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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》シルヴィオ・ピオラ(イタリア)

 

セリエAのゴルマエストロ」

恵まれた体格でのパワフルなプレーと、研ぎ澄まされた嗅覚で得点を量産したゴルマエストロ(ゴールマスター)。スピードと運動量を備え、空中戦でも抜群の強さを発揮。多彩な得点パターンを持ち「イタリア史上最高のストライカー」と言われたのが、シルヴィオ・ピオラ( Silvio Gioacchino Italo Piola )だ。

 

全国統一リーグとなった「セリエA」創成期の1930年代に活躍。シニアデビューを果したプロ・ヴェルチェッリで17歳にして13ゴールを挙げると、33年にはリーグ初のダブルハットトリック(6得点)を達成。その後ラツィオで2度の得点王に輝く。40年代にはトリノユベントスでもプレーし、セリエA通算トップとなる274得点の記録を残した。

 

イタリア代表では38年のWカップ・フランス大会に出場。対照的なプレースタイルのジュゼッペ・メアッツァと攻撃陣を組み、5得点を挙げて大会2連覇の原動力となった。代表でも歴代3位となる30ゴールを挙げたが、戦争の影響がなければもっと記録を伸ばしていただろうと言われている。

 

ヴェルチェッリが待ち望んでいたストライカ

ピオラは1913年9月29日、繊維商を営む両親が仕事で滞在していたロンバルディア州のロッビオで生まれた。翌14年には故郷であるピエモンテ州のヴェルチェッリへ戻り、ここで少年時代を過ごした。

母方の叔父は、FCプロ・ヴェルチェッリでプレーするジュゼッペ・カバンナ。34年に自国で開催されるW杯では、メンバーにも選ばれる(第2キーパー)有力選手だった。ピエラがサッカー選手としての素養を身につけたのは、この叔父の存在が大きいと言われる。

ちなみに4つ上の兄セラフィーノもサッカー選手を目指していたが、視力の悪さで眼鏡が必要となり競技を断念。のちに会計士となっている。

25年に新設されたジュニアクラブ、ヴェロセスからの誘いを受けて、12歳で本格的なサッカー競技を開始。ピオラはチームのキャプテンとして全国大会にも出場した。ヴェロセスがプロ・ヴェルチェッリのユース部門に組み込まれた28年には、アリエーヴィ選手権(学生選手権)で優勝を果す。

その活躍により、16歳にしてトップチーム昇格。30年2月のボローニャ戦でセリエAデビューを果し、初アシストを記録している。ルーキーイヤーの出場は4試合にとどまったが、シーズン後の親善試合、レッドスターFC(フランス)戦で2ゴールを記録。その試合を観ていたクラブ会長に「彼はヴェルチェッリが待ち望んでいたストライカーだ」と言わしめた。

 

驚異の得点能力

17歳となった2年目(30-31シーズン)には、30年11月のラツィオ戦でヘディングによる公式戦初ゴールを記録。31年2月のナポリ戦では、叔父カバンナ(29年にヴェルチェッリから移籍)の守るゴールを破って初のハットトリック。少年時代の恩返しを果した。最終的に32試合で13ゴールを記録し、得点ランク3位の成績を残す。

翌31-32シーズンは、序盤戦に脚を骨折して全治1ヶ月半の重傷を負うも、わずか2週間で強行復帰。戦線に戻ったトリエスティーナ戦で同点となるゴールを挙げ、周囲を驚かせる。さらに復帰1ヶ月後のアレッサンドリア戦では、4得点を挙げる活躍で5-4の勝利に貢献。これはひとりの選手がアウェーの地で挙げた(セリエAの)最多得点記録となった。

この快挙にトリノの新聞紙は、「彼のシュートは稲妻。我々に嬉しい驚きを与えた」と絶賛。若きストライカーは底知れぬ力をカルチョファンに見せつけた。

ピオラの快挙はこれに留まらず、33-34シーズンのフィオレンティーナ戦では驚異のダブルハットトリックを達成。7-2と勝利したゲームで独り舞台を演じた。セリエAでは現在でも、ピオラとオマール・シボリ(61年、ユベントス)の2人しか達成していない大記録である。

これほどの選手をイタリアの強豪クラブが見過ごすはずもなく、34年にはミラノの名門アンブロジアーナ・インテルインテル・ミラノの旧名)から破格のオファー。しかしヴェルチェッリはチームの若きホープを決して手放そうとしなかった。

イタリア代表には33年4月のスイス戦でデビュー、さっそく2ゴールを挙げた。ただしこれはイタリアB代表でのことだった。競争の激しい代表FWのポジションでヴィットリオ・ポッツォ監督の目に止まることなく、21歳のピオラは34年に自国で開催されるW杯のメンバーから落選。アズーリへの熱き想いを抱いていた若者は、大きな失望を味わうことになった。

 

ラツィオの点取り屋

34年の春、ピオラのラツィオへの移籍が電撃成立。首都ローマを本拠地とするラツィオには、W杯招致の推進役となったヴァッカロ将軍と、ファシスト党幹部のマリネッリという2人の権力者がバックに付いており、ヴェルチェッリもこの移籍を承諾せざるを得なかったのだ。

初めは故郷を離れることに乗り気ではなかったピオラも、兵役免除のため外務省預かりになるという優遇措置を約束され、ローマ行きを決断する。

移籍1年目の34-35シーズン、ピオラはキャリア最高の21ゴールを挙げ、たちまちラツィオサポーターから「ピオラゴル」のあだ名を頂戴した。だがラツィオは上位の壁を崩せずリーグ5位。翌35-36シーズンもピオラ20ゴールの活躍にかかわらず、チームは7位に沈んだ。

36-37シーズンには再び21ゴールを挙げ、初のリーグ得点王を獲得。ラツィオセリエAの2位へと躍進し、ミトローパカップ中欧クラブ杯)でも準優勝を果す。

37-38シーズンの前半は首位をひた走るも、クラブの内紛により後半戦は失速。最終的に順位は8位へと下降し、ピオラも15ゴールと過去3年を下回る成績。ローマのクラブは権力者の後ろ盾を得ながらタイトルへ届かずにいた。

 

W杯連覇を狙うイタリアのエース

自国開催の34年W杯で、ムッソリーニから義務づけられた優勝の任務を果したポッツォ監督は、大会連覇に向けて高齢化が危惧されるアズーリの再編に着手する。そして次世代エースとしてセンターフォワードに抜擢したのが、ラツィオで目覚ましい活躍を見せるピオラだった。

35年3月、ピオラはインターナショナル杯のオーストリア戦でA代表初出場。デビュー戦からチームの全得点となる2ゴールを挙げ、勝利の立役者となった。

ポッツォ監督率いるイタリア代表は、36年ベルリン五輪優勝組などを加えて大胆に若返り。W杯優勝メンバーで残ったのは、主将ジュゼッペ・メアッツァとピエトロ・フェラーリの両インナー2人だけとなる。

アズーリのCFを務めたピオラは、老練な両インナーのサポート受けて遺憾なく実力を発揮。大柄でパワフルなピオラと、小柄でエレガントなメアッツァは、好対照をなす名コンビと言われた。そしてピオラは代表デビューからの3年間で14試合13ゴールという驚きの成績を残し、初出場となるW杯に臨むことになった。

 

決勝への道程

38年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。大会は出場16ヶ国(直前にオーストリアドイツ帝国に併合されたため15ヶ国の参加)によるトーナメント形式で行なわれた。

ディフェンディングチャンピオンのイタリアは、トーナメント1回戦でノルウェーと対戦。開始早々の2分、ピオラのパスを受けたフェラーリがシュート。一旦GKに跳ね返されるも、こぼれ球を左ウィングのフェラリスⅡ世が押し込んで先制する。

しかしこのあとノルウェーの猛反撃に遭い大苦戦。終盤まで凌いでどうにか逃げ切るかに思えたが、83分にブルースタッドのゴールを許して同点。直後にもブルースタッドにゴールネットを揺らされるが、オフサイド判定により事なきを得た。

試合は延長に突入。その94分、相手キーパーのパンチングがピオラの足元に転がりすかさず決勝弾。優勝候補のイタリアは苦しみながらもベスト8に進んだ。

準々決勝の相手は地元フランス。1-1で迎えた後半の51分、ビアヴァーティのロングパスから抜け出したピオラが勝ち越し点。72分にもビアヴァーティのクロスをヘッドで決めて追加点。ピオラの活躍で開催国を3-1と破り、準決勝へ勝ち上がる。

準決勝で戦ったのは、南米から唯一の参加となったブラジル。ブラジルは準々決勝のチェコスロバキア戦で『ボルドーの戦闘』(負傷者、退場者を続出させたあげく、延長再試合)と呼ばれた激戦を演じ、選手たちの消耗は明らかだった。そのためか、ここまで6得点を挙げていたエースのレオニダスを準決勝で温存。この措置はイタリアを楽にさせた。

前半は堅実な試合運びでブラジルの疲労を誘い、後半の56分にピオラからのロングパスを受けたコラウシが先制点。その4分後、ピオラを止められなかったドミンゴス・ダ・ギアが、Pエリアで足を引っ掛けてファール。これを主将のメアッツァが冷静に沈め、リードを2点に広げる。

終了直前に1点を返されるも、危なげなく2-1の勝利。イタリアは2大会連続となる決勝戦へ駒を進めた。

 

栄冠のち暗雲

決勝で戦うことになったのは、中欧の雄ハンガリー。序盤から主導権を握ったイタリアは、開始6分にハンガリーゴールキックを拾って一気に速攻。ドリブルで駆け上がったビアヴァーティからメアッツァにボールがわたり、そこからコラウシが決めて早くもリードを奪う。

直後の8分にミスを突かれて同点とされてしまうが、19分にはコラウシ、フェラーリメアッツァとボールを繋ぎ、最後はピオラが豪快に決めて勝ち越し。35分にもコラウシのゴールが生まれ、3-1で前半を折り返す。

後半70分に「ハンガリーの英雄」ジョルジ・シャロシのゴールで1点を返されるも、82分にピオラがビアヴァーティとのワンツーからダメ押し点。イタリアが4-2の快勝を収め、大会2連覇を達成。5ゴールを挙げて優勝の原動力となったピオラは、世界に知られるストライカーとなった。

世界一の実力を証明したイタリアは、38年11月のスイス戦からW杯3連覇に向けての準備を開始。だが39年9月、ドイツがポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発。FIFAワールドカップは12年間の中断を余儀なくされることになった。

戦時下のセリエA

W杯後の38-39シーズン、スランプに陥ったピオラは21試合8ゴールと成績が低迷。この不振は3年続き、エースの失速とともに勢いを失ったラツィオは、40-41シーズンにセリエB降格の危機。どうにか僅差で降格圏から脱出し、16チーム中14位でセリエA残留を果す。

41-42シーズンは24試合18ゴールを挙げる活躍でみごとに復活。チーム成績も5位へと浮上した。そして42-43シーズンは22試合で21ゴールを挙げ、2度目となるリーグ得点王を獲得。しかしこの頃からイタリアの敗色が濃くなり、戦況の悪化とともに全国リーグが消滅する。

44年にはドイツ傀儡政権による北イタリア(イタリア社会共和国)と、連合国側についた南イタリアイタリア王国)に分裂。ピオラはローマを離れ、故郷のある北部へ移住。カンピナート・アルタ・イタリア(中北部リーグ)に所属するトリノでのプレーが許された。

トリノではヴァレンティノ・マッツォーラ(サンドロ・マッツォーラの父)らのサポートを受けて、キャリア最高の27ゴールを記録。戦争が終結した45年9月には、ラツィオからの正式移籍が決まり、同じトリノの強豪ユベントスと契約する。

移籍2年目の46-47シーズンには、全国リーグのセリエAが復活。ピオラは28試合10ゴールの成績を残すも、34歳という年齢により、シーズン後はユベントスから放出される。

 

記録ずくめの最年長ストライカ

47-48シーズンは、故郷近くにあるクラブ、ノヴァーラFCからの熱心な誘いを受けてセリエBでプレーする。ノヴァーラは30試合16ゴールを挙げたピオラの活躍により、同シーズンにセリエB優勝。12季ぶりのセリエA昇格を果す。

ピオラは年齢を重ねながらもトップコンディションを維持し、50-51シーズンは19ゴール、51-52シーズンも18ゴールと活躍。50年11月のラツィオ戦で達成したハットトリックは、37歳2ヶ月という当時のセリエA最年長記録だった。

イタリア代表では、戦争により国際舞台での活躍の機会を奪われながらも、W杯後に出場した16試合(すべて親善試合)で12ゴールを記録。52年5月には5年ぶりに代表へ招集され、38歳7ヶ月の最年長記録でイングランド戦に出場。引退試合を飾った。

代表歴の18年(実質12年)で34試合に出場し、30得点を記録。これはルイジ・リーバ(35得点)、ジュゼッペ・メアッツァ(33得点)に続く代表歴代3位のゴール数(得点率では1位)である。

ノヴァーラでは7シーズンをプレーし、54年3月に40歳で現役を引退。24年間に及ぶプロキャリアを終え、「スクデットを獲れなかったのが最大の後悔だ」の言葉を残す。彼がセリエAで挙げた274ゴールは、現在でも歴代1位の記録を保持している。

若い頃からスター選手だったピオラだが、私生活は賑やかさを嫌い、休日は愛犬とともに狩猟や魚釣りに没頭。都会の遊びや誘惑には一切興味を持たなかったという。

引退後はイタリア代表のアシスタントコーチを務め、54年のW杯にも参加した。W杯後にカリアリの監督に就任するも、結果を出せず3年で退任。そのあとイタリアサッカー連盟の指導員として、10年間活動した。

晩年はアルツハイマー病を患い、96年10月4日にノヴァーラ市内の老人ホームで死去。享年83歳だった。キャリアの始発点プロ・ヴェルチェッリと、終着点ノヴァーラFCのホームスタジアムには、それぞれ「スタディオ・シルヴィオ・ピオラ」の名が冠せられている。