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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》フリスト・ストイチコフ(ブルガリア)

 

ブルガリアの闘将」

パワフルかつスピードあふれるドリブルで敵陣を突破、強烈な左足キックで相手ゴールを陥れた。加えて繊細なボールタッチを持ち、正確なパスで味方のチャンスを演出。また気性の荒さで知られ、並外れた闘争心と勝利への執念で仲間を鼓舞し、その姿からブルガリアの「闘将」と呼ばれたのがフリスト・ストイチコフ( Hristo Stoichkov )だ。

 

ブルガリアの強豪CSKAチェスカソフィアで頭角を現し、89-90シーズンは欧州最多得点者に与えられる「ゴールデンブーツ賞」を受賞。その活躍がヨハン・クライフの目に止まり、90年夏にはスペインの名門FCバルセロナに移籍。「ドリームチーム」のエースストライカーとして多くのタイトルに輝いた。キャリアの晩年には柏レイソルでプレーしている。

 

ブルガリア代表でも絶対的エースとして活躍。94年アメリカW杯で初出場を果すと、6ゴールを挙げて大会得点王。過去W杯未勝利だったブルガリアをベスト4に導き、同年のバロンドールに選出される。ユーロ96と98年W杯にも出場するが、1次リーグ敗退を喫した。

 

ブルガリアの荒武者

フリスト・ストイチコフは1966年2月8日、ブルガリア中南部に位置するプロブディフに生まれた。父トドルは共産国のタクシー運転手として働く労働者。フリストというファーストネームは、祖父の名前を受け継いだものである。

決して豊かではない環境で育ったストイチコフは、いつしかサッカー選手として身を立てることを夢見るようになる。勉学は得意でなかったものの運動能力に恵まれ、ボクシングや陸上競技などいろいろなスポーツを経験。10歳の時にスカウトされて入った地元クラブのマリッツア・プロブディフで、本格的にサッカーを始める。

当初はDFとしてプレーしていたが、毎日のトレーニングで持久力と俊敏さを磨き、15歳でFWに転向。しばらく2部リーグのチームを渡り歩き、やがてストライカーとしての実力が認められ、18歳となった84年に1部リーグの強豪、CSKAチェスカソフィア(中央陸軍クラブ)へ移籍する。

ソフィアではすぐに才能の輝きを見せるも、気性の荒さでトラブルを起こすこともしばしば。84-85シーズンのブルガリアカップ決勝では優勝をたぐり寄せる得点を決めたストイチコフだが、相手GKと口論。そこからピッチの全選手を巻き込む乱闘となり、試合は中止を余儀なくされる。この事態に当局は厳しく対処し、両チームは一旦の解散を命じられた。

問題を起こしたストイチコフは永久追放処分となるが、10ヶ月後にそれが解除されるとチームへの復帰を果たす。そしてその強いメンタリティでチームの主力へと成長し、86-87シーズンはFWとしてリーグ優勝と国内カップの2冠に貢献する。

2年後の88-89シーズンは、25試合23ゴールの成績で初の得点王。チームを2季ぶりの国内2冠に導き、ブルガリア年間最優秀選手に選出される。さらに欧州カップウィナーズ・カップでも、大会得点王の活躍で準決勝進出に貢献。準決勝では2戦合計3-6で強豪バルセロナに敗れるも、その3得点すべてを記録したストイチコフは、敵将ヨハン・クライフに強い印象を与えた。

翌89-90シーズンも2年連続得点王。30試合38ゴールと驚異的な成績を残し、ヨーロッパリーグの最多得点者に与えられる「ゴールデン・ブーツ賞」を獲得。一躍その名を国外に知られるようになった。

代表キャリアの開始

早くからA代表入りが有力視されていたストイチコフだが、85年に受けた追放処分により招集見送り。ブルガリアは86年W杯への出場を決めるも、そのメンバー入りを狙っていたストイチコフの野望は絶たれてしまった。

それでも処分が解除された87年に21歳で初招集され、9月23日に行なわれたユーロ88予選のベルギー戦で初キャップを刻む。ストイチコフはデビュー戦を含めたユーロ予選3試合に出場するが、ブルガリアはグループ2位で敗退となった。

代表初ゴールは88年1月の親善試合、カタール戦で記録する。このあと9月から始まったW杯欧州予選にも参加。ブルガリアルーマニアデンマークなどの難敵が揃ったグループで苦戦し、最下位に沈んで敗退。2大会連続のW杯出場はならなかった。エースとしての活躍が期待されたストイチコフのゴールも、唯一勝利したギリシャ戦の1点にとどまった。

ドリームチームのエース

東西冷戦の終結にともない、90年にブルガリア共産党政権が崩壊。西側クラブへの移籍が自由となったストイチコフには、欧州カップウイナーズ・カップ準決勝で対戦したバルセロナのクライフ監督からオファーが舞い込む。こうしてブルガリアで名を馳せた男は、念願だった名門ビッククラブへの移籍を果たした。

バルサへ移籍した1年目から大暴れ。9月の開幕から3試合連続でゴールを挙げて、11月のカステリョン戦ではハットトリックを記録。評判通りの得点力を見せつけた。

だが12月に行なわれたレアル・マドリードとのスーペルコパでは、退場処分に不服を示して主審の足を踏みつけ。6ヶ月の出場停止処分(後に2ヶ月へ軽減)を受けてしまう。その過激で攻撃的な言動は、メディアへ格好の話題を提供することになった。

リーグ戦は2ヶ月欠場となったが、それでも14ゴールを挙げる活躍を見せ、バルセロナ7季ぶりのリーガ・エスパニョーラ優勝に貢献する。翌91-92シーズンは32試合17ゴールの成績。チームはリーガ2連覇を果たすとともに、チャンピオンズカップを悲願の初制覇。ストイチコフも4ゴールを挙げるなど大きな役割を果した。

92-93シーズンは得点ランク3位となる20ゴールの好成績を残し、リーガ3連覇に貢献。慣れないマスコミ対応に精彩を欠くこともあったが、切れ味の良いプレーを取り戻すとチームを引っ張る存在となり、サポーターに「ダガー」(短剣、ブルガリア語でカマタ)と呼ばれる人気者となった。

クライフ率いるバルサストイチコフのほか、M・ラウドルップ、R・クーマングアルディオラら能力の高いタレントを揃えた「エル・ドリーム・チーム」でリーガを席巻。

さらに93年夏にはオランダのPSVからロマーリオが加入。ストイチコフとの衝突が不安視されたが、個性の強い二人は周囲の危惧をよそに良好な関係を築き、リーグ4連覇の偉業を成したバルセロナの両輪となる。

 

パリの逆転劇

90年9月からはユーロ92予選が始まるも、ストイチコフはまたも5試合1ゴールと低迷してグループ敗退。チームのエゴイストとして振る舞う彼のプレーは、代表でただ空回りするだけだった。

それでもレチコフ、バラコフ、ペネフ、コスタディニフといった同世代の選手たちが、国外強豪クラブで磨かれ成長。そしてストイチコフの闘争心にも感化されるようになり、92年5月から始まったW杯欧州予選ではフィンランドとフランスに連勝。これまでにない好スタートを切った。

エースのストイチコフは5ゴールの活躍でチームを牽引。だが多彩な攻撃陣を擁するスウェーデンに苦しめられ、1試合を残してグループ3位。ブルガリアはW杯出場権の得られる2位以内を目指し、フランスとの直接対決となった最終戦に臨む。

敵地パリで行なわれた試合はカントナの先制点を許すが、すぐにコスタディニフのヘディングゴールで追いつく。しかしゲームは1-1のまま終盤まで進み、勝利が必要なブルガリアは追い込まれてしまう。

だが終了直前の90分、フランスの無用な攻撃からボールを拾って反撃。鮮やかな速攻で相手ゴールに迫ると、最後はコスタディニフが劇的決勝弾。強豪フランスを「パリの悪夢」に沈めたブルガリアが、2大会ぶりとなるW杯出場を決める。

 

ブルガリアの快挙と地上のキリスト

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。G/L初戦でアフリカの新興ナイジェリアに0-3の完敗を喫するも、続くギリシャ戦はストイチコフが2本のPKを沈めて4-0の圧勝。これがW杯6度目の出場となったブルガリアの、記念すべき大会初勝利だった。

グループ突破を懸けた最終節は、前大会準優勝のアルゼンチンと対戦。しかしドーピング違反でマラドーナを失ったアルゼンチンに強国の姿はなく、ストイチコフが先制点を決めて2-0の快勝。グループ2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦はメキシコと対戦。開始6分にストイチコフのゴールで先制するも、18分にPKを与えて同点。試合は延長に突入しても勝負はつかず、PK戦へともつれ込む。そしてPK戦では守護神ミハイロフが好守を連発。メキシコの3人を止め、ブルガリア5人目ストイチコフの出番を待たずしてベスト8進出を決める。

準々決勝の相手は前大会王者のドイツ。試合は後半47分、レチコフのクリンスマンへのファールでPKを与える。それをマテウスに決められ先制を許し、伏兵ブルガリアの快進撃もここまでかに思えた。

しかし終盤に入った75分、それまでドイツの堅守に封じられていたストイチコフが、Pエリア前でブッフバルトに倒されFKのチャンス。そして手前25mの位置からストイチコフが得意の左足を一閃すると、ボールは美しい軌道を描きながら6枚の壁を越え、右コーナーのゴール隅へ吸い込まれた。

ブルガリアが同点としたその3分後、レチコフが会心のヘッドで逆転弾。このあとドイツの反撃をしのぎ、2-1の歴史的勝利。ブルガリア代表の快挙は弱小チームを応援してきた国民を歓喜させた。

3日後に行なわれたイタリアとの準決勝は、ロベルト・バッジオの2発に砕かれ1-2の惜敗。これで力尽きたのか、スウェーデンとの3位決定戦は0-4の完敗に終わる。

それでもストイチコフはイタリア戦でPKによる6点目を挙げ、オレグ・サレンコ(ロシア)と並ぶ大会得点王。ブロンズボール賞にも選ばれた。さらにバルセロナでの顕著な活躍と合わせ、この年のバロンドールを受賞する。

世界的な名声を得たストイチコフは「天上にキリストが一人いて、地上にはここにもう一人いる。しかし二人とも奇跡を起こすのだ」と言い放つも、CSKAソフィアと代表でチームメイトだったラチェザール・タフネは、「奴はサッカーの天才なんだ。天才が少し頭がオカシイのは、あたり前のことだろ?」と肩をすくめるだけだったという。

 

キャリアの低迷期

93-94シーズンのチャンピオンズリーグ(92年に改称)決勝、バルサは2度目の優勝を目指してACミランと戦った。バレージコスタクルタと2人のCBを欠く相手に、バルセロナの圧倒的有利が予想されたが、いざ蓋を開けてみると0-4の完敗。クライフ時代の終焉を告げるものとなった。

94-95シーズンはゲームメーカーのM・ラウドルップが抜け、ロマーリオもシーズン途中に退団。クライフ監督との関係が悪化したストイチコフは26試合9ゴールの成績に終わり、戦力の低下したバルサはリーグ4位に沈んだ。

シーズン終了後、ストイチコフバルサとの契約を1年残しながら退団。イタリアのパルマに新天地を求めた。しかしパルマではフィリッポ・インザーギジャンフランコ・ゾラの控えに回り、チームにも馴染めず23試合5ゴールと低迷。96-97シーズンはクライフの去ったバルサへ復帰することになった。

だが復帰したバルサではルイ・ファン ハール監督に冷遇され、活躍の機会は減少。翌シーズンの98年春、古巣のCSKAソフィアへレンタルで移籍する。しかしここでもコスタディニフやイワノフら主力と対立。わずか4試合に出場しただけでチームを去り、好条件の誘いを受けてサウジアラビアアル・ナスル期限付き移籍。アジア・カップウィナーズカップ優勝に貢献した。

 

英雄の終焉

94年9月から始まったユーロ予選ではW杯での好調さを維持し、10ゴールの活躍でブルガリア初となる本大会出場決定に貢献。イングランドで開催されたユーロ96でも3試合3ゴールとエースの働きを見せるが、フランス、スペイン、ルーマニアと強敵揃いの1次グループで3位にとどまり、惜しくも敗退となった。

このユーロ敗退で長年代表の指揮を執ってきたペネフ監督が解任。それに反発したストイチコフら数名の主力が、96年9月から始まったW杯欧州予選をボイコット。格下イスラエルに敗れるなどチームに暗雲が漂うが、ボネフ新監督と和解したストイチコフが97年6月のルクセンブルク戦で復帰。体制を立て直したブルガリアは首位突破を果し、2大会連続のW杯を決める。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。G/L初戦は、チラベルトを中心とした堅守を誇るパラグアイに0-0の引き分け。第2戦はアトランタ五輪金メダルの「スーパーイーグルス」、ナイジェリアに0-1と敗れてしまう。

最終節のスペイン戦にグループ突破への望みを残すも、結果は1-6の惨敗で敗退。高齢化したチームに4年前の勢いはなく、前回得点王のストイチコフもノーゴールのまま大会を終えた。

このあとユーロ2000大会の予選にも参加するが、敗退が決まった99年6月のイングランド戦を最後に代表を引退。13年間の代表歴で83試合に出場、37ゴールの記録を残した。

 

ブルガリア史上最高の選手

98年W杯後、Jリーグ柏レイソルに加入。初登場となった7月29日のヴィッセル神戸戦でゴールを挙げ、Jリーグデビュー戦を飾った。翌99年は4試合連続ゴールを記録するなどさらなる活躍が期待されたが、ユーロ予選参加を理由にチームを離脱。そのまま日本に戻ってくることはなく、契約は解除された。

このあと北米リーグ(MLS)に活躍の場を移し、2000年にはシカゴ・ファイアーUSオープンカップ優勝に貢献。03年にはD.C.ユナイテッドに移籍して選手兼コーチを務めたが、親善試合のアメリカン大学戦で無謀なタックルを仕掛けて学生を骨折させ、相手から訴えられたうえ、2試合の出場停止処分と罰金を科せられるという騒動を起こしている。

D.C.ユナイテッドでのシーズン終了後、03年12月に37歳で現役を引退。引退後はバルセロナのアシスタントコーチを務め、04年にはブルガリア代表の監督に就任する。しかし06年ドイツW杯への出場を逃し、主力選手とも対立。07年にユーロ予選で敗退を喫して、辞任を表明した。

そのあと母国のCSKAソフィアなどいくつかのクラブで監督を務めるが、いずれも短期間で辞任か解任。「ブルガリア史上最高の選手」も名指導者とはならなかった。現在はブルガリアの名誉アンバサダーとして活動している。