「アジアの虎」
東洋人離れした体幹の強さと抜群の身体能力を誇り、相手をなぎ倒す加速力でゴールへ突進。両足から繰り出される強烈なシュート、打点の高いヘディングに加え、秀でたテクニックも備えたオールラウンドなFW。80年代ブンデスリーガで得点を量産し「アジアの虎」と恐れられた韓国人ストライカーが、車 範根(チャ・ブングン/Cha Bum-Kun)だ。
アジアで飛び抜けた実力を示し、70年代終わりに西ドイツへ挑戦。ここでもトップクラスのFWとして活躍し、フランクフルトとレバークゼンでUEFAカップ優勝に貢献する。ブンデスリーガの10年間では通算98得点を記録し、同時代の奥寺康彦とともに東洋人欧州挑戦の先駆け的存在となった。
西ドイツに渡ってしばらく韓国代表から遠ざかるが、同国32年ぶりの出場となった86年W杯メキシコ大会で復帰。ゴールは生まれなかったものの、韓国のエースとして大舞台のピッチを踏んだ。現役引退後は指導者の道に進み、代表監督として母国を98年フランスW杯出場に導く。
農村で鍛えたストライカー
車 範根は1953年5月22日、首都ソウルにほど近い京畿道華城市の寒村に、農家の息子として生まれた。コチュジャンを混ぜた麦飯を主食にするなど、一家の暮らしは決して豊かではなかったが、範根少年の身体は畑仕事の手伝いなどで逞しく育つ。
その屈強な身体に加えて運動能力も抜群で、華山小学校時代からサッカー、陸上競技、ハンドボール、レスリングとスポーツ万能ぶりを発揮。そこで父グムドンはアスリートとしての将来に期待し、なけなしの金をはたいて息子へスケート靴を買い与えた。
すると範根少年は、冬の早朝からスケート靴を履き、凍った貯水池をひたすら周回トレーニング。そのおかげで下半身が鍛えられ、のちに繋がる基礎体力が出来上がっていったという。
進学した永島中学校では、自分の才能を最も活かせるサッカークラブに入部。だがそのサッカークラブは入部早々に解散してしまい、仕方なくフィールドホッケー部に転部。サッカー選手を目指していた範根少年は途方に暮れてしまう。
範根からの相談を受けた父グムドンは、畑の一部を売り払って息子の転校費用を捻出。2年生の2学期になると、強豪サッカー部のある慶信中学へ通わせる。
その慶信中学でサッカー選手としての才能を開花。このまま系列の慶信高校に進むはずだったが、先輩からの暴力に耐えかね、ライバル校である慶星高校への進学を決意。だがこれが校内で大きな騒動を巻き起こし、不義理で家に戻れなくなった範根は、ソウルの友人宅へ逃避行。サッカー選手としての未来も諦めざるを得なくなった。
そんな苦境をサッカー部の恩師と長兄に助けられ、無事に慶星高校へ進学。すぐに高校サッカーで頭角を現し、2年生となった70年には韓国ユースの代表入り。71年のアジアユース選手権にも出場する。こうして将来を嘱望される選手となった範根には、慶信大学、延世大学、慶熙大学、高麗大学といった名門大の間で激しい争奪戦が繰り広げられた。
加熱した争奪戦で範根の拉致誘拐も危惧される中、高麗大OBである海軍将校の強引な介入により、72年には同大学サッカー部への入部が決定。他の大学を啞然とさせるなど、まだ荒っぽさが残る時代に翻弄された進学となった。
韓国の若きエース
高麗大学1年生の72年春、タイで開催されたアジアユース選手権に出場。範根はエースストライカーとしてチームの準優勝に貢献する。そしてこのままタイに残り、同地で5月に開催されたアジアカップのメンバーに合流。大会のイラク戦で史上最年少となる18歳でのフル代表デビューを飾ると、3日後のカンボジア戦でさっそく初ゴールを記録した。
その1ヶ月後には、当時アジアで最も権威あるトーナメントの一つとされた、マレーシア開催のムルデカ大会に出場。範根は3ゴールの活躍で韓国を2年ぶり5度目の優勝に導き、早くも代表エースの座を確立する。
73年には西ドイツW杯・アジア/オセアニア予選に参加。範根は2ゴールを記録して韓国を予選決勝へと進めるも、最終対決でオーストラリアに敗れて初のW杯出場はならなかった。
高麗大でもエースとして活躍。74年には韓国サッカー選手権(韓国FAカップの前身)優勝の立役者となる。大学卒業後の76年、実業団リーグに所属するセミプロのソウル信託銀行FCに入団。チームを優勝に導き、リーグの春季最優秀選手賞に選ばれる。
同年10月、兵役期間6ヶ月の短縮を約束され、徴兵と共に韓国空軍FC(現、金川尚武FC)に入団。国内トップクラスの選手として活躍し、韓国FAベストイレブンにも大学時代から7年連続で輝く。
一方韓国代表ではウィングを務め、75年のムルデカ大会で日本を相手に初のハットトリックを記録。76年のコリアカップ・マレーシア戦では、終盤1-4の劣勢からわずか6分の間にハットトリックでドローに持ち込むという離れ業を演じ、その名をアジアに轟かせた。
ブンデスリーガへの挑戦
77年2月から始まったW杯アジア/オセアニア予選では、全12試合に出場して5ゴール2アシストの活躍。韓国は最終決戦でイランに敗れてまたもW杯出場を逃すが、範根のプレーは親善試合を行なった西ドイツクラブ監督の目に止まり、ブンデスリーガのSVダルムシュタット98から招待される。
2年の兵役期間終了を間近に迎えた範根は、78年12月のアジア競技大会参加後、クラブに休暇を取って西ドイツへと渡航。ダルムシュタットのトライアルを通過して、見事プロ契約を結ぶ。しかし韓国空軍は、兵役期間短縮の約束を反故にし、範根へ帰国を命令。韓国初の欧州リーグプロ選手は、わずか1試合をプレーしただけで母国に戻ることとなった。
79年5月にようやく海軍を除隊。範根は6月に再び西ドイツへ渡ると、2部リーグ降格となったダルムシュタットに代わり、アイントラハト・フランクフルトと新たな契約。こうしてアジア最高のストライカーは、26歳にして欧州へ活躍の場を移す。
アジアの虎
同年8月、シーズン開幕戦となるドルトムント戦でブンデスリーガデビュー。そのあと、第3節のシュツットガルト戦から第5節のレバークーゼン戦まで3試合連続でゴールを決め、現地に一大センセーションを起こした。
こうしてブンデス1年目の79-80シーズンは、31試合12ゴール11アシストの好成績。UEFAカップ(現EL)でも11試合3ゴール3アシストと活躍し、フランクフルト初となる欧州タイトル獲得に貢献。初めて欧州の勲章を手にしたアジア選手にもなった。
範根のプレーは大会にインパクトを残し、予選ラウンドで対戦したアバディーンFC(スコットランド)のアレック・ファーガソン監督から「止めることの出来ない選手」と評され、決勝で戦ったボルシアMGのローター・マテウスからは「世界最高のアタッカーのひとり」と絶賛。リーグ年間ベストイレブンにも選ばれる。
ルンメニゲやケビン・キーガンらと並ぶトップストライカーとなった範根だが、翌シーズンの開幕直後、背後から激しいタックルを受けて腰椎骨折の大怪我。1ヶ月の戦線離脱を余儀なくされ、80-81シーズンは27試合8ゴール8アシストの成績に終わる。
それでもDFBポカール(ドイツカップ)では、6試合6ゴール2アシストの大活躍。決勝のカイザースラウテルン戦では試合を決めるゴールを挙げ、クラブ5年ぶり3度目となる優勝の立役者となった。
一方、東洋人への偏見からかラフプレーを受けることも多く、たびたび脚を狙われて怪我も絶えなかった。そんな状況でも81-82シーズンは11ゴール、82-83シーズンは15ゴールとチーム最多の得点を記録。その突進力と得点力で「アジアの虎」と恐れられた。
同じ頃、ともに西ドイツで戦っていたのが日本の奥寺康彦(当時ブレーメン)だった。奥寺の方がブンデスリーガへ加わったのは77年と少し早かったが、二人は同時代に異国の地で切磋琢磨。アジア人欧州挑戦のパイオニアとなる。
レバークーゼンへの移籍
83年春、クラブの財政難により4年を過ごしたフランクフルトを退団。範根は世界のトップリーグであるセリエAへの移籍を希望するが、不動産詐欺に巻き込まれ、問題解決のため西ドイツへ残留。高額報酬の条件提示を受け、バイエル04・レバークーゼンと契約を交わした。
移籍1年目の83-84シーズンから34試合12ゴール8アシストと活躍すると、翌84-85シーズンも故障に悩みながら、10ゴール1アシストと安定した成績を残す。
そしてブンデス7年目の85-86シーズン、34試合17ゴール6アシストとキャリアハイの成績を記録。前季16位に低迷したチームをリーグ6位に押し上げ、クラブ初となるUEFAカップ出場権獲得に大きく貢献。2度目となるリーグ年間ベストイレブンにも輝く。
最初で最後の大舞台
85年秋、韓国代表はアジア最終予選で日本との激戦を制し、54年スイス大会以来2度目となるワールドカップ出場を決める。
西ドイツに渡って代表から遠ざかっていた範根だが、韓国国内に起こった待望論を受け、W杯出場のため6年半ぶりの復帰。33歳で初の大舞台に臨むこととなった。
86年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。韓国はG/L初戦でアルゼンチンと対戦する。試合はマラドーナのプレーに圧倒され、前半で3失点。終盤1点を返すも、1-3の完敗を喫する。チームで唯一名を知られた範根は徹底マークに封じられ、大会直前の怪我もあって精彩を欠いてしまう。
続く第2戦はブルガリを相手に善戦を演じ、1-1の引き分け。同国史上初となるW杯での勝点1を得る。第3戦はイタリアに2-3と敗れるも、終盤まで強豪を苦しめる大健闘ぶり。しかしグループ最下位に沈んで大会を去って行った。
範根は3試合にフル出場したが、他の選手との力量差やコンビネーション不足もあり、一人タイトなマークを受けてノーゴールの結果。それでも初の大舞台で最後の雄姿を飾り、足かけ16年に及ぶ代表活動を終えた。
実質8年の代表歴では136試合に出場、58得点の記録を残した。これは現在でも韓国代表の歴代最多記録(出場数は洪 明甫に並ぶトップタイ)である。
2度目の栄冠
86-87シーズン、FWから中盤へと役割を変えて33試合6ゴール13アシストの成績。87-88シーズンは25試合4ゴール9アシストと衰えを見せるが、UEFAカップではレバークーゼンの快進撃を助けてチームを初の決勝に導く。
決勝の相手はスペインのエスパニョール。敵地での第1戦は0-3の完敗を喫するも、ホームでの第2戦で後半に逆襲。2点を奪って猛追をかけると、終盤の81分に範根が値千金の3点目。レバークーゼンが2戦合計3-3と追いつき、このあとPK戦を制してクラブ初となるタイトルを獲得。殊勲弾の範根は自身2度目となるUEFAカップを掲げた。
翌88-89シーズン終了後、36歳で現役を引退。ブンデスリーガの10年間で刻んだ308試合98ゴールは、当時リーグ外国人選手の最多記録となった。またそのキャリアで激しいファールを受け続けていたのにかかわらず、自身が貰ったイエローカードはわずか1枚だけだったという。
監督としてのW杯
引退後は指導者の道に進み、Kリーグ・蔚山現代FCや女子チーム・仁川現代の監督を務めた。97年1月、韓国代表監督に就任。前年のアジアカップで結果を残せなかった代表の強化を託された新監督は、ドイツ流の戦術を採り入れてチームを再構築。洪 明甫、黄善洪、崔 龍洙、柳 相鉄、河 錫舟ら優秀なタレントを揃え、W杯アジア予選を圧倒的な強さで勝ち抜く。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。W杯初勝利を目指す初戦の相手は、メキシコだった。前半28分、河 錫舟が25mのFKを決めて韓国が先制。だがその直後の30分、先制弾の河 錫舟が後方からのタックルで一発退場。残り時間を10人で戦うことになる。
後半51分に追いつかれると、終盤に入って立て続けに失点を喫して1-3の逆転負け。悲願の初勝利を掴み損ねてしまう。続く第2戦は強豪オランダに0-5の惨敗、2連敗で早くも韓国のグループ敗退が決る。
オランダ戦後、期待を裏切る結果に大韓サッカー協会は車 範根監督の更迭を発表。最終節はアシスタントコーチが指揮を執り、ベルギーと1-1で引き分けた。
W杯後、範根はKリーグにはびこる八百長の実態をマスコミに暴露。大韓サッカー協会から5年間の活動禁止処分を受け、母国を離れて中国・深圳平安で監督を務める。
99年、IFFHS(国際サッカー歴史統計連盟)による20世紀アジア最優秀選手に選定。02年日韓W杯では、息子である車ドゥリの活躍を解説者として見届けた。
04年には水原三星の監督としてKリーグに復帰。2010年以降は、高校サッカーの指導者やテレビ解説者として活動している。