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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ソクラテス・ブラジレイロ(ブラジル)

 

「ドクター・フチボウ」

190㎝を越える長身ながら、空中戦よりも足元のボール扱いと正確なキックによるパスワークを得意とした攻撃的MF。巧みなボールキープとダイナミックな動きで攻撃をリードし、高い得点力を誇ったブラジルの名選手が、ソクラテス( Sócrates Brasileiro Sampaio de Souza Vieira de Oliveira )だ。

 

無造作に伸ばした黒い顎髭、憂いを帯びた表情、悠然とした佇まいは、もはやいにしえの哲学者。プロサッカー選手ながら医学部で学び、医師免許を持つという異色の経歴で「ドドール(ドクター)」の愛称を持つ。またヒールキックを得意とし、ペレからは「並の選手が前に蹴るより、はるか巧みに後ろへ出す」と評された。

82年Wカップではジーコファルカントニーニョ・セレーゾとともに「黄金のカルテット(クワトロ・オーメン・ジ・オロ)」を形成。冷静さとリーダーシップを備えるソクラテスは代表キャプテンを務め、高い技術によるイマジネーション豊かなサッカーで世界を魅了した。

 
フチボウのドクター

ソクラテスは1954年2月19日、アマゾン川河口の町ベレンで生まれた。古代ギリシャの哲学者にちなんだ名前は読書好きの父親によって付けられ、2人の弟(ソフォクレスとソステネス)の名前も古典から採られている。ちなみに11歳下の末弟は、後にセレソンのキャプテンとなるライーである。

父親の影響を受けたソクラテスプラトンマキャベリ、そしてホッブズといった哲学書思想書を読みあさり、少年時代に軍事政権による圧政が始まると、その独裁体制の中で政治思想も左傾化していった。そんな彼のヒーローは、フィデル・カストロチェ・ゲバラジョン・レノンの3人だったという。

60年に一家はサンパウロへ移り、16歳でボタフォゴ-SP(リオの同名強豪クラブとは別)の下部組織へ入団。翌年大学の医学部へ進学し、勉学に励みながらサッカーを続ける。大学在学中の74年にトップチームデビュー、その才能は早い時期から知られていたが、学業を優先して強豪クラブの誘いを断り続けた。

ボタフォゴの4年で269試合101ゴールの成績を残し、大学を卒業した78年にサンパウロの名門コリンチャンスへ移籍。すぐにレギュラーを獲得して、チームの中心的存在となった。その後の6年間で297試合172ゴールという高い得点力を見せ、3度のサンパウロ選手権優勝に貢献する。

だが陽気なブラジル選手の中にあって、ソクラテスがプレー中に感情を現わすことは滅多になかった。その落ち着いた態度と知性的なプレー、医学部卒という経歴で「フチボウ(フットボール)のドクター」と呼ばれるようになった。

さらにソクラテスは、チームにタイトルだけではなくクラブ改革をもたらす。クラブからの強圧的な扱いに反撥したソクラテスは、「コリンチャンス・デモクラシア」と呼ばれる運動を始め、チームに民主主義を持ち込んだ。82年には「DEMOCRACIA」とプリントされたシャツを着てサンパウロ選手権を制覇、市民に運動への支持を訴えかけている。

こうしてクラブ幹部の独断専行で行われていたことが、選手の合議制で決められるようになり、チームは自主性を持つようになったのである。やがてこの運動はクラブ外にも広がってゆき、軍事独裁政権が管理していた議員・市長・州知事などの選挙にも影響を及ぼすようになる。

 

魅惑のチーム

代表には79年5月17日のパラグアイ戦でデビュー。同年のコパ・アメリカにも出場し、G/Lのアルゼンチン戦で2ゴール、準決勝のパラグアイ戦でもPKによる得点を挙げ、決勝へは進めなかったが早くも代表の主力となった。

80年、テレ・サンターナが代表監督に就任。ブラジルは高い技量を備えた中盤のタレントを揃え、魅惑的なサッカーを展開して81年から16勝4分けの負け知らず。サンターナ監督が「私の夢のチーム」と胸を張るカナリア軍団は、W杯南米予選も余裕の全勝で、本大会で優勝候補の筆頭に挙げられるまでになっていた。

82年、Wカップ・スペイン大会が開幕。28歳のソクラテスはキャプテンマークを巻いて世界の大舞台に立った。G/Lの初戦はソ連と対戦、34分に先制されるも、75分にこぼれ球を拾ったソクラテスがドリブルから豪快なミドルシュート、同点とした。88分にはエデルがこれまた強烈なシュートを決め、ブラジルが2-1と逆転勝ちを収めた。

第2戦のスコットランド戦は、出場停止明けのトニーニョ・セレーゾが戦線に復帰。久しぶりに代表へ招集されたロベルト・ファルカンも、ソ連戦での素晴らしい働きで先発に起用された。ここに伝説となる「黄金のカルテット」が初めて姿を現わしたのだ。

試合はスコットランドが18分に先制、だが33分にジーコの大きく曲がるFKで同点とした。そして後半開始直後の48分、ジュニオールのCKからオスカーが頭で合わせて逆転。63分にはエデルがループでGKの頭上を抜き、87分にはソクラテスの巧みなパスからファルカンがダメ押しとなる4点目を決めた。

早くも2次リーグ進出を決めたブラジルだが、最終節の試合も力を抜かずフルメンバー。ジーコがオーバーヘッド・シュートを含む2点得を挙げ、格下ニュージーランドに4-0と圧勝する。こうしてブラジルは全勝で2次リーグに進出、その初戦で前大会王者のアルゼンチンと戦った。

開始11分、エデルのFKはバーを直撃するが、跳ね返りに反応したジーコが押し込んで先制。66分にはジーコのパスにファルカンが抜け出してクロス、セルジーニョの2点目が決まった。75分、またもジーコの鋭いパスからジュニオールが追加点。勝利を確実なものにした。

黄金の中盤」が奏でるハーモニーはもはや芸術品、天才児マラドーナ擁するアルゼンチンを早いパス回しで翻弄した。苛立ったマラドーナは85分に暴力行為で一発退場。終了直前にラモン・ディアスのゴールで1点返されるが、南米のライバル相手に3-1と会心の勝利を収めた。

エースFW不在の中でジーコが攻撃の急先鋒となり、ソクラテスが緻密な配球でゲームメイク。ファルカンが好守に卓越した働きを見せると、ボランチのT・セレーゾがバランスをとって両SBの攻撃参加を可能にした。計算されたリズムと創造性から生まれる攻撃的なサッカー、ソクラテスはこれを「組織化された自由」と表現した。

 

予想外の敗退

こうして4度目の優勝に近づいたブラジルだが、ベスト4入りを決めるイタリアとの試合は予想以上の激闘となった。得失点差で下回り、勝つしかないイタリアは立ち上がりから攻撃を開始、早くも5分にパオロ・ロッシのヘディングによる大会ゴールが生まれた。

だが好調ブラジルは慌てずに反撃。12分、中盤でボールを受けたソクラテスがDFの隙間を通すパス、ジーコとの鮮やかなワンツーから名手ディノ・ゾフの横を破る完璧な同点弾を叩き込んだ。これでリズムを取り戻したブラジルだが、25分にT・セレーゾが不用意な横パス、それを奪ったロッシが素早くネットを揺らし、再びイタリアがリードする。

それでも攻撃力に勝るブラジルはボールを支配。幾度かのチャンスを逃した後半の68分、T・セレーゾの囮の動きに惑わされたイタリアDFの間隙を狙い、ファルカンが強烈な同点弾を突き刺した。これでこのまま2-2と引き分ければ、ブラジルが準決勝に進むはずだった。

しかしその6分後、イアタリアのCKからこぼれ球に反応したロッシが、ハットトリックによる勝ち越しゴール。その後の反撃も虚しく、ブラジルはロッシ一人にやられて2-3と敗れ去ってしまった。それでも攻撃的なサッカーで大会を魅了したセレソンは、国民から温かい拍手が贈られた。

 

デモクラシーの勝利

翌83年にはコパ・アメリカが開催(ホーム&アウェイ方式)され、ブラジルはG/Lで同組となった宿敵アルゼンチンを得失点差でかわして決勝トーナメントに進出。準決勝でパラグアイを下してファイナルに進むが、決勝ではウルグアイに敗れて準優勝に終わる。

ソクラテスコパ・アメリカに出場したのは、決勝の第2レグ1試合だけ。それでも同年にはコリンチャンスサンパウロ選手権優勝に導く活躍を見せ、この年の南米年間最優秀選手に選ばれている。

この頃には軍事政権も行き詰まりを見せ、国内には民政移管を望む気運が盛り上がっていた。84年には150万人が参加する大規模な政治集会が行われ、民主化運動の鍵を握る人物となっていたソクラテスは、そこで演説を行う。

その演説の内容は、「自由投票による大統領選挙(大統領公選制)を復活させる憲法修正案が議会で通ったら、イタリアからのオファーを断ってブラジルに留まる」ことを約束するものだった。しかしこの修正案は否決され、ソクラテスは85年にフィオレンティーナへ移籍。「コリンチャンス・デモクラシア」の活動も終わりを告げた。

それでも民主化運動の気運は止まることなく、1年後には文民であるジョゼ・サイネルが大統領に当選。ようやく89年に大統領公選制が復活し、ブラジルの政治は再び国民のものとなった。

84-85シーズンに移籍したフィオレンティーナでは29試合9得点という成績を残すが、イタリアの気候やセリエAカルチョ文化が体質に合わず(インタビューでは、当時八百長が横行していて嫌になったと答えている)、1年でブラジルに帰国する。

85-86シーズンには強豪のフラメンゴでプレー、86年のリオ・デ・ジャネイロ選手権優勝に寄与する。この時チームには同じくイタリア帰りのジーコもいたが、膝を痛めていてほとんど試合に出場できない状態だった。

 

代表最後の大舞台

86年、Wカップ・メキシコ大会が開幕。ブラジルはG/L初戦でスペインと対戦した。T・セレーゾは怪我で代表を退き、故障を抱えるジーコとファカンはベンチ要員。32歳のソクラテスは「黄金のカルテット」唯一のメンバーとして初戦のピッチに立った。

55分、スペインのミッチェルが放ったシュートがバーの下側を叩き、真下に落下したボールはゴールラインを割ったかに見えた。しかし判定はノーゴールとなり、逆に62分にはカレカのシュートがバーを直撃。跳ね返りをソクラテスが押し込んで決勝点を決めた。この時ソクラテスオフサイドポジションにいたのだが、そのまま得点は認められた。

続く第2戦もカレカのゴールでアルジェリアに1-0と勝利、早くもG/L突破を決めた。最終節の北アイルランド戦は、前半までにブラジルが2-0とリードする。すると後半の68分にはソクラテスに替わってジーコが大会初登場、さっそくカレカの3点目をアシストする。

決勝トーナメント1回戦ではポーランドと対戦。30分にカレカが倒されて、そこで得たPKをソクラテスが決めてブラジルが先制。そのあとも得点を重ね、4-0の圧勝を収める。そして準々決勝で戦うことになったのが、84年の欧州選手権を制して優勝候補にも挙げられていたフランスだった。

夢の対決と言われた試合は、カレカのシュートで18分にブラジルが先制。攻撃をリードするソクラテスも再三チャンスに絡んだ。立ち上がりから押し気味に試合を進めるブラジルだが、40分、ジレスのダイレクトパスからロシュトーが右サイドを破って折り返しのクロス。そこに飛び込んだプラティニが同点弾を決めた。

その後一進一退の攻防が続き、71分にブラジルは切り札のジーコを投入する。その直後、ジーコのスルーパスにブランコが抜け出すと、GKバツに倒されブラジルがPKを獲得。しかしこの絶好のチャンスを名手ジーコが外してしまう。

試合は1-1のまま延長に突入。疲労が隠せないベテランのソクラテスも、必死のシュートを放つなど最期まで奮戦するが、120分を終了してついに勝負はPK戦にもつれ込んだ。ブラジル1人目のキッカーはソクラテス、しかしそのシュートはバツの好守に阻まれてしまった。

それでもブラジルは3人目のジーコ、4人目のブランコと確実に決め、フランス4人目のキッカーはプラティニ。そのシュートはバーを越え、両チームが3-3と並んだ。しかしブラジル5人目のジュリオ・セザールがPK失敗、最期にフェルナンデスが確実に決めてフランスが勝利する。

こうしてブラジルはベスト8で大会を去ることになり、これがソクラテス代表最期の試合となった。7年の代表歴で60試合に出場して22得点の記録を残した。

 

ドクター・スモーカー

フラメンゴで3シーズンプレーしたあと、88年にサントスへ移籍。89年には古巣のボタフォゴ-SPに戻り、35歳で現役を引退した。引退後は故郷でスポーツクリニックを開業、その間も政治・社会問題に関心を持ち続け、テレビ番組で度々発言を行った。

11年12月14日、腸内感染症による敗血症のため57歳という若さで死去。長年にわたる飲酒と喫煙が身体を蝕んでいたと言われている。

13歳の頃からタバコを吸っていたソクラテスは、「肺癌か肺気腫で死ぬかもしれない」と自らの早逝を予期。元アスリートでドクターのヘビースモーカーぶりはメディアの批判を受けるが、束縛を嫌う彼は「これが私だ」と習慣を変えることはなかった。