「アメリカン・ヒーローの憂鬱」
スピード溢れるドリブル突破を持ち味とし、豊富なスタミナと優れたスキルを備えたワイドアタッカー。攻撃のポジションならどこでもこなし、チャンスを活かす勝負強さから「アメリカン・ヒーロー」と呼ばれたのが、ランドン・ドノバン( Landon Timothy Donovan )だ。
早くからその才能を知られ、17歳でブンデスリーガのレバークーゼンと契約。“アメリカのマイケル・オーウェン” と期待された。主にMLSのロサンゼルス・ギャラクシーでプレーし、多くのタイトル獲得に貢献。07年からはベッカムとの共演も果した。
18歳で出場したシドニーオリンピックでは中心選手としてベスト4入り。02年W杯日韓大では2ゴールを挙げ、アメリカの新星として注目される。そのあと06年ドイツ大会と10年の南アフリカ大会に出場。南ア大会のG/L最終節では後半ロスタイムに劇的決勝弾を挙げ、チームを1位突破に導く。
ドノバンは1982年3月4日、カルフォルニア州オンタリオ市に双子の妹トリスタンとともに生まれた。父親はカナダ出身のアイスホッケー選手(セミプロ)で、母親はアメリカ人教師。両親ともアイルランドをルーツとし、双子を合わせて5人の子供を設けていた。
両親はドノバンが2歳のときに離婚し、兄弟姉妹たちは母親のもとで育てられる。ドノバンにサッカーを教えたのは兄のジョシュ。兄と遊ぶうちにドリブルやシュートの基本技術を身につけたドノバンは、5歳になると年長チーム(6~7歳)に混じってプレー。最初のゲームで7ゴールを挙げたと言われている。
そのあと地元の学校クラブで才能を育み、15歳でアメリカのユース年代育成プログラムである「IMGアカデミー」に参加。そしてU-17代表のメンバーとして、97年には23ゴール13アシストを記録。所属する高校リーグでは16ゴール12アシストの成績を残し、早くから飛び抜けた実力を見せつけた。
99年には15ゴール19アシストを記録し、高校オールアメリカンに選出。そしてIMGアカデミーの中心選手としてアルゼンチンU-17代表を4-3で撃破し、MLS(メジャーリーグサッカー)のタンパベイ・ミューティニィにも2-0と勝利する快挙。
さらにU-17世界選手権でも大会MVPの活躍で母国をベスト4に導き、“アメリカのマイケル・オーウェン” の異名をとったドノバンは、17歳でドイツのレバークーゼンと6年契約を結ぶ。
シドニー五輪出場
2000年には18歳でシドニー五輪のメンバーへ選ばれ、9月に開催された祭典に出場する。G/Lはエムボマ、エトーを擁するカメルーンを上回って1位突破。準々決勝で日本と対戦した。
試合は前半30分、中村俊輔の折り返しから柳沢敦が決めて日本が先制。後半68分にウォルフのシュートで追いつくが、72分に高原直泰のヘディングシュートで再びリードを奪われてしまう。
残り時間、パワープレーで日本のラインを下げたアメリカは、89分に抜け出そうとしたウォルフが酒井友之に倒されPK。これをヴァゲナスが沈めて延長戦に持ち込む。
延長120分を戦っても2-2のスコアは動かず、勝負の行方はPK戦へ。先攻の日本は、4人目・中田英寿のキックが左ポストを叩いて失敗。後攻のアメリカはドノバンを含む5人全員が成功し、準決勝進出を決めた。
だが準決勝ではシャビ率いるスペインに1-3と完敗。3位決定戦ではサモラノ(O/A枠)の2得点に屈し、メダル獲得はならなかった。五輪終了後の10月、親善試合のメキシコ戦でA代表デビュー。さっそく代表初得点を記録している。
MLSの新星
レバークーゼンではリザーブチームからキャリアを始めるが、ドイツの環境に慣れないドノバンは適応に苦労。2シーズンで結果を残すことが出来ず、01年にはMLSのサンノゼ・アースクエイクスにレンタル移籍となった。
ここで本来のパフォーマンスを取り戻し、主力としてMLS西カンファレンスの2位フィニッシュに貢献。これでMLSカップへの出場を果すと、ロサンゼルス・ギャラクシーとの決勝を延長で制してクラブ初の優勝。ドノバンは決勝で同点弾を挙げ、初優勝に大きな役割を果した。
03年には公式戦27試合16ゴールとプロ入り以来最高の成績。チームは西カンファレンスで優勝を果し、MLSカップではシカゴ・ファイアーを4-2と下して2度目の制覇。
優勝の立役者となったドノバンは、MLSカップMVP、MLSベストイレブン、アメリカ年間最優秀選手賞と個人タイトルも独占。ナショナルチームでの活躍と合わせ、アメリカを代表する選手となった。
日韓W杯での活躍
02年2月にはCONCACAFゴールドカップ(北中米カリブ海選手権)で優勝を果し、代表初のタイトルを獲得。4ゴールを挙げたドノバンは大会得点王に輝いた。アメリカはW杯予選も3位で突破し、4大会連続7度目の出場を決める。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。G/L初戦は強豪ポルトガルとの一戦だった。試合開始早々に先制したあとの30分、ドノバンのクロスが相手DFに当たってオウンゴールの追加点。36分にもマグブライトの3点目が生まれる。後半はポルトガルの猛追を受けるも、3-2と逃げ切って殊勲の白星スタートを飾った。
第2戦は地元の韓国と1-1で引き分け、グループ突破を懸ける最終節はポーランドと対戦。開始直後にドノバンのヘディングシュートで先制したかに思えたが、ファールがあったとして取り消し。不可解な判定に集中力を切らしてしまったのか、アメリカは3分、5分と連続失点。後半66分にも3点目を許してしまう。
終盤の83分にはドノバンのボレーシュートで1点を返すも、反撃及ばず1-3の敗戦。自力突破の可能性は無くなった。だが同時刻に行なわれていた試合では、韓国がポルトガルを1-0と撃破。これでアメリカの2位確保が決定し、2大会ぶりのベスト16進出となった。
トーナメントの1回戦は、北中米のライバルであるメキシコと対戦。開始8分、アメリカの速攻からマグブライトが先取点。後半65分にもドノバンがルイスの左クロスに頭で合わせ、決定的な追加点を決める。
このまま優位にゲームを進めたアメリカが2-0の快勝。30年の第1回ウルグアイ大会以来(ベスト4)となるベスト8進出の快挙を成した。
準々決勝のドイツ戦は、バラックに決勝点を決められ0-1の敗戦。ドノバンに訪れた2度の決定機も、オリバー・カーンの好守連発に防がれしまった。それでもドノバンの力強いプレーは高い評価を受け、大会の最優秀若手選手賞に輝く。
若きレジェンド
03、04年と2年連続でアメリカ最優秀選手賞に選ばれる活躍を見せたドノバンは、サンノゼとのレンタル期間を終了した05年にレバークーゼンへ復帰。ブンデスリーガデビューを果すも、先発に起用されないことに不満を抱き、7試合をプレーしただけでMLSへの返り咲きを希望する。
ここで獲得に名乗りを上げたのが、ドノバンの故郷のクラブであるロサンゼルス・ギャラクシー。LAギャラクシーは得点王のカルロス・ルイスを放出してまで、サラリーキャップ制度による選手割り当て枠を空け、アメリカ人最高年俸でドノバンと複数年契約を結ぶ。
LAギャラクシーでは1年目の05シーズンから大活躍。レギュラーリーグを22試合12ゴール10アシストの成績でチームを西カンファレンス優勝に導き、プレーオフシリーズでは4試合4ゴール4アシストを記録。MLSカップ決勝ではドノバンのアシストでニューイングランド・レボリューションを1-0と打ち破り、クラブ2度目となるリーグチャンピオンのタイトルをもたらした。
翌06シーズンもレギュラーリーグで24試合12ゴール8アシストを記録。チームは西カンファレンス5位でプレーオフシリーズ進出を逃すが、全米オープンカップでは決勝に進出。だがドノバンのトーナメント3ゴールの活躍空しく、決勝でシカゴ・ファイアーに敗れてタイトルを逃してしまった。
こうして米国のトップ選手となったドノバンは、トニー・メオラ、マルコ・エチェベリ、カルロス・バルデラマらのレジェンドとともに、23歳の若さで「MLSオールタイムベストイレブン」(MLS創設10周年を記念したベストイレブン選出)の栄誉に輝く。
期待外れに終わったドイツW杯
05年のゴールドカップで2大会ぶりの優勝を果したアメリカは、W杯予選でも1突破を果たして5大会連続の出場を決めた。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/L初戦はネドベド、ロシツキー、ポボルスキーら技巧派のタレントを揃えるチェコに0-3の完敗。第2戦で強豪イタリアと対戦する。
前半22分、ピルロのFKをジェラルディーノに合わされ失点。だがアメリカはドノバンを中心に反撃を行い、27分にはオウンゴールで追いつく。さらにその1分後、イタリアのデ・ロッシがマグブライトへの肘打ちで一発退場。アメリカに勝機が生まれたかに思えた。
だが前半終了直前の45分、ボランチのマストロエニが危険なタックルで一発レッド。後半開始早々の47分にもDFポープが2枚目の警告で退場となる。一転して数的不利となってしまったアメリカだが、守護神ケラーを中心に守り切り、1-1の引き分けに持ち込む。
グループ突破を懸けた最終節は、アフリカの雄ガーナとの対戦だった。前半22分、クラウディオ・レイナ(現米国代表、ジョバンニ・レイナの実父)のボールロストから失点。43分にデンプシーのゴールで追いつくが、前半ロスタイムの47分にPKを与えて勝ち越しを許してしまう。
後半はリスク覚悟で総攻撃をかけるも、ゴールを割ることが出来ず1-2の敗戦。グループ最下位での敗退となった。得点源と期待されたドノバンは3試合でノーゴール、ノーアシストに終わり、戦犯のそしりを受ける。
その汚名を返上したのは翌07年のゴールドカップ。ドノバンの3試合連続ゴールでチームを決勝に導くと、宿敵メキシコとのファイナルでも先制点を挙げて2-1の勝利に貢献。大会連覇の立役者となった。
LAギャラクシーの看板選手
07年7月、スーパースターのデヴィッド・ベッカムがLAギャラクシーに入団。ドノバンはキャプテンの座を彼に譲り渡す事になったが、08シーズンはキャリアハイの20ゴールを記録して初のMLS得点王を獲得した。
チームの看板となったドノバンは、MLSのオフシーズン中に他クラブへの貸し出しを許可するという条項をつけてクラブとの契約を更新。その約束通り、08年11月にはドイツの名門バイエルン・ミュンヘンへレンタル移籍する。
バイエルンではDFBポカールなどいくつかの試合に出場し、短期のローン期間を終えてLAギャラクシーへ復帰。それと入れ替わるようにベッカムがACミランへ貸し出されたため、キャプテンの座はドノバンの元に戻った。
その際ドノバンがベッカムに対する批判をマスコミに漏らし、彼らの関係は一時不穏なものとなってしまう。それでも09年シーズン途中にベッカムがLAギャラクシーに戻ると、ドノバンの謝罪を受けて二人は和解した。
ドノバンはこのシーズンもチームをMLSカップ決勝に導く活躍を見せ、レアル・ソルトレイクに敗れて準優勝に終わったものの、初となるMLSのMVP(彼の功績を称えてのちに「ランドン・ドノバンMVP賞」へ改称)に輝く。
09年のポストシーズンにはイングランドのエバートンへレンタル移籍。プレミアリーグで13試合に出場したドノバンは、クラブの月間MVPに選ばれるなど活躍。エバートンからレンタル期間延長を申し込まれるが、LAギャラクシーがこれを拒否したため、MLS開幕に合わせて戻ることになった。
大舞台での奮闘
09年のコンフェデレーションズカップでは、イタリア戦やブラジル戦でゴールを挙げてアメリカの準優勝に大きく貢献。W杯予選でも15試合5得点と大黒柱の働きを見せ、大詰めとなったホンジュラス戦では6大会連続出場を決めるFK弾。28歳と選手としてのピークを迎えたドノバンは、自身3度目となる大舞台へ挑む。
10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。G/L初戦でイングランドと対戦する。開始早々の4分にジェラードのゴールで先制を許すが、アメリカはドノバンの右サイド突破とセットプレーで相手ゴールを脅かす。
その40分、デンプシーの放ったグラウンダーのミドルシュートを、GKグリーンがまさかの後逸。アメリカがラッキーな形で追いついた。そのあと両者譲らない攻防を展開し、1-1の引き分け。貴重な勝点1を得た。
第2戦の相手はスロベニア。序盤はアメリカが押し気味に試合を進めるが、12分にカウンターから失点。42分にも追加点を決められてしまい、2点のビハインドでハーフタイムを折り返す。
だが後半開始の48分、縦パスに抜け出したドノバンが豪快にシュートを決めて1点差。終盤の82分には、ドノバンのロングフィードからブラッドリーがボールを押し込んで同点とする。
85分にもドノバンのクロスからエドゥがネットを揺らすが、これはファールがあったとしてノーゴール判定。今大会初の白星とはならなかったが、勝負強さを発揮して2戦連続の引き分けとなった。
4チームすべてがグループ突破の可能性を残した最終節は、アルジェリアと対戦。勝利が必要だったアメリカだが、何度もチャンスを作りながら得点を逃し、試合はスコアレスのまま終盤を迎えた。
そして後半もロスタイムに入り、誰もが引き分けによる敗退を覚悟した91分、デンプシーのシュートのこぼれ球に詰めたドノバンが劇的決勝弾。この瞬間、実況アナウンサーが「アメリカン・ヒーロー!」と叫んだとされる。
この勝利でイングランドと勝点、得失点差で並ぶが、総得点で上回ったアメリカが1位突破。2大会ぶりとなる決勝トーナメント進出を、ドノバン殊勲のゴールで決めた。
トーナメントの1回戦の相手は4年前も対戦したガーナ。開始5分、連携ミスからボールを奪われ、KP・ボアテングにシュートを叩き込まれて失点。後半アメリカはドノバン、デンプシーによる両サイド突破を武器に猛攻を仕掛け、62分にPKを獲得。これをドノバンが落ち着いて沈め、同点とする。
このあとアメリカ優勢で試合は進むも、スコアは動かず延長戦に突入。その93分、ギャンの個人技による突破を許して失点。アメリカの反撃も届かず1-2の敗戦を喫し、日韓大会以来のベスト8入りはならなかった。
アメリカン・ヒーローの憂鬱
ドノバンはエース兼キャプテンとしてLAギャラクシーを牽引し続け、11、12年のMLSカップ連覇に大きく貢献する。だがこの頃から燃え尽き症候群に陥いり、肉体的・身体的疲労を訴えるようになって、13年にはキャプテンの座をロビー・キーンに譲り渡す。
代表では4度目となる14年W杯ブラジル大会への意欲を示すも、直前の合宿でクリンスマン監督からメンバーを外されて落選となる。W杯終了後の14年8月、シーズン限りでの現役引退を表明。そして14年12月のMLSカップ優勝を置き土産に、LAギャラクシーのユニフォームを脱いだ。
しかし負傷者が続出した古巣の窮状を目の当たりにし、16年9月に現役復帰。シーズン後半の6試合とプレーオフシリーズの3試合に出場したあと、34歳で2度目の引退をする。
18年1月にはクルブ・レオン(メキシコ1部リーグ)からのオファーを受けて再び現役復帰し、同年7月に3度目の引退。19年1月にはインドア・サッカーのプロチームであるサンティエゴ・ソッカーズと契約。公式戦10試合に出場して同年に正真正銘の引退をする。
15年の代表歴で157試合に出場。その間挙げた57ゴールはデンプシーと並ぶ代表通算得点最多タイで、58アシストは歴代ダントツの1位記録である。
引退後はUSLチャンピオンシップ(北米2部リーグ)のサンディエゴ・ロイヤルを共同設立。チームの初代監督を務めたあと、現在は副社長としてクラブを運営している。
また最近になって、現役キャリアの間にたびたび鬱病を患っていたことを告白。いつの間にかプレーが義務となり、サッカーが楽しめないことに長年苦しめられていたという。