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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ドワイト・ヨーク(トリニダード・トバゴ)

 

「 微笑みの暗殺者 」

小国トリニダード・トバゴの出身ながら、抜群の決定力でプレミアリーグを席巻。高い身体能力を活かしたヘディングを武器とし、常に笑顔を浮かべながら確実にゴールを捕える凄みで「スマイリング・アサシン(微笑みの暗殺者)」の異名をとったのが、ドワイト・ヨーク( Dwight Eversley Yorke )だ。

 

名門マンチェスター・ユナイテッドでは、移籍1年目からリーグ得点王とCL得点王の大活躍。98-99シーズンのトレブル(三冠)達成に大きな役割を果たし、プレミア最優秀選手に選出される。「ホットセット」呼ばれるFWコンビを組んだアンディ・コールとは、絶妙なコンビネーションを見せてファンを魅了した。

 

代表では、06年W杯予選のトリニダード・トバゴ初出場決定に貢献。ドイツ大会本番はあえなくグループ最下位で敗退となったが、強豪スウェーデンとの試合で圧倒的不利を予想されながらも0-0の大健闘。キャプテンとしてチームを牽引したヨークが、「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれている。

 

小国の麒麟

ヨークは1971年11月3日、カリブ海に浮かぶ島国トリニダード・トバゴカナーンに生まれた。幼い頃に自動車事故で両足を骨折し、2度と歩けないと言われながらも驚異的な治癒力で回復。テレビで放映された英国の試合を観てトッテナム・ホットスパーのファンとなり、サッカーに強い興味を抱く。

しかしクリケットが国技のトリニダード・トバコでは満足な練習場もなく、川辺や海岸でボールを蹴って技術の習得に努めたという。

そのあと、シグナルヒル総合学校のチームで本格的な競技を開始。プロへのほのかな憧れはあっても、その願いを叶えるにはほど遠い環境だった。

だが17歳となったとき、ヨークに幸運な人生の転機が訪れる。イングランドアストン・ビラが、西インド諸島ツアーの一環として英国連邦の一員であるトリニダード・トバゴに来訪。その時行なわれた親善試合にヨークが出場し、彼の素質を見抜いたグレアム・テイラー監督から「クラブのテストを受けにイングランドへ来ないか」と声を掛けられたのだ。

ヨークはその申し出を喜んで承諾。するとアストン・ビラのトライアルに見事合格し、プロ選手になるという夢への第一歩を踏んだ。

アストン・ビラのユースチームで1年を過ごし、89年3月のクリスタレス・パレス戦でファースト・ディヴィジョン(旧イングランド1部リーグ)デビュー。当初は右ウィングとして起用され、3年目の91-92シーズンに32試合11ゴールの成績でレギュラーの座を獲得する。

 

マンチェスター・ユナイテッドのエース

プレミアリーグ開設4年目の95-96シーズンにCFへ転向。35試合17ゴールの好成績を挙げ、トップストライカーとしての地位を確立。チームはUEFAカップ(現EL)出場権が得られるリーグ4位を確保するとともに、リーグカップを制覇。ヨークは8試合6得点の活躍で、優勝の立役者となった。

翌96-97シーズンもFWとしての高い能力を発揮し、10人の劣勢で戦ったニュースカッスル戦でハットトリックを記録するなど大活躍。そのパフォーマンスが強豪クラブの注目を引き、98-99シーズンの始めにマンチェスター・ユナイテッドへ移籍する。

ユナイテッドでは、容姿とプレースタイルがよく似たアンディ・コールと「ホットセット」と呼ばれる2トップを組み、絶妙なコンビネーションで1年目から32試合18ゴールの大活躍。初のプレミア得点王で2年ぶりのリーグ優勝に貢献した。

FAカップ準々決勝のチェルシー戦では、0-0のまま決着が付かず3日後に再戦。ヨークはその再戦で2得点を叩き出すという殊勲の働き、3季ぶりのFAカップ制覇に寄与した。

そしてチャンピオンズリーグでも顕著な働きを見せ、バルセロナインテル・ミラノユベントスといった強豪相手に得点を重ねて決勝進出に貢献。決勝ではバイエルン・ミュンヘンを「カンプノウの奇跡」と呼ばれる劇的勝利で下し、トレブル(三冠)の偉業を達成する。

11試合で8得点を挙げたヨークは、ディナモ・キーウのアンドリー・シェフチェンコと並ぶ大会得点王。99年11月に行なわれたトヨタカップでも、ブラジルのパルメイラスを1-0と制して世界一に輝く。選手の怪我やターンオーバー制で先発が頻繁に入れ替わる中、ヨークは主力FWとしてすべての優勝の瞬間に立ち会った。

そしてトレブル達成の最大の功労者として、プレミアリーグの最優秀選手賞に選出。カリブの小国からやってきた無名選手が、ついに欧州一流リーグの頂点に立ったのだ。

 

トリニダード・トバゴ代表

トリニダード・トバゴ代表には89年に18歳で初招集。7月に行なわれたカリビアカップ89のメンバーに選ばれ、決勝のグレナダ戦で2得点を挙げて優勝の立役者となる。

第10回CONCACAFコンカカフ(北中米カリブ海連盟)選手権にも参加。長期間のホーム&アウェー戦で行なわれたこの大会は90年W杯予選も兼ねており、上位2チームがイタリア大会への出場権を得る事になっていた。

トリニダード・トバゴは予選を快調に勝ち抜き、5ヶ国が参加する選手権本大会へ進出。予選で中米の強豪国であるメキシコがユース代表の不正行為により失格処分となっていたため、トリニダード・トバゴも上位2チームに入る可能性が出ていた。

ホーム&アウェーによる本大会でも順調に勝ち点を重ねてゆき、ついに1試合を残してコスタリカに続くグループ2位。ホームの最終戦で3位につけるアメリカと戦い、引き分けても初めてのW杯が決まるという大きなチャンスが訪れる。

ホームのナショナルスタジアムには収容定員を超える3万人のサポーターが集まり、政府の肝いりで全観客が自国のシンボルカラーである赤いシャツを着て応援を行なった。

しかし38分にアメリカの先制点を許し、反撃虚しく試合は0-1で終了。痛恨の敗戦を喫したトリニダード・トバゴアメリカにかわされ3位転落となり、W杯初出場の夢は打ち砕かれた。それでも観客たちは勝者のアメリカを拍手で称え、トリニダード・トバゴのサポーターにはFIFAからフェアプレー賞が贈られた。

このあとトリニダード・トバゴは94年W杯予選、98年W杯予選も早々に敗退。その間ヨークは代表で目立つことはなく、10年間で13試合2ゴールの記録を残しているのみである。

 

アンディ・コールとの「ホットセット」

99-00シーズンも、ヨークが20ゴール、A・コールが19ゴールと「ホットセット」の2トップが大暴れ。ユナイテッドは2位アーセナルに勝ち点で18ポイント、総得点(97点)で24もの大差をつける圧倒的攻撃力で、リーグを2連覇した。

しかし翌00-01シーズンは、コールの怪我もあり22試合9ゴールと低迷。それでも天王山となったアーセナルとの試合でハットトリックを決め、ユナイテッドのリーグ3連覇に貢献する。

01-02シーズンはファン・ニステルローイの加入で出番を失い、相棒コールも放出されて10試合1ゴールの成績。シーズン後半の02年1月、ミドルズブラへの移籍交渉を試みるも、契約は不成立。これ以降ヨークはベンチからも外され、試合に姿を見せることはなかった。

02-03シーズン、ブラックバーン・ローヴァーズに移籍。ここでコールと再開し「ホットセット」コンビを組むも、ユナイテッド時代ほどの威力はなく、2人で15ゴールを挙げるにとどまった。

 

W杯初出場の快挙

トリニダード・トバゴ代表では、2000年のCONCACAFゴールドカップ(旧CONCACAF選手権)に出場。メキシコ、グアテマラとのグループリーグを勝ち抜いたトリニダード・トバゴは、準々決勝でコスタリカに延長戦勝ち。準決勝は優勝したカナダに0-1と惜敗するも、89年大会以来の3位を確保する。

ヨークはこの年、国際Aマッチ9試合に出場して8ゴールと代表キャリア最高の成績を残した。01年もW杯予選に参加し7試合に出場したが、トリニダード・トバゴはまたも敗退。監督と衝突したヨークは代表からの引退を宣言した。

04年から始まったドイツW杯予選でもトリニダード・トバゴは苦戦。チーム立て直しのため、05年4月にオランダの名将レオ・ベーンハッカーが招聘された。ベテランの力を必要としたベーンハッカー監督は、33歳のヨークとスコットランドで活躍する36歳のラッセル・ラタピーを招集。それを受けてヨークは4年ぶりに代表へ復帰する。

ヨークは代表のキャプテンを務め、ベテラン2人に率いられたチームの勢いは右肩上がり。ホームの最終戦では強豪メキシコを2-1と打ち破り、最終予選の4位に滑り込んで大陸間プレーオフの権利を得た。

大陸間プレーオフで戦うのはアジア地域のバーレーン。ホームでの第1戦は0-0と引き分け、アウェーでの第2戦は1-0の勝利。カリブの小国が、W杯予選参加40年目にして悲願を成し遂げた。

ヨークは代表でボランチのポジションを務め、経験豊富なプレーでチームをコントロール。見事トリニダード・トバゴをW杯初出場に導いた。

 

ドイツ大会での大健闘

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕、G/L初戦で北欧の雄スウェーデンと対戦した。イブラヒモビッチラーションユングベリら強力な攻撃の圧を受けるも、トリニダード・トバゴの守備陣は高い集中力ではね返し続ける。

だが後半開始の46分、味方DFが2枚目のイエローカードで退場。トリニダード・トバゴはますます劣勢に立たされた。それでもチームは高い士気を保ち続け、ボランチのヨークは老獪な守備で相手の攻撃の芽を潰していく。

このまま後半も耐え抜き、試合は0-0でタイムアップ。圧倒的不利を予想された小国にとっては金星に近いドローとなり、貴重な勝ち点1獲得の立役者となったヨークが「マン・オブ・ザ・マッチ」に選ばれた。

続くイングランド戦も厚い守りで優勝候補を相手にゲーム終盤まで0-0と善戦。しかし83分にクラウチのゴールを許し、ロスタイムにもジェラードのミドルシュートで失点。惜しくも0-2で敗れる。

最終節のパラグアイ戦は、グループ突破のための勝利を目指して攻撃的布陣。しかし前半25分に不運なオウンゴールで先制を許すと、86分にも追加点を決められ0-2の完敗。最下位に沈み小国の快挙はならなかった。

しかし強敵揃いのグループで大惨敗が予想された中、3試合無得点に終わったものの、じゅうぶん大健闘と言える結果だった。

 

シドニーFCの中心選手

04-05シーズンにはバーミンガムでプレー。翌05-06シーズン、オーストラリアに初のプロリーグ(Aリーグ)が発足すると、ヨークは新リーグの目玉選手として招聘を受け、シドニーFCと契約。メルボルン・ビクトリーとの開幕戦ではダイビングヘッドでデビューゴールを決めた。

シドニーFCはレギュラーシーズンで2位となり、上位4チームがトーナメントで争うファイナルシリーズに進出。グランドファイナルを制して初代Aリーグチャンピオンに輝く。

リトバルスキー監督にMFで起用されヨークは、経験と実績でチームを統率。22試合7ゴールの成績でシドニーFCを優勝に導き、ジョー・マーストン・メダル(最優秀選手賞メダル)を授与される。

同年にはオセアニアクラブ選手権も制し、日本で行なわれるFIFAクラブ世界選手権(現FIFAクラブワールドカップ)の出場権を獲得。横浜FC三浦知良期限付き移籍で加えたシドニーFCは、クラブ選手権の準々決勝で中米コスタリカのサプリサに0-1と敗れるも、5位決定戦でエジプトのアル・アハリに2-1と勝利。ヨークは先制点を挙げて勝利に貢献した。

 

37歳での現役引退

シドニーFCとは1年の契約を終え、06年8月にプレミアのサンダーランドへ移籍。07年には三たびA・コールとプレーし、ここで3シーズンを過ごした。

代表では08年に6度目となるW杯予選へ参加。ヨークはアメリカ、キューバ戦でゴールを挙げて3次予選突破に貢献するも、最終予選ではグループ最下位に沈み敗退を喫する。

サンダーランドとの契約も終了し、しばらく無所属の状態が続いていたが、09年9月に37歳で現役引退を表明。トリニダード・トバゴ代表では実質稼働の13年で72試合に出場、19得点の記録を残した。

引退後にコーチングライセンスを取得。現在は衛星有料放送スカイ・スポーツの解説者を務めながら、監督依頼のオファーに備えているという。