーズン途中の95年11月、イタリアの名門ACミランへ売却された。
だが当時最強の守備陣を誇ったミランには、マルセロ・デサイー、デメトリオ・アルベルティーニといった欧州トップクラスのボランチが在籍。若く実績不足だったヴィエラに出番はなく、シーズン後半でわずか公式戦5試合に出場したのみだった。
出場機会を求めたヴィエラは、95-96シーズン終了後にミラン退団を希望。アヤックスからのオファーを受け契約合意寸前にまで至ったが、アーセナル入りが内定していた同胞のアーセン・ベンゲル監督(当時、名古屋グランパス)に説得され翻意。ガナーズ(砲撃手)の愛称を持つロンドンの古豪クラブに加わる。
96年9月、シェフィールド戦で途中出場しプレミアデビュー。12月のダービー・カウンティ戦で初ゴールを決め、劣勢だった試合を引き分けに持ち込んだ。
ベンゲル監督は旧態依然の「守備的でつまらない」と評されたチームの改革を推し進め、英国伝統のキック&ラッシュ戦術から脱却。高い守備能力を持つヴィエラを中盤の要に据え、その展開力を活かしてゲームメーカーの役割も与えた。ここに素早いパス繋ぎとスペクタクルな推進力で魅せる、ベンゲルのモダンフットボールが形づくられた。
96-97シーズン、アーセナルはプレミアリーグ発足(93年)以来の最高成績となるリーグ3位を確保。最初の頃ヴィエラはまだプレーが荒くカードを貰うことも多かったが、体を張って奮闘する姿はサポーターの心を掴んだ。
翌97-98シーズンは新加入のエマニュエル・プティとダブルボランチを組み、FWデニス・ベルカンプの活躍(リーグMVP)を助けてプレミア初優勝に貢献。当時黄金期にあったマンチェスター・ユナイテッドのリーグ3連覇を阻止し、FAカップも獲得した。
このあとユナイテッドとは毎年のようにタイトル争いを演じるも、ライバルに競り負けて3年連続のリーグ2位。だが99年にはティエリ・アンリが入団。00年には退団したプティに代わり、ロベール・ピレスとシルヴァン・ヴィルトールが加入し、フランス勢を中心にした攻撃の陣容を整えていく。
01-02シーズン、3年目のアンリが24ゴールで得点王の活躍。アーセナルは大差をつけて4年ぶりにリーグの覇権を奪回し、FAカップとのダブルも果たした。ガナーズの中盤で睨みを効かすヴィエラは、ユナイテッドの闘将ロイ・キーンと迫力の削り合い。「世界最高のボランチ」と呼ばれ数々の名勝負を演じた。
ヴィエラとフランス代表
96年にはアンダー世代の監督、レイモン・ドメネクに招集されてアトランタ五輪のメンバーとなるも、ミランで不遇だったヴィエラの出番がないままフランスはベスト8敗退となった。
フル代表には97年2月に初招集、26日のオランダ戦で初キャップを刻んだ。98年6月には自国開催のWカップに出場。ボランチのリザーブ要員として出場機会は少なかったものの、決勝のブラジル戦ではリードした後半75分に投入され、優勝の瞬間をピッチで味わった。
00年6月にはユーロ2000(オランダ/ベルギー共催)に出場。第2戦から先発ボランチの座を勝ち取り、G/L突破に貢献。準決勝のスペイン戦では、ゴール前の粘りからユーリー・ジョルカエフの決勝点をアシストする。
このあと死闘が続いた準決勝のスペイン戦、決勝のイタリア戦で “レ・ブルー” の中盤を支え、フランス2度目の欧州制覇に貢献。ヴィエラは大会限りで代表を退いたディディエ・デシャンの後継者として充分な実力を示した。
01年には日韓開催のコンフェデレーションズカップに出場。多くの主力が欠場となったチームで、ヴィエラはキャプテンを務める。
順調に韓国でのG/Lを1位で勝ち上がると、準決勝でブラジルに2-1と勝利。横浜国際競技場で行なわれた決勝は、DFフランク・ルブフのロングボールに鋭く反応したヴィエラが、日本のフラット3をかいくぐりゴール。1-0と勝利し世界王者の貫禄を見せつけた。
02年6月、大会連覇を目指し日韓Wカップに出場。しかし司令塔ジネディーヌ・ジダンの故障、欧州リーグ得点王を揃えたFW陣の不振、高齢化したDF陣の衰えなど負の要因が重なり、優勝候補フランスは敗退。ヴィエラは3試合に先発したが、G/L無得点で最下位となったチームの沈没を止められなかった。
インヴィンシブル達成の快挙
02年夏、「ミスター・アーセナル」と呼ばれたトニー・アダムスが引退。02-03シーズン、ヴィエラは彼の後を引き継ぎ、ガナーズのキャプテンに就任した。
チームが前シーズン優勝の勢いのまま開幕から勝ち星を重ねると、昨季より30戦無敗を続けて自信を深めたベンゲル監督は、記者の問いかけに答えてインヴィンシブル(無敗優勝)を宣言する。
だがシーズン第10節のエヴァートン戦、新星ウェイン・ルーニーに終了直前の決勝弾を許して1-2の敗戦。当時16歳11ヶ月の「神童」ルーニーの衝撃ゴールで、早くも野望は打ち砕かれた。
さらに第17節の天王山対決、ライバルのマンチェスター・ユナイテッドに0-2と完敗して失速。結局シーズン終了までに6敗を喫し、終盤に猛追を掛けてきたユナイテッドの逆転を許しリーグ2位。FAカップは決勝でユナイテッドを破ってタイトルを守ったものの、選手からは「監督の宣言が大きなプレッシャーとなった」の恨み節が聞こえた。
03-04シーズンの前半戦は、アブラモヴィッチのクラブ買収で大型補強を行なった新生チェルシーを加えた三つ巴の戦い。前季の雪辱を期すアーセナルは開幕からファイトする。
そしてシーズン後半も好調さを維持し、ついに36戦26勝12分け0敗のインヴィンシブルを達成。2位のチェルシーに大差をつけると共に、115年ぶり2度目となる無敗優勝の歴史的偉業を成した。
アンリ、ベルカンプ、ピレス、ユングベリの攻撃陣は迫力と優雅さを兼ね備え、ソル・キャンベル、コロ・トゥーレ、アシュリー・コール、GKイェンス・レーマンで構成する守備陣も鉄壁。またボランチのヴィエラとジウベウト・シウバが攻守の舵を取って安定の試合運び、相手につけいる隙を与えなかった。まさにベンゲルサッカーの完成形と言えるチームだった。
しかし翌04-05シーズン、ジョゼ・モウリーニョを監督に迎えたチェルシーが、序盤から快進撃を見せてプレミア初制覇。29勝8分け1敗の成績で2位のアーセナルに12ポイント差をつけるという、圧倒的強さの優勝だった。こうしてプレミアリーグはアーセナルとユナイテッドの2強時代から抜け、新たなフェーズを迎えることになる。
イタリアへの再挑戦
この頃チームがチャンピオンズリーグで結果を残せないことに物足りなさを感じたヴィエラは、欧州クラブ王者のタイトルを求めイタリアへの再挑戦を決意。9シーズンを過ごしたアーセナルを離れ、セリエAの強豪ユベントスに活躍の場を移した。
移籍した05-06シーズンからレギュラーとしてセリエA優勝を経験するが、06年の夏に大規模不正事件「カルチョポリ・スキャンダル」が発生する。
主犯格とされたユベントスは優勝を取り消されただけではなく、ペナルティとしてセリエB降格処分。ヴィエリは在籍1年で同じイタリアのインテル・ミラノへ移ることになった。
ワールドカップ・ドイツ大会
フランス代表ではユーロ04に出場。しかしグループリーグで太腿を痛め、準々決勝のギリシャ戦は欠場。チームは0-1と敗れた。大会後にフランス黄金期を飾ったジダン、テュラム、マケレレ、デサイー、リザラスが代表を退く。
このあとドメネクが代表監督に就任すると、キャプテンに任命されたヴィエラはリーダーとしてチームを牽引。しかし04年9月から始まったW杯予選で苦戦が続き、ヴィエラの呼びかけによりジダン、テュラム、マケレレが代表復帰。キャプテンマークをジダンに返し、無事06年Wカップ・ドイツ大会への出場を果たした。
G/Lの第1戦はスイスとスコアレスドロー、第2戦も終盤に入って韓国に追いつかれ2-2の引き分け。しかも司令塔のジダンが累積警告で第3戦が出場停止となり、敗退の危機に追い込まれたフランスは最終戦で2点以上の勝利が必要となった。
第3戦のトーゴ戦はジダンに代わりヴィエラがゲームメークを担当。すると後半の55分、リベリーからのパスをゴール正面で受けたヴィエラが素早い反転からのシュート。先制点をモノにした。さらに61分にはアンリの追加点が生まれ、2-0と勝利したフランスがベスト16に進む。
トーナントの1回戦のスペイン戦はジダンが復帰。開始28分にビジャの先制ゴールを許すも、41分にヴィエラのアシストでリベリーが同点弾。そして終盤に入った83分、ジダンのFKからヴィエラがヘディングで勝ち越し点。ロスタイムにもジダンがゴールを決め、3-1の逆転勝利を収める。
ここからフランスが調子を上げ、準々決勝ではヴィエラを始めとする守備陣が、ブラジルの強力な攻撃を封じて1-0の勝利。準決勝も堅い守りで難敵ポルトガルを1-0と下し、ついに決勝へ進んだ。
しかし決勝のイタリア戦は、1-1で折り返した後半56分にヴィエラが足を痛めて負傷退場。試合は延長に入り、挑発に乗ったジダンが頭突きで一発レッド。それでもフランスは粘りを見せたが、PK戦で敗れて涙を飲んだ。
このあとユーロ08のメンバーにも選ばれるが、膝の故障によりヴィエラが出場することなく、フランスはグループ最下位で敗退。09年6月のナイジェリア戦が代表ラストマッチとなった。13年の代表歴で107試合に出場、6ゴールを記録している。
現在のヴィエラ
インテルでは加入したシーズンから3季連続の優勝を味わうも、慢性的な太腿の故障に苦しむようになり出場機会は減っていった。そして08-09シーズンにモウリーニョが新監督に就任すると、完全に出番を失ったヴィエラは、09-10シーズン途中にマンチェスター・シティーへ移籍する。
シティーでは2シーズンを過ごし、11年5月のFAカップ決勝・ストーク戦では、1-0とリードした終盤の90分に交代出場。ピッチの上で優勝を告げる笛を聞き、この試合を最後に35歳で現役を退いた。
引退後もシティーに残り、アカデミー指導者として活動。16年には北米のMLSに渡り、グループ関連クラブであるニューヨーク・シティーの監督に就任。そのあとリーグ・アンでニースの監督を務め、イングランドに戻った21年7月からはクリスタル・パレスを指揮している。