「イタリアを救った神の子」
「パブリート(小柄)」とあだ名される華奢な体つきながら、素早く抜け目ない動きでゴールを陥れたストライカー。一人で局面を打開するタイプではないが、ペナルティーエリアでは類い希な嗅覚を働かせ、鋭い反応で得点を量産。80年代イタリアを代表するFWとなったのが、パオロ・ロッシ( Paolo Rossi )だ。
セリエBのビチェンツァで頭角を現し、77-78シーズンはセリエAで21ゴールを挙げて得点王を獲得。21歳で出場した78年杯アルゼンチン大会では、溌剌としたプレーで「今大会最大の発見」と神様ペレに言わしめた。
その後八百長事件に巻き込まれ不遇の時を過ごすが、82年W杯スペイン大会で代表へ復帰。1次リーグではノーゴールと不振だったものの、2次リーグのブラジル戦でハットトリックを記録。得点王の活躍でストライカー不足に陥っていたアズーリの救世主となり、イタリアを44年ぶりの優勝に導き「神の子」と呼ばれた。
パオロ・ロッシは1956年9月23日、イタリア中部に位置するトスカーナ州プラトのサンタ・ルチア地区で生まれた。サッカー選手だった父ヴィットリオの影響でプロ選手を目指すようになった少年は、8歳で地元クラブのサンタ・ルチアに入団。兄のロッサーロと共にプレーした。
そのあと2つのクラブを経て、16歳となった72年にユベントスの下部組織へ入団。17歳でプロ契約を結び、将来性ある選手として期待されるも、膝の故障を繰り返して出場機会を失う。
75年にはコモ・カルチョへ放出されるが、ここでも怪我の影響で6試合の出場にとどまり、76年にはセリエBのヴィチェンツァへ放出される。
ヴィチェンツァでは、ストライカー不足によりウィングからセンターフォワードへとコンバート。するとこのポジションでロッシは覚醒し、1年目の76-77シーズンは21ゴールを挙げてリーグ得点王を獲得。チームのセリエA昇格に貢献した。セリエAでの77-78シーズンも24ゴールを挙げる活躍で得点王に輝き、昇格したばかりのヴィチェンツァをリーグ2位へと躍進させている。
ヴィチェンツァでの活躍により、77年12月にアズーリへ初招集。21日の親善試合、ベルギー戦で途中出場による代表デビューを飾った。代表のエンツォ・ベアルツォット監督は積極的に若手を試し、ストライカーとしての才能を見せたロッシは、21歳で78年W杯のメンバーに選ばれる。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。1次リーグの初戦でプラティニ擁するフランスと対戦した。開始わずか1分、ラコンブのヘディングゴールを許して早くも失点。しかし先発に抜擢されたロッシが29分に同点ゴールを決め、1-1で前半を折り返す。この殊勲の一発が、ロッシの代表初得点だった。
そして後半52分には、交代したばかりのザッカレリが逆転弾。イタリアが難敵を相手に、2-1の白星スタートを切った。
続くハンガリー戦もロッシが先制ゴールを挙げ、東欧の強豪を3-1と退ける。そして最終節のアルゼンチン戦は、鮮やかなカウンターからロッシとのワンツーでベッテガが抜けだし決勝点。ホストチームを1-0と下して、3戦全勝の好調さで2次リーグに進んだ。
2次リーグの初戦は前回王者の西ドイツに0-0と引き分けたが、続くオーストリア戦ではロッシが前半に貴重な得点を挙げて1-0の勝利。最終節は決勝進出を懸けたオランダとの戦いになった。
試合は開始19分、ロッシがオフサイドラインをかいくぐってゴールに迫ると、後方から追うSBブランツが痛恨のオウンゴール。イタリアに幸運な先制点が生まれる。
だが後半に入った50分、オウンゴールを献上したブランツが汚名返上の同点弾。ゲームは振り出しに戻った。さらに終盤戦に入った74分、ハーフライン近くからオランダのアーリー・ハーンが40mの超ロングシュート。名手ディノ・ゾフの手をかすめた逆転ゴールを許してしまう。
このあとアズーリの追い上げ虚しく、試合は1-2で終了。オランダが2大会連続の決勝進出となり、イタリアは2次リーグ敗退。それでもロッシは3得点を挙げるなどの活躍で、大会MVPのマリオ・ケンペスに続くシルバーボール賞に輝いた。
八百長スキャンダルの影響
W杯後の78-79シーズン、ロッシは膝の故障を抱えながら得点ランク2位となる15ゴールを挙げるも、不振に陥ったヴィチェンツァはセリエBに降格。79-80シーズンはペルージャにレンタルされ、3月までの22試合で13ゴールを記録する好調さを見せる。だがそこへ突如降って湧いたのが、八百長賭博のスキャンダルだった。
80年3月、非合法のサッカー賭博でひと儲けを企てた果物商が、八百長を持ちかけた選手に裏切られたと裁判所に詐欺被害報告書を提出。これをきっかけに、それまで噂されていた八百長試合の実態が次々と暴かれ、カルチョを揺るがす一大スキャンダルへと発展したのだ。
この疑惑に深く関わったとされたミランとラツィオは、セリエBへの降格処分。他にもユベントス、ナポリ、ジェノバ、パレルモといったチームが槍玉に挙げられる中、ペルージャ、ボローニャ、アヴェッリーノの3つは、80-81シーズンの勝点5を剥奪されることになった。
八百長の当事者とされた選手や関係者も次々と逮捕。疑惑リストに名前のあったロッシは潔白を主張して法的処分は逃れたが、19人の疑わしい選手と共に、サッカー協会から長期の出場停止を言い渡されてしまう。
3年間の停止処分となってしまったロッシは、目標もないままただ黙々と練習に励む日々。一時は引退を考えるほど落ち込んだ。だがその後出場停止は2年に軽減され、古巣ユベントスと再契約を交して81-82シーズンの終盤に復帰する。そしてW杯開幕を1ヶ月後に控えた82年の5月、ロッシはベアルツォット監督によってアズーリに呼び戻されることになった。
イタリア代表は2年前に行なわれた自国開催の欧州選手権で、期待を裏切るベスト4止まり。W杯欧州予選でも苦戦し、ユーゴスラビアに続くグループ2位での通過だった。また2月に行ったテストマッチではフランスに2-0と敗れるなど、得点力不足は深刻なものとなっていた。
しかもエースFWのベッテガが膝の靱帯を損傷し、W杯への出場は絶望的。長期のブランクには大きな不安もあったが、ベアルツォット監督はロッシ復活の期待に賭けるしかなくなっていたのだ。
ゴールデンボーイの目覚め
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。イタリアは1次リーグ初戦をポーランドと0-0で引き分けると、続く第2戦もペルーと1-1のドロー。第3戦もカメルーンと1-1の結果で3戦3分けとなるが、辛うじて2位に滑り込んで2次リーグへ勝ち上がる。
ロッシは1次リーグ3試合全部に先発したが、試合勘が取り戻せないままプレーに精彩を欠いてしまい、チームの得点力不足を立て直すことが出来なかった。アズーリには2年前に起きた八百長スキャンダルの余波と、試合内容の悪さに母国からの風当たりは強さを増していった。
3チームで戦う2次リーグでは、南米の2強であるアルゼンチン、ブラジルと同組になってしまったイタリア。アズーリの敗退が予想される中、第1戦は前回王者のアルゼンチンと試合を行なった。
イタリアは「殺し屋」の異名を持つジェンティーレに天才児マラドーナを徹底マークさせ、アルゼンチンの攻撃を封じにかかる。試合はスコアレスで進んだ後半の55分、鮮やかなカウンターからイタリアが先制。67分にはロッシのシュートが弾かれるが、それを拾ったカブリーニの追加点が生まれた。
こうしてアルゼンチンを2-1と破って勢いに乗ったイタリアは、6日後に「黄金のカルテット」を擁するブラジルと対戦する。開始早々の5分、カブリーニのクロスをロッシが頭で決めてイタリアが先制。対するブラジルも12分にジーコのスルーパスからソクラテスが抜け出し、すかさず同点とする。
すると25分、ロッシがトニーニョ・セレーゾのミスを突いて2点目。イタリアのリードで前半を折り返すが、68分にファルカンのゴールで再びブラジルが追いつく。
このまま引き分ければ得失点差でブラジルが準決勝進出となるところだったが、74分にCKからのこぼれ球を拾ったロッシが、ハットトリックとなる勝ち越しゴール。ブラジルの追撃を振り切り、3-2と接戦をモノにしたイタリアが準決勝に進出した。
イタリアを優勝に導いた「神の子」
準決勝の相手はポーランド。前半22分、アントニョーニのFKにロッシが右足でコースを変えて先制点。73分にもコンティのクロスからロッシが追加点を叩き出し、2-0の快勝を収める。
大会前は国民にまるで期待されていなかったイタリア代表だが、ロッシを信じて先発に使い続けたベアルツォット監督の采配が的中。完全復活したエースの活躍で、アズーリが12年ぶりの決勝へ進んだ。
決勝で優勝杯を争うのは西ドイツ。これまで何度も名勝負を演じてきた、欧州サッカー大国同士の顔合わせだった。開始8分、ロッシと2トップを組むグラツィアーニが、相手DFと衝突して負傷交代。24分にはコンティが倒されイタリアがPKを得るが、カブリーニがキックを外し絶好のチャンスを逃してしまう。
波に乗り切れないイタリアだが、後半に入った57分、ジェンティーレのクロスをロッシが倒れるようにして頭で合わせ、イタリアがリードを奪う。68分にはタルデリのミドルシュートで2-0。81分にもアルトベリが追加点を決め、西ドイツの反撃をブライトナーの1点に抑えてイタリアが3-1の勝利。王国ブラジルと並ぶ3度目のW杯制覇を果たす。
2次リーグから調子を上げ、6ゴールを挙げて優勝の立役者となったロッシは大会得点王とMVPを獲得。アズーリを優勝に導いた「神の子」としてイタリアの英雄となり、この年のバロンドールにも輝いた。
短かったキャリア
82-83シーズン、リーグ戦では23試合7ゴールの成績に終わるも、コッパ・イタリアで11試合5ゴールを挙げて4季ぶり7度目の優勝に貢献。さらに欧州チャンピオンズカップでは、6ゴールを記録して10年ぶりとなる決勝進出に貢献。しかし決勝ではハンブルガーSVに0-1と敗れ、ビッグタイトル獲得とはならなかった。
83-84シーズン、前年加入のプラティニが20得点を挙げて得点王の活躍。ロッシも30試合13ゴールと復調し、強力攻撃陣を支えてセリエA優勝と欧州カップウィナーズ・カップ制覇に大きく貢献する。
だが翌84-85シーズンは膝の故障の影響でプレーのキレを欠くようになり、27試合3ゴールの成績。また契約を巡ってクラブとも揉め、85年夏にユベントスを退団してACミランへ移籍する。
86年にはWカップ・メキシコ大会のメンバーに選ばれるが、1試合も出場しないまま3度目のW杯を終える。このあと11月に行なわれた中国との親善試合が、ロッシ最後の代表キャップとなった。10年間の代表歴で48試合に出場、20ゴールの記録を残す。
W杯が終わった86年夏にはベローナへトレード移籍。しかし長年苦しんできた膝の故障は回復する見込みがなく、86-87シーズン終了後に31歳の若さで現役を引退する。
引退直後は「コパ・ペレ」(シニア選手による国際親善大会)参加のためにブラジルを訪れるが、タクシー運転手から「あんた(母国を敗退させた)パオロ・ロッシだろ。この車を降りてくれ」と言われたという逸話を残している。
引退後はしばらくサッカー界から遠ざかり、元チームメイトと共に不動産会社を経営。またテレビのコメンテーターとしても活動した。その後はサッカー界に戻って、故郷サンタ・ルチアの名誉会長や古巣ヴィチェンツァの取締役兼大使を務めている。
晩年は肺がんを患い、長期の闘病生活を送る。2020年12月9日、入院先の病院で永眠。享年64歳だった。