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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ジーコ(ブラジル)

 

「ブラジル栄光の10番」

たぐいまれなテクニックとサッカーセンスを持ち、82年のWカップでは創造性にあふれた「クワトロ・オーメン・ジ・オロ(黄金のカルテット)」の中心として世界を魅了し、「白いペレ」と呼ばれたブラジルの10番が、ジーコ( ZICO / Artur Antunes Coinbra )だ。

 

さりげなく相手の急所を突くスルーパスは絶品、足元から放たれたボールはたちまち局面を一変させ、ふいを突かれたディフェンダーたちは石のように固まった。そして得点感覚にも優れ、FKの名手でもあったジーコ。18歳の頃からプレーしたフラメンゴでは732試合で509得点、代表では94試合で77得点というゴールゲッターぶりを見せた。

 

期待されたWカップでは運に恵まれず優勝を果たせなかったが、81年のトヨタカップではMVPの活躍で強豪リバプールを下し、世界一クラブの栄冠を手にした。晩年は鹿島アントラーズで存在感を発揮、小さな町のクラブをJ屈指の強豪に育て上げ、後に日本代表も指揮した。

 
ジーコの肉体改造

ジーコこと本名アルトゥール・アントゥネスは、1953年3月3日リオ市郊外キンチーノで、コインブラ家の5男1女の末っ子として生まれた。小さい頃から兄たちにくっついてサッカーに親しんでいたアルトゥールジーニョ(小さなアルトゥール)は、やがて語尾だけを略したズィッコ(ジーコ)の愛称で呼ばれるようになる。

ジーコ少年の豊かな才能はすぐに発揮され、14歳の時に地元の名門クラブ・フラメンゴの入団テストを受けて合格。テストの練習試合で2ゴールを挙げ、ゲームメーカーとしてのセンスも見せたジーコ。だが彼の身長150㎝、体重30キロという貧弱な身体は、とてもプロで通用するものではなかった。

そこでフラメンゴはフィジカルトレーナーや整形外科医などのスペシャリストを集め、ジーコの肉体改造を試みるプログラムを組む。遊び盛りだったジーコは専用メニューに従ったトレーニングを黙々とこなし、器具と向き合う退屈な日々を、文句一つ言わずに過ごす。

改造プログラムは筋力アップだけでなく、ホルモン注射や食事療法のほか歯の矯正まで及び、顔のシコリンイも取り除かれた。その結果、順調に身長は伸び、筋肉質となって体重も増量。たぐいまれなテクニックとセンスを支える、「サイボーグ」のような肉体が出来上がった。

 

22歳のWカップデビュー

18歳となった71年のヴァスコ・ダ・ガマ戦でトップチームデビュー。CFとしてチームの2得点に絡む活躍をする。オリンピック出場を目指してアマチュアとしてプレーを続けるが、72年のミュンヘン大会メンバーからは外され、大きな挫折を味わうことになる。

フラメンゴのレギュラーを獲得した74年には、チームの得点王としてリオ州選手権優勝に貢献。その活躍で75年にブラジル代表へ選ばれ、22歳の誕生日に行われたウルグアイ戦でデビューを飾る。そして78年のWカップ・アルゼンチン大会に出場。セレソンの10番はリベリーノがつけていたため、ジーコには背番号8が与えられた。

1次リーグ初戦のスウェーデン戦、試合は1-1の同点で終盤を迎えた。終了間際にブラジルが右CKのチャンス。ネリーニョの蹴ったボールをジーコが頭で合わせ、鮮やかにゴールへ叩き込む。ブラジルの決勝点となったかに思えたが、その瞬間終了を告げる笛が吹かれてノーゴールの判定。ブラジルは猛抗議を行うも認められず、試合は引き分けとなった。

ブラジルはこの後も、新スタジアムの剥がれやすい芝に悩まされて苦戦を続けた。第2戦でスペインに0-0と引き分けると、最終節オーストリア戦で1-0の辛勝。なんとか2次リーグへ勝ち上がった。

2次リーグでは地元アルゼンチンと直接対決で引き分け、決勝進出は最終日のお互いの結果次第、ということになった。先に試合を行ったブラジルはポーランドに3-1と快勝、得失点差も広げて有利な立場となる。だが1時間後に行われた試合で、大量得点が必要となったアルゼンチンがペルーに6-0と圧勝。ブラジルをかわして決勝に進出した。

結局自国開催で初優勝を果たすことになるアルゼンチンだが、共に軍事政権下にあったペルーとの関係は疑惑を呼ぶことになる。2次リーグでPKによる1点を記録したものの、コウチーニョ監督と意見が合わず途中から先発を外され、ジーコにとって苦い思いだけが残る大会となってしまった。

 

フラメンゴは80年のブラジレイロン(全国選手権)で優勝。ブラジルチャンピオンとなったチームは、81年のコパ・リベルタドーレス(南米クラブ選手権)に臨んだ。チリの新興クラブCDコブレロアとの決勝(3試合行われた)は荒れた試合となったが、ジーコは計4点を叩きだしてチームを南米王者に導いた。

同年12月13日、東京国立競技場で第2回トヨタカップが行われ、南米チャンピオンのフラメンゴと欧州チャンピオンのリバプールが、世界一の座を懸けて戦った。開始12分、ジーコは走り込むヌネスにタイミングを合わせ、相手DFの頭上を抜く浮き球パス。フラメンゴの先制点を演出する。

34分にはジーコの放った鋭いFKが相手キーパーのファンブルを誘い、アジーリオが押し込んでリードを広げた。さらに41分、ジーコの意表を突くアウトサイドパスから、走り込んだヌネスがドリブル突破。そこからフラメンゴの3点目が決まった。

こうして試合前は劣勢と見られていたフラメンゴが、当時ヨーロッパ最強を誇ったリバプールを3-0と粉砕。世界一クラブの称号を手にする。全得点をお膳立てする活躍でMVPに選ばれたジーコは、副賞として贈られたセリカ・リフトバックを、長年愛車として大事に乗り続けた。

 

ブラジル「黄金のカルテット」

82年、ジーコセレソンの10番を背負いWカップ・スペイン大会に出場する。テレ・サンターナ監督のもと、高い技術と芸術的なパスワークで魅了するブラジルは、勢いのまま南米予選を全勝で突破。否が応でも国民の期待は高まっていた。

1次リーグの初戦ではソ連のスピード豊かな攻撃に先制を許すが、相手に疲れが見えた後半、ジーコが好機をつくって逆転。2-1と勝利して順調なスタートを切った。第2戦では出場停止となっていたトニーニョ・セレーゾが復帰、初めてロベルト・ファルカンと併用される。

ここにソクラテスもあわせた創造的な4人による、「黄金のカルテット」が完成。ジーコのFKも決まり、堅守を誇るスコットランドを4-1と粉砕した。そして続くニュージーランド戦では、ジーコがバイシクル・シュートを決めるなどすべてのゴールに絡んで、格下を4-0と一蹴。3戦全勝で2次リーグに進んだ。

2次リーグ初戦では、天才児マラドーナを擁するアルゼンチンと対戦。開始11分にFKのこぼれ球を拾ったジーコが先制点。その後も黄金の中盤による早いパス回しで、もたつくアルゼンチンを翻弄。試合の主導権を握った。後半も追加点が決まってブラジルが3-0とリード。マラドーナを厳しいマークでいらつかせ、報復行為を誘って退場に追い込む。

終盤に1点を返されたものの、宿敵相手に3-1の快勝。準決勝進出を懸ける次戦の相手は、得点力不足に悩んでいたイタリアだった。イタリアは「エースキラー」の異名を持つジェンティーレをジーコのマークに付け、ブラジルの攻撃を封じにかかった。

開始5分、それまで不調だったイタリアのパオロ・ロッシが、沈黙を破る先制のヘディングゴール。しかし12分にはソクラテスジーコとの息の合ったワンツーで抜け出し、名手ゾフのニアサイドを破る同点弾を決めた。

25分にT・セレーゾの不用意な横パスを奪ったロッシが勝ち越し弾。だが68分にT・セレーゾの動きに引きつけられたDFの間隙を突き、ジーコのパスを受けたファルカンが再び同点に追いつくゴールを叩き込む。反則まがいの当たりでつきまとっていたジェンティーレさえ、ジーコの必殺パスを防ぐことが出来なかった。

引き分けても得失点差で優位に立つブラジル。あとは慎重に戦えば準決勝進出となるはずだったが、一気呵成の逆転を狙って攻勢に出る。75分、イタリア右CKからのクロスをジュニオールが半端なクリア。そこへロッシが素早くこぼれ球を拾ってシュート、ブラジルは痛恨の失点を喫してしまった。

残り時間を必死に攻め続けるブラジルだが、イタリアの堅い守りに阻まれ試合は2-3で終了。ベスト8で大会を去ることになった。それでもブラジル国民を熱くした「夢のチーム」は、帰国した空港でサポータの温かい拍手を受けることになる。

 

日本とジーコ

Wカップ終了後の10月にジーコは3度目の手術を受けるが、膝は元の状態へ戻ることはなかった。それでもリハビリに数ヶ月を費やし、Wカップのちょうど1年後にピッチへ復帰。そのフルミネンセ戦でPKを蹴り、チームの勝利に貢献する。

89年12月、36歳で現役を引退。翌90年3月にはブラジル大統領の要請を受け、初代スポーツ庁長官に就任する。そしてその任期が終わった翌91年5月、日本サッカーリーグ2部の住友金属での現役復帰が発表された。

93年のプロリーグ開始を控え、地域に根ざしたサッカーの定着という、住友金属鹿島町による活性化プロジェクトにジーコは心を動かされたのだ。粘り強い指導で鹿島の選手にプロ意識を植え付け、J開幕戦ではハットトリックを記録。お荷物と呼ばれたチームをファーストステージ優勝に導いた。

しかし相次ぐ故障により翌94年に引退。ジーコが土台をつくった鹿島アントラーズは、J屈指の強豪チームと育っていく。02年には日本代表監督に就任、06年のドイツWカップで指揮を執った。

その後、トルコのフェネルバフチェギリシャオリンピアコスなど各国のクラブ監督を歴任。16年には日本サッカーの殿堂入りを果たし、18年からは鹿島アントラーズのテクニカル・ディレクターを務めた。