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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ルイス・フィーゴ(ポルトガル)

「黄金世代のドリブラー

サイドラインを直線的に切り裂く破壊力と、キレ味鋭い切り返しでDFを置き去りにしたドリブラー。創造性とキックの精度、得点能力の高さも持ち合わせ、ポルトガル史上最高の選手の一人と言われたのが、ルイス・フィーゴ( Luís Filipe Madeira Figo )だ。

 

ポルトガル「ゴールデン・ジェネレーション(黄金世代)」の中核として活躍。一時は代表から退くも、フェリペ・スコラーリ監督に請われて06年のWカップで復帰。キャプテンとしてチームを引っ張り、母国を大会ベスト4に導いた。

 

2000年の夏、バルセロナから宿敵レアル・マドリードへ禁断の移籍。バルサ・サポーターを激怒させたが、レアル「ギャラクティコ(銀河系軍団)」の嚆矢として大きな役割を果たした。

 

ポルトガルの「ゴールデン・ジェネレーション」

フィーゴは1972年11月4日、ポルトガル中南部にあるアレンテージョで生まれた。幼少期にリスボンへ移住して労働者地区で育つが、一人息子の彼は、当初は医者を目指したほど学業優秀だったという。

小さい頃からストリートサッカーに熱中し、12歳で名門スポルティング・リスボンのアカデミーに入団する。それからは学業よりサッカーに専念、ユースのフットサルチームで足技を磨いた。

17歳となった90年4月、マリティモ戦でトップチームデビュー。翌91-92シーズンはレギュラーに定着し、91年12月のトーレエンセ戦でプロ初ゴールを記録する。

フィーゴら優秀な選手が揃った世代は、ポルトガルのアンダー代表としてU-17ヨーロッパ選手権に優勝。さらに89年、91年のワールドユース選手権(現U-20W杯)で連覇の快挙を果たす。

フィーゴルイ・コスタパウロ・ソウザフェルナンド・コウトジョアン・ピントら有望選手が揃ったこの世代は、ポルトガルの将来を担う「ゴールデン・ジェネレーション(黄金世代)」と呼ばれ期待された。

91年10月にはフル代表に招集され、16日の親善試合・ルクセンブルグ戦でデビューを飾る。だが当時ポルトガルが低迷期にあったため、国際舞台への出場は「黄金世代」が代表の主力に成長するまで待つことになる。

 

リスボンでは主力選手として、94-95シーズンのポルトガルカップ優勝に貢献。「黄金世代」の仲間たちが次々とイタリアのクラブに移籍する中、フィーゴにもセリエAユベントスパルマからオファーが舞い込んだ。

リスボンとの契約が残っているにもかかわらず、フィーゴ代理人ユベントスと仮契約。その後、より好条件を示したパルマとも契約を交し、二重契約の状態となってしまった。

この背信行為はUEFAで問題視され、フィーゴイタリアサッカー連盟から「2年間、イタリアでのプレーを禁止」を申し渡されてしまう。

行き場を失ったフィーゴに声を掛けてきたのは、バルセロナのクライフ監督。当時はバルサの「ドリームチーム」が崩壊しようとしていた時期。クライフ監督は、レアル・マドリードへ移籍したミカエル・ラウドルップの後継者として、フィーゴの獲得を熱望したのである。

95-96シーズン、バルサに移籍したフィーゴはすぐに右サイドのレギュラーとして活躍。しかし2シーズン連続でタイトルを逃したクライフ監督は、リーグ戦終了を待たずに解任となった。

「黄金世代」が主力に育ったポルトガル代表は、ブロック予選を1位で勝ち抜き、3大会ぶりとなる欧州選手権本大会出場を決める。

96年6月、ユーロ96がイングランドで開催。G/L初戦をデンマークと引き分け、第2戦ではトルコに1-0と勝利。最終節は、独立後の国際舞台初登場となったクロアチアと対戦し、フィーゴの先制点で3-0の快勝。グループ1位で決勝トーナメントに勝ち上がった。

準々決勝は得点力を欠いてチェコに0-1と敗戦。ポルトガルは大会ベスト8に終わるが、中盤で頻繁なポジションチェンジとパスを駆使するサッカーは、次へのさらなる飛躍を期待させるものだった。

 

バルサのリーダー

96-97シーズン、ブラジルのロナウドバルセロナに加入。若き怪物との共演で、UEFAカップウィナーズ・カップコパ・デル・レイの2冠制覇を果たす。

ロナウドは1年でバルサを去ったが、97-98シーズンにはリバウドルイス・エンリケが加入。新しく監督に就任したルイ・ファン ハールのもと、4季ぶりのリーグ優勝とコパ・デル・レイ2連覇を達成する。

98-99シーズンもリーグ2連覇。オランダ色を強めていくバルサだが、チームの攻撃力を支えていたのは、リバウドのチャンスメークと得点力、そして右サイドで好機を生み出すフィーゴのドリブルとリーダーシップだった。

 

ユーロ2000の活躍

ポルトガル代表は98年のWカップ出場をあと一歩のところで逃しており、「黄金世代」がピークを迎えるユーロ2000(オランダ/ベルギー共催)は強い意気込みで大会に臨んだ。

しかしポルトガルの入ったグループは、ドイツ、イングランドルーマニアといった強豪が同居する「死の組」。苦戦が予想された。

初戦はイングランドと対戦。開始3分、ベッカムのクロスからスコールズがゴール。さらに18分にはまたもやベッカムのクロスから追加点を許してしまう。

早くも追い込まれてしまったポルトガルだが、直後の20分、フィーゴが中央をドリブル突破。そこから放った豪快なミドルシュートがネットを揺らし、1点差とする。

これで流れを引き寄せたポルトガルは、37分にルイ・コスタのクロスをジョアン・ピントが頭で合わせて同点。さらに後半の59分、ルイ・コスタのラストパスからヌーノ・ゴメスの逆転ゴールが生まれる。

3-2と鮮やかな逆転勝利を収めたポルトガルは、勢いに乗って第2戦のルーマニア戦を1-0と勝利。最終節は、セルジオ・コンセイソンハットトリックで強敵ドイツに3-0と圧勝し、全勝で「死の組」を勝ち上がった。

準々決勝はフィーゴのアシストからヌーノ・ゴメスが2ゴール。トルコを2-0と撃破し、準決勝で世界王者フランスと戦う。開始19分、ヌーノ・ゴメスが先制弾。そのあとフランスの反撃を抑え、前半を1-0とリードして折り返す。

だが後半に入った51分、アネルカのパスからアンリにゴールを決められ、同点となってしまった。90分を過ぎても勝負はつかず、試合は延長に突入。

延長に入っても一進一退の攻防が続いたが、終了が近づいた117分、ヴィルトールのシュートがポルトガルDFの手に当たり、フランスにPKが与えられた。

ポルトガルは主審に猛抗議を行うも、訴えは認められず、キッカーのジダンが強烈なシュートで決着(延長Vゴール方式)をつけた。ハンドに対して執拗な抗議を行ったポルトガルの3選手が、長期の出場停止処分。後味の悪い結末となってしまった。

それでも中心選手としてポルトガルを大会ベスト4に導いたフィーゴは、この年のバロンドールを受賞する。

 

“禁断の移籍” の波紋

ユーロ終了後の00年夏、フィーゴレアル・マドリードへの移籍が発表された。レアル会長に再任されたフロレンティーノ・ペレスが「フィーゴを獲得する」を公約し、バルサへ多大な金額が動いたことで成立した移籍だった。

だが、バルサの誠実なリーダーと思われていたフィーゴだけに、“禁断の移籍” の怒りはすべて彼に向けられることになった。

00年10月21日、レアルの白いユニフォームを着たフィーゴは、バルサのホームスタジアム、カンプノウのピッチに立った。彼には「裏切り者」「守銭奴」の罵声が浴びせられ、ボールを持つたびにスタンドから様々なものが投げ込まれる。

この試合では危険を感じてCKを蹴らなかったが、02シーズンのカンプノウエル・クラシコ」でコーナーキッカーとして観客席に近づくと、ビンやペットボトル、果ては子豚の頭まで投げ込まれ、ゲームが一時中断してしまう事態となる。

現在でも、バルサOB戦への参加を拒否されるなどサポーターの怒りは収まらないままだが、フィーゴバルサでの5年を「最高の日々だった」と振り返り、「バルサで悪役扱いされても構わない」と語っている。

レアルは00-01シーズンのリーグ優勝を果たし、01-02シーズンはジダンを獲得。チャンピオンズリーグトヨタカップを制覇する。フィーゴは前年のバロンドールに続き、この年のFIFA最優秀選手に選ばれる。

02-03シーズンはロナウドが加入しリーグ優勝、03-04シーズンにもベッカムが加わる。生え抜きのラウルを始め、世界のスーパースターを集めたレアルは、「ギャラクティコ(銀河系軍団)」と呼ばれるようになった。

 

「黄金世代」最後の輝き

欧州予選を1位で勝ち抜き、ポルトガルは4大会ぶりとなるWカップへの出場を決める。02年6月、Wカップ・日韓大会が開幕、「黄金世代」が円熟期を迎えたチームは優勝候補の一角にも挙げられた。

しかしG/Lの初戦はアメリカに2-3と惜敗。第2戦はパウレタハットトリックポーランドに4-0と圧勝したものの、最終節の試合で2人の退場者を出し、韓国に0-1の敗戦。屈辱のG/L敗退を喫してしまう。

フィーゴルイ・コスタら主力は、疲労と怪我でコンディション不良。実力を出し切れず、地元韓国の迫力にも負けてしまったのだ。

04年6月、自国開催のユーロ04に出場。G/L初戦は伏兵ギリシャに1-2と足を掬われるが、第2戦はロシアに2-0、第3戦もスペインに1-0と勝利して1位通過を果たす。

すでに黄金世代は、コスタ、コウトを含めた3人になっていたが、31歳のフィーゴは19歳のクリスティアーノ・ロナウドとともにチームを牽引。準々決勝では激戦の末イングランドPK戦で下し、準決勝はオランダを2-1と退けて初の決勝へ進む。

決勝は、G/Lでも対戦したギリシャと再びの顔合わせ。一方的に攻めるポルトガルだが、ギリシャの堅守を崩せなかった。0-0で折り返した後半の57分、CKからギリシャが先制。結局これが決勝点となり、開催国のポルトガルは2度も伏兵ギリシャに敗れ、優勝を逃してしまった。

そしてこの大会を最後に、「黄金世代」の全員が代表を退くこととなった。

 

インテル・ミラノへの移籍

レアルではルシェンブルゴ監督の構想外となったことから、5年を過ごしたマドリードを離れ、05年にイタリアのインテル・ミラノへ移籍する。

05-06シーズンのセリエAは「カルチョ・スキャンダル」に揺れ、ライバルのACミランユベントスがペナルティーで大きなダメージを受ける中、無傷だったインテルが繰り上げ優勝となった。

ポスト「黄金世代」でW杯欧州予選を戦っていたポルトガルだが、ベテランの力が必要だと考えたフェリペ・スコラーリ監督は、予選終盤にフィーゴを招集。その要請を受け、キャプテンとして代表へ復帰する。

 

フィーゴ 最後の大舞台

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。G/L初戦のアンゴラ戦はトップ下のデコが負傷で欠場となり、フィーゴが代役を務めた。開始4分、フィーゴがドリブルでDFを抜き去り、飛び出したキーパーをあざ笑うかのような折り返しで先制点を演出する。

この1点を守り切り順調なスタート。デコが復帰した次のイラン戦は右サイドに戻り、またもや得意のドリブルで先制点をアシストする。終盤にC・ロナウドのPKで追加点。2-0と勝利し、早くもG/L突破を決めた。

最終節メキシコ戦は主力5人を休ませながら、2-0と余裕の勝利。フィーゴはG/L全3試合でチームをリードし、1位通過に大きな役割を果たした。

トーナメント1回戦オランダとの試合は、20枚のカードが飛び交い、4人の退場者が出るという大荒れの試合になった。

前半に先制したポルトガルだが、退場者が出て後半は数的劣勢を強いられる。次々に警告が出される消耗戦にも、経験豊富なフェリペ監督は状況に合わせた的確な対応。対するオランダはファン バステン監督の打つ手がことごとく空転し、乱戦を乗り切ったポルトガルが1-0の勝利を収める。

準々決勝はイングランドとの戦い。互いに相手の良さを消すという内容で、ゲームは膠着状態となった。だが後半の52分にベッカムが負傷退場、62分にはルーニーが一発退場となり、流れはポルトガルに傾く。

勝負はPK戦にもつれたが、GKリカルドがイングランドの3本を止め、ポルトガルが40年ぶりの準決勝へ進んだ。ここまでの道程は、フィーゴの経験による功績が大きかった。

準決勝の相手は、2000年のユーロ準々決勝で激闘を繰り広げたフランスとの対戦。しかし、またもジダンにPKを決められてしまい、悲願の決勝進出は叶わなかった。

試合終了後、フィーゴはレアルのチームメイトだったジダンとユニフォームを交換。最後の「黄金世代」は代表の舞台から去って行った。代表の15年間で127試合に出場、34ゴールを記録している。

インテル・ミラノでは4シーズン在籍。その間勝ち続けたインテルで、リーグ4連覇のメンバーとなった。最後の1シーズンは同郷のジョゼ・モウリーニョ監督のもとでプレー、09年5月に36歳で現役を引退する。

引退後はインテルのフロント入り。17年にはUEFAの経営顧問に就任し、現在はコメンテーターとしても活躍している。