「ローマの王子」
抜群のテクニックと強靱なフィジカルを備え、イマジネーション溢れるパスでチャンスを演出しながら、自らもゴールを奪った万能型の10番。生まれ故郷のローマでキャリアを貫き、彫刻のような肉体と端正な容姿で「イル・プリンチペ(王子)」と称されたのが、フランチェスコ・トッティ( Francesco Totti )だ。
子供の頃から熱心なローマ・サポーターとして育ち、16歳でセリエAデビュー。若くしてチームの主力となった。01-02シーズンにはエースとして、そしてキャプテンとして18年ぶりのスクデットをもたらし、クラブの象徴としての地位を確立。「ASローマ史上最高の選手」と呼ばれた。
イタリア代表ではユーロ2000準優勝に大きく貢献。以降アズーリのエースとして欠かせない存在となるが、02年W杯とユーロ04では期待外れの結果に終わる。雪辱を期した06年W杯では決勝までの全7試合すべてに出場、イタリア6大会ぶり4度目の優勝に大きな役割を果した。
生粋のロマニスタ
トッティは1976年9月27日、古都ローマのポルタ・メトロニア地区に2人兄弟の次男として生まれた。銀行員の父は熱狂的なロマニスタで、週末になると一家でスタジアムへ出かけて観戦。息子のフランチェスコもその影響を受け、当時クラブのキャプテンであったジュゼッペ・ジャンジーニに憧れた。
5歳のときに地元ジュニアクラブでサッカーを始め、小学校に上がった7歳の頃には、天才的なボール捌きで早くも周囲の注目を集める存在となる。
12歳になるといくつもの名門クラブから誘いがかかるようになり、フランチェスコと家族が選んだのはもちろんASローマだった。こうして89年に赤いユニフォームへ袖を通したトッティは、ローマ一筋のキャリアを歩み始めた。
入団後はユースチームで3年を過ごし、93年3月にアウェーのブレシア戦で16歳にしてセリエAデビューを果す。そして最初の2シーズンは経験を積むため徐々に出番を増やしてゆき、94-95シーズンの開幕戦となるフォッジャ戦でセリエA初ゴールを記録。この得点をきっかけに常時レギュラーとして起用されることになった。
このままローマの次期エース候補として成長するかに思えたが、96年に新監督となったカルロス・ビアンチと反りが合わず出場機会は激減。97年1月にはサンプドリアへのレンタル移籍が合意寸前となるが、センシ会長の介入により土壇場で破談。トッティのローマ残留が決まった。
ローマの王子
96-97シーズンは12位と低迷しビアンチ監督は解任、97-98シーズンにはズデネク・ゼーマンが新監督に就任する。ゼーマン監督はハードなトレーニングを選手に課し、その厳しい鍛錬によってトッティのフィジカルと運動能力は向上。クラブは過去10年で最高成績のリーグ4位と好結果を挙げた。
この年から10番を背負ったトッティも、左ウィングのポジションで30試合13ゴールとプロ入り最高の成績。飛躍的な成長でその才能を発揮し、「ローマの王子」と呼ばれるようになる。
翌98-99シーズンも31試合12ゴールと安定の成績で終え、リーグの最優秀若手選手賞に選出。クラブのシンボルと認められるようになったトッティは、セリエA史上最年少となる22歳の若さでチームのキャプテンに就任した。
99-00シーズン、クラブは大物監督であるファビオ・カペッロをローマの新指揮官として招聘。カペッロ監督はトッティを中心としたチーム作りを進め、若き10番をトップ下にコンバート。当初こそ慣れないポジションで精彩を欠いたトッティだが、シーズン途中に移籍してきた中田英寿の存在が危機感を高め、見違えるようなパフォーマンスを披露する。
エースの復調とともに勢いを増したローマは、一時首位に立つも選手層の薄さを露呈。終盤に失速してしまい5位フィニッシュとなった。それでもトップ下としてプレーの幅を広げたトッティは、その活躍が認められセリエA最優秀選手賞とイタリア最優秀選手賞に輝く。
世界への飛躍
14歳からアンダー代表として活躍したトッティは、93年のU-16欧州選手権準優勝や96年のU-21欧州選手権優勝など様々な実績を残し、98年10月のユーロ予選、スイス戦でA代表デビュー。同年11月の親善試合スペイン戦で初先発を果し、代表初アシストを記録する。
そして2000年4月の親善試合ポルトガル戦で初ゴールを挙げると、そのままユーロのメンバーに選ばれ、6月に開催(ベルギー/オランダ共催)されたユーロ2000の本大会に臨んだ。
G/Lの初戦はトルコと対戦。トッティは不調のデル・ピエロに代わってFWとして先発出場を果し、2-1の勝利に貢献。続くベルギー戦では開始6分にヘディングによる先制ゴールを決め、マン・オブ・ザ・マッチに輝く活躍でチームを2-0の勝利に導く。
トッティら主力を温存した最終節もスウェーデンに2-1と勝利し、3戦全勝でグループ突破。トーナメント1回戦はトッティとインザーギのゴールでルーマニアを2-0と下し、3大会ぶりのベスト4に進む。
準決勝はオランダと対戦。デル・ピエロが先発したためトッティはベンチスタートとなった。試合は開催国オランダに怒濤の攻撃を仕掛けられ、アウェーのイタリアは防戦一方。34分にはDFザンブロッタが2枚目の警告で退場となり、早い時間での数的不利を強いられてしまう。
直後の39分には、DFネスタがクライファートのユニフォームを引っ張ったとしてPK判定。だがGKトルドがF・デ・ブールのキックを止め、どうにか前半を0-0で凌ぐ。
後半もオランダの猛攻は続き、61分にはMFユリアーノがダーヴィッツを倒して2度目のPKを献上。しかし今度はクライファートのキックがポストを直撃し、イタリアは再び難を逃れた。
75分にはデル・ピエロに代わってトッティが登場。イタリアは伝統の堅守で延長を含む120分を耐え抜き、不利な状況からPK戦に持ち込んだ。
先攻のイタリアは、トッティが大胆なチップキックを決めるなど3人がPKを成功させ、後攻のオランダはF・デ・ブール、スタムと2人続けて失敗。イタリア4人目のマルディーニが止められるも、オランダ4人目ボスフェルトのキックをトルドがナイスセーブ。劣勢を跳ね返したイタリアが決勝進出となった。
決勝の相手はW杯王者のフランス。0-0で折り返した後半の56分、トッティのヒールパスからペソットにボールが渡り、そこからのクロスに合わせたデルベッキオが先制弾。1-0のまま試合はロスタイムまで進み、イタリアの優勝が決まったかに思えたが、ヴィルトールにゴールを決められ痛恨の失点。
そして延長の103分にはトレゼゲのゴールデンゴールを許してしまい、土壇場の逆転劇でイタリアは8大会ぶり2度目の優勝を逃してしまう。それでもトッティは決勝のマン・オブ・ザ・マッチに輝き、大会の優秀選手にも選出。世界のトッププレーヤへと躍り出る。
ローマに君臨する10番
00-01シーズン、スクデット獲得を狙うローマはバティストゥータ、サムエル、エメルソンら新戦力を補強。トップ下でゲームメークとセカンド・アタッカーを担うトッティは、2トップのバティストゥータ、モンテッラとともに「驚異のトリオ」を形成。チーム得点の大半を量産した。
こうして最後は強豪ユベントスやライバルのラツィオをかわし、18年ぶり3度目となるセリエA制覇。チームの大黒柱として優勝の立役者となったトッティは、2年連続のイタリア最優秀選手賞に選出。バロンドール候補にも挙げられ、名実ともに「王子」から「王様」へとステージを上げた。
翌01-02シーズンは怪我の影響でパフォーマンスを落とし、チームも1ポイント差でユベントスに優勝をさらわれてしまう。だが02-03シーズンはプロ初のハットトリックを記録するなど復調。チームはリーグ8位と低迷したが、コッパ・イタリアでは12季ぶりの決勝に進出。
決勝ではACミランに3-6と敗れて準優勝に終わるも、2得点と一人気を吐いたトッティ。リーグでの活躍と合わせ、2度目となるセリエA最優秀選手賞とイタリア最優秀選手賞のダブル受賞となった。
03-04シーズンは31試合20ゴールと完全復活。ACミランの首位独走を許したものの、セリエAの2位確保に大きく貢献し、4度目のイタリア最優秀選手賞を獲得する。
W杯・日韓大会の屈辱とユーロ04
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。G/L初戦のエクアドル戦は開始7分にトッティのクロスからヴィエリが先制点。27分にもヴィエリが追加点を決め、2-0の快勝を収めた。
続くクロアチア戦もヴィエリのゴールで先制するが、ネスタの負傷退場でイタリアDFに綻びが生じ、後半の73分、76分と立て続けに失点。1-2と思わぬ逆転負けを喫する。
グループ突破を懸ける最終節はメキシコと対戦。前半34分にメキシコの先制ゴールを許して窮地に陥るが、終盤トッティに代わって投入されたデル・ピエロが85分に起死回生の同点ゴール。イタリアはグループ2位で決勝トーナメントに進む。
トーナメント1回戦は開催国の韓国と対戦。この試合でトッティとデル・ピエロが先発初共演を果した。前半18分、トッティのCKからヴィエリのヘディングゴールでイタリアが先制。しかしカンナバーロ、ネスタと2人のCBを欠いた守備陣にいつもの安定感がなく、韓国寄りのジャッジもあって終盤の88分に追いつかれてしまう。
延長に入った103分、トッティがPエリアで倒されPKを獲得。かと思えたが、逆にシミュレーションを取られこの日2枚目のイエロー。不可解な判定でピッチを退くことになった。そして数的不利を強いられた延長後半の117分には、安貞桓にゴールデンゴールを決められ1-2とまさかの敗戦。イタリアは無念の帰国となった。
2年後のユーロ04(ポルトガル開催)でこの屈辱を晴らさんとしたトッティだが、G/L初戦のデンマーク戦で相手の顔に唾を吐きかける非紳士的な行為。試合後UEFAによる審議が行なわれ、3試合の出場停止処分となった。攻撃の軸を失ってしまったイタリアはあえなくG/L敗退、期待されたトッティには汚名だけが残った。
大怪我からの復帰
04-05シーズンはカペッロ監督がユベントスに引き抜かれ、クラブの経営難もあってチーム成績は低迷。この頃からトッティの移籍も噂されるようになるが、チームの象徴である彼がローマを離れるのはあり得ない話だった。
翌05-06シーズン、スパレッティ新監督のもとでローマは11連勝のセリエA新記録を達成。CFに起用されたトッティは、時に中盤に下がって味方のスペースとチャンスを作る「偽9番」の役割をこなし、チームの快進撃を支えた。
だがシーズン後半の06年2月、エンポリ戦の開始直後に相手のバックチャージを受けて左足腓骨骨折と靱帯損傷の大怪我。4ヶ月後に迫っていたW杯本番への出場が絶望視される事態となった。
それでも最先端医療による手術と懸命のリハビリを経て、5月11日のコッパ・イタリア決勝(インテル・ミラノに敗れて準優勝)で途中出場による奇跡の復帰。コンディションに不安を抱えながらも、リッピ監督の信頼を得てW杯メンバーにも選ばれた。
大舞台での雪辱
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。トッティは手術で取り付けられた金属プレートを左足首に埋めたまま、G/L最初の試合でトップ下として先発出場した。
初戦はガーナに2-0と快勝し、第2戦はアメリカと対戦。ジェラルディーノのヘッドで先制しながらオウンゴールで追いつかれた直後の28分、MFデ・ロッシがマグブライトへの肘打ちで一発退場。35分にはコンディション不良のトッティに代わりガットゥーゾが投入される。イタリアはガットゥーゾの豊富な運動量で数的不利をカバーし、1-1の引き分けに持ち込んだ。
最終節はチェコに2-0と勝利し、イタリアは1位でのグループ突破を決める。トッティはこの試合セカンド・ストライカーとして起用され、復調の気配を見せた。
トーナメントの1回戦は、ヒディンク監督率いるオーストラリアと対戦。G/Lの疲れが残るトッティはベンチスタートとなった。0-0の均衡状態で進んだ後半の75分、リッピ監督は先発のデル・ピエロに代えてトッティを投入する。
そして後半もロスタイムに入った95分、左SBのグロッソがPエリアで倒されPKを獲得。これをトッティがパーフェクトなキックで決め、土壇場での勝利を収めた。
準々決勝のウクライナ戦はセカンド・ストライカーとして先発に復帰し、2本のアシストで得点機を演出。3-0の完勝に大きな役割を果す。準決勝は開催国のドイツと接戦を繰り広げ。試合は0-0のまま延長戦に突入。PK戦にもつれ込むかと思えた延長後半の119分、ピルロのパスからグロッソが先制ゴール。121分にも途中出場のデル・ピエロが追加点を挙げ、ついに決勝へと勝ち上がった。
決勝の相手はフランス。開始7分にジダンのPKで先制されるが、19分にはピルロの右CKからマテラッツィが同点弾。このあと堅守を誇るチーム同士の戦いは膠着状態となり、動きを封じられたトッティは後半61分にベンチへと下がった。
1-1で迎えた延長後半の110分、マテラッツィの挑発に乗ったジダンが頭突きを見舞って一発退場。だがイタリアは数的優位を生かせず、勝負はPK戦へともつれ込む。PK戦ではフランス2人目のトレゼゲがゴールを外したのに対し、イタリアは5人全員が成功。24年ぶり4度目となる栄冠を手にした。
故障を抱えていたトッティは大会の主役になれなかったものの、チームプレーに徹してユーロ2000決勝の借りを返し、加えて02年W杯とユーロ04の雪辱を果した。
翌07年7月、30歳のトッティはクラブの活動に専念したいとの理由で代表からの引退を発表。このあと大きな大会ごとに復帰を望む声が上がるも、それが実現することはなかった。9年の代表歴で58試合に出場、9ゴールの記録を残す。
06-07シーズン、怪我を克服したトッティは35試合26ゴールとキャリアハイの成績。初となるセリエA得点王と欧州ゴールデンシューを獲得する。リーグ戦ではインテル・ミラノに及ばず2位に終わるが、コッパ・イタリア決勝ではACミランを破って16季ぶり8度目の優勝。キャプテンのトッティは5度目のイタリア最優秀選手賞に輝く。
そのあと年齢を重ねても水準以上のパフォーマンスを保ち続け、10-11シーズンには史上6人目となるセリエA通算200得点を記録。12-13シーズンには通算得点を226まで伸ばし、シルヴィオ・ピオラ(274得点)に続くリーグ歴代2位となる。
14-15シーズンのチャンピオンズリーグでは、グループステージのCSKAモスクワ戦で直接FKを叩き込んで、38歳59日の大会最年長得点記録を樹立。40歳を目前とした15-16シーズンは、当時3人目となるセリエA通算600試合出場を果す。
そして翌17年の5月、16-17シーズン限りでの引退を発表。ローマのバンディエラを貫いたプロ生活の25年で公式戦786試合に出場、通算307ゴールの記録を残した。いずれもASローマの歴代最多レコードである。
引退後はローマのシニアディレクターに就任するも、パロッタ会長と対立して19年6月に辞任。現在は「ナンバーテン」と名付けたブランドビジネスを展開する一方、サッカースクールを開校して後進の育成に当たっている。