「フェレンツヴァロシュの伝説」
並外れたテクニックを持ち、軽やかなドリブルとパスでピッチを支配。多くのチャンスを生み出しながら、自らも多くの得点を重ねたハンガリーのエース。フォワードとしても、ゲームメーカーとしても優れた才能を見せ、その優雅なスタイルで「皇帝」と呼ばれたのが、アルベルト・フローリアン( Albert Flórián )だ。
50年代の欧州を席巻し「マジック・マジャール」と呼ばれた伝説のチーム以降、ハンガリーが生んだ最高の名手。名門フェレンツヴァロッシュを率い、65年のフェアーズカップ(UEFAカップの前身)で初優勝。これは未だにハンガリー唯一の欧州タイトルである。またクラブを4度のリーグ優勝に導き、自身は3回のリーグ得点王に輝く。
ハンガリー代表では62年と66年のW杯に出場。66年のイングランド大会では、優勝候補ブラジルを3-1と撃破する殊勲の立役者となり、大会で最もエレガントな選手と讃えられた。それらの活躍により、67年にはバロンドール受賞の栄誉を得ている。
田舎育ちの大器
アルベルト・フローリアン(ハンガリー標記ではフローリアン・アルベルト)は1941年9月15日、セルビア(当時ユーゴスラビア)と国境を接する南部の小さな町ルチェグサーントーに、鍛冶屋の息子として生まれた。
幼くして母親を亡くし、兄弟二人とともに祖父母の手で育てられたアルベルトは、質素な田舎暮らしの中で、自然と馬とサッカーに親しみながら少年時代を過ごした。
52年に一家で首都ブダペストへ引っ越すと、11歳のアルベルトはハンガリーの強豪クラブ、フェレンツヴァロッシュTC(以下FTC)のセレクションに参加。その才能豊かなプレーはコーチ陣を驚かせ、すぐに入団が決まった。
58年11月に17歳でトップチーム昇格。NBⅠ(ハンガリートップリーグ)デビューとなったディオスギョル戦で2ゴールを挙げ、早くも大物ぶりを発揮。2年目の59-60シーズンは26試合27ゴールと大活躍。18歳でリーグ得点王を獲得すると、翌60-61シーズンも21ゴールを挙げて2年連続得点王。アルベルトは若きエースとしてその名を全国に轟かせる。
しかし彼のようなトップ選手でも、共産国のハンガリーではあくまでアマチュアの身分。“ステートアマ” として毎日練習に励みながら、籍を置く電信局のスポーツ部門で記者として働いた。優れた洞察力による上質な記事を書き、普段使うドイツ語やスラブ語に加え英語も得意するなど、ジャーナリストとしても秀でた資質を見せたという。
「マジック・マジャール」の後継者
ハンガリー代表には、58年6月に史上最年少の17歳9ヶ月で選出。28日の親善試合、スウェーデン戦で代表デビューを飾った。これは伝説チーム「マジック・マジャール」のエースだったフェレンツ・プスカシュの、同国代表デビュー最年少記録(18歳4ヶ月)を更新するものだった。
4ヶ月後に行なわれた代表3戦目のユーゴスラビア戦で初ゴールを記録するとともに、ハットトリックを達成して4-2の勝利に貢献。そのあともスイス戦、西ドイツ戦、イングランド戦と立て続けにゴールを決め、たちまち代表エースへ名乗りを上げた。
60年8月にはローマオリンピックに参加。エースのアルベルトは大会5得点を挙げ、ハンガリーの銅メダル獲得に大きく貢献する。
このあとハンガリーはW杯予選を勝ち抜き、62年6月にはWカップ・チリ大会に出場。「マジック・マジャール」の生き残りであるグロシチが守護神を務めた。
G/L初戦はイングランドと対戦。1-1で迎えた後半の71分、アルベルトが華麗なドリブルから勝利を決めるゴール。体力まかせのイングランドは、しなやかな動きで躍動するアルベルトを止められなかった。
第2戦の相手はブルガリア。開始1分にアルベルトが電光石火の先制点を挙げると、その5分後にも追加点。4-0とリードした後半54分にはハットトリックを達成、このあとブルガリアの反撃を1点に抑え、6-1の圧勝を収める。
20歳のアルベルトを中心に、シャンドール、ショイモン、ゴルチ、ティヒで形成する攻撃陣は、流麗かつ破壊力抜群。まさに54年W杯で準優勝した「マジック・マジャール」を彷彿とさせるものだった。
第3戦はアルベルトら主力を休ませ、アルゼンチンと0-0の引き分け。グループ1位でベスト8に進んだハンガリーは、準々決勝でヨゼフ・マソプスト率いるチェコスロバキアと対戦する。
チェコは相手の攻撃力を警戒して守備的な布陣。圧倒的に攻めるハンガリーだが、一瞬の虚をつかれて13分に先制点を許してしまう。このあとチェコはさらに守備を固め、GKシュロイフが好守を連発。ハンガリーのシュートが2度もポストを叩くなどの不運にも見舞われ、内容で上回りながら0-1と惜敗する。
ベスト8敗退ながらも4ゴールと活躍したアルベルトは、優勝したブラジルのガリンシャ、ババらと並ぶ(6人が同点)大会得点王に輝き、W杯ベストヤングプレイヤー賞にも選ばれた。
フェレンツヴァロッシュの「皇帝」
62-63シーズン、FTCは15年ぶり18度めのリーグ制覇。インターシティーズ・フェアーズカップではベスト4入りを果す。フェアーズ(見本市)カップとは、55年に都市対抗戦として始まったものだったが、この頃にはチャンピオンズカップ(現CL)と並ぶ欧州クラブ選手権へと発展していた。さらに内容が整備されて、のちにUEFAカップ(現EL)となる。
「チャサール(皇帝)」と呼ばれたアルベルトはゲームメークも担い、チームの攻撃を牽引。ここからFTCの60年代黄金期が始まった。
63-64シーズンはリーグを連覇し、64-65シーズンのフェアーズカップは準々決勝でASローマ、準決勝ではマンチェスター・ユナイテッドを撃破して決勝へ進出。この時のマンUはボビー・チャールトン、デニス・ロー、ジョージ・ベストらのタレントを揃えた強敵で、ホーム&アウェーの2戦では決着がつかず、プレーオフにまでもつれるという激闘を演じている。
そして決勝では強豪ユベントスを1-0と下し、フェアーズカップ初優勝。これはハンガリーのクラブとして初の欧州タイトルで、現在でも唯一のものである。アルベルトはローマ戦で貴重な1点を挙げるほか、見事なゲームメークでチームを優勝へ導き、国際的にその名を知られる選手となった。
リーグ戦では惜しくも優勝を逃すも、アルベルトは24試合27ゴールとキャリアハイの成績。4季ぶり3度目のリーグ得点王に輝く。
65-66シーズンはチャンピオンズカップでベスト8進出。アルベルトは7得点を挙げ、ベンフィカのエウゼビオと並ぶ大会得点王となる。
64年6月にはスペインで開催された欧州ネイションズカップ(68年から欧州選手権)に出場し、大会ベスト3に貢献。このあとのW杯欧州予選では、同組の東ドイツとオーストラリアを難なく退け、4大会連続の出場を決めた。
66年7月、Wカップ・イングランド大会が開幕。G/L初戦は、エウゼビオを擁して初出場を果したポルトガルと対戦する。開始2分にGKセントミーハイのミスでリードを許すも、後半の59分に東京五輪(64年)金メダルの立役者、フェレンツ・ベネが同点弾。だが65分に再びセントミーハイがミスを犯して、勝ち越し点を献上する。
そして89分にも追加点を決められ、1-3で試合は終了。内容では互角の勝負を演じながら、ミスの差で惜しくも敗れてしまった。
第2戦は優勝候補の大本命、ブラジルとの対戦。劣勢が予想されたハンガリーだが、セレソンのエース、ペレが初戦で負傷し欠場。代役を若手のトスタンが務めていた。
開始早々の2分、右サイドを破って切り込んできたベネが角度のない位置から強烈なシュート。GKジルマールの手をかすめ先制点が決まった。だが14分にセットプレーからトスタンの同点ゴールを許し、1-1で前半を折り返す。
後半に入るとハンガリーが一気の攻勢。アルベルトは華麗なドリブルと巧みなパスを駆使し、ブラジルを翻弄。味方の流れるような攻撃を指揮してフィールドを制圧した。
64分、アルベルトが鮮やかなドリブルでブラジルDFを置き去りにし、右サイドを駆け上がるベネに絶妙のパス。そこからの折り返しをファルカシュがボレーで合わせ、勝ち越し点を決める。
さらに73分、ベネがファールを受けてPKを獲得。それをキャプテンのメーソイが確実に沈めて追加点。ハンガリーは強豪ブラジルを相手に3-1の完勝を収めた。
大会2連覇のブラジルがワールドカップで負けたのは、54年スイスW杯の準々決勝で2-4と敗れて以来、なんと3大会13試合ぶりの出来事である。そして12年前のW杯で敗戦を喫した相手とは、奇しくも「マジック・マジャール」のハンガリーだった。
アルベルトに得点は生まれなかったが、ピッチでの輝きは一目瞭然。試合が終了すると、スタジアムでハンガリーの快挙を目撃した英国の観客が「アルベルト」の名を連呼。スタンディングオベーションで勝利の立役者を讃えた。
第3戦はブルガリアを3-1と退け、ポルトガルに続く2位でベスト8進出。準々決勝ではソ連と対戦する。しかし名手グロシチの引退以降GKに弱点を抱えるハンガリーは、セントミーハイに代わって起用されたゲレイがミスを犯して2失点。アルベルトを中心とした攻撃もレフ・ヤシンの好セーブに阻まれ、ベネのゴールで1点を返すのが精一杯。1-2と敗れて前回に続くベスト8敗退となった。
それでもアルベルトのプレーは「知的でエレガント、今大会最高の選手の1人」と絶賛され、ゴードン・バンクス、ボビー・ムーア、ボビー・チャールトン、エウゼビオ、フランツ・ベッケンバウアーらの名選手とともに大会ベストイレブンに選出。またクラブでの活躍と合わせて、67年にはハンガリー人として初のバロンドールに輝く。
キャリアの晩年
66-67シーズンは3季ぶりにリーグを制覇し、バロンドールに加えハンガリー年間最優秀選手賞をダブル受賞。67-68シーズンはリーグ連覇を達成。フェアーズカップでは2度目の決勝へ進出するも、リーズ・ユナイテッドに0-1と敗れて3年ぶりの戴冠はならなかった。
こうしてハンガリーサッカー界のレジェンドとしてキャリアを重ねていったアルベルトだが、69年6月に行なわれたW杯欧州予選、アウェーのデンマーク戦で相手GKと衝突して膝を重傷。絶対的エースを失ったハンガリーは欧州予選で敗退し、70年W杯メキシコ大会への出場を逃してしまった。
リハビリに1年近くを要し、70年4月のリーグ戦でようやく復帰。だがかつてのようなベストフォームは取り戻せなかった。それでも71-72シーズンは30試合15ゴールと復調気配。マジャル・クパ(ハンガリー杯)優勝とUEFAカップ準優勝に貢献する。
71年4月に代表へ復帰したアルベルトは、72年の欧州選手権で予選を通じて4試合に出場。大会ベスト4入りに寄与した。そしてこれが実質最後の代表活動となる。
これ以降彼のパフォーマンスは低下し、出場機会は激減。アルベルトは73-74シーズン限りの引退を発表し、74年3月にFTC最後の試合となるザレーゲルシェグ戦に出場。試合後半からピッチに登場し、ラストゴールを決めて引退の花道を飾る。
その2ヶ月後の74年5月、約2年ぶりにハンガリー代表に招集されて親善試合のユーゴスラビア戦に出場。この試合を最後に32歳で現役生活へ別れを告げた。
17シーズンをFTC一筋で過ごし、公式戦537試合に出場して383ゴールを記録。14年務めた代表では75試合に出場し、31ゴールの記録を残している。
レジェンドの後半生
引退後もクラブに残り、ユースコーチ、テクニカルディレクター、部門責任者などを歴任した。01年にはフェレンツヴァロッシュの名誉会長に就任。07年にはクラブの功労者を称え、ホームスタジアムに彼の名前が冠された。
また国家の英雄として様々な勲章を授与されるほか、故郷ルチェグサーントーやブダペストの名誉市民に任命されるなど、レジェンドとしての余生を送る。
11年9月15日には、アルベルト70歳の誕生日を祝う祝賀会がサッカー協会主催で行なわれ、元気な姿でスピーチを行なっている。だがその1ヶ月半後、心臓発作に倒れて病院へ緊急搬送。冠状動脈手術を受けるも、治療の甲斐なく10月31日に息を引き取った。
その葬儀には政界やサッカー界の重鎮が顔を並べるだけでなく、数百人の市民が参列。多くの人々がレジェンドの突然の死を悼んだという。