「スネークと呼ばれた男」
的確な状況判断と優れたパスワークでゲームを組み立てながら、自らもアタッカーとして果敢にゴールを狙った攻撃的MF。得意のドリブルで守備網を切り裂き、鋭く曲がるシュートと爬虫類のような眼光から「スネーク」の異名で呼ばれたのが、ユーリ・ジョルカエフ( Youri Djorkaeff )だ。
アーセン・ベンゲル監督に見いだされ、ASモナコで急成長を遂げてリーグ得点王を獲得。そのあと移籍したパリ・サンジェルマンでは、欧州カップウィナーズ・カップ優勝に貢献する。96年にはセリエAの強豪インテル・ミラノへ引き抜かれ、さっそく14ゴールの活躍。UEFAカップ優勝のタイトルにも輝いた。
フランス代表では、ジネディーヌ・ジダンとのダブル司令塔で攻撃を牽引。エースFW不在のチームでセカンドストライカーの役割も担った。自国開催の98年W杯では中心メンバーとして初優勝に貢献し、ユーロ2000ではサブメンバーながら貴重な得点を挙げて、2度目のヨーロッパ制覇に寄与している。
リヨンの「小さなモーツァルト」
ジョルカエフは1968年3月9日、フランス南東部に位置する都市リヨンで生まれた。ユーリという名前は映画『ドクトル・ジバゴ』(65年公開)の主人公、ユーリ・ジバゴからとったものである。
父親のジャンは、当時マルセイユでプレーするサッカー選手。66年W杯イングランド大会にも出場した、フランス代表の名ディフェンダーだった。また兄のデニスと弟のサーシャものちにサッカーの道へ進むなど、フットボール一家(ユーリの次男オアンも現役のサッカー選手)の環境で育つ。
しかし小さい頃から陸上競技、柔道、テニス、水泳など様々なスポーツに取り組み、また将来を考えて勉学にも熱心に励むなど、サッカ一辺倒ではない少年時代を過ごす。
それでも兄の影響を受けて地元のジュニアクラブに入団。この頃はプロ志向が無かったものの、やはり血筋による才能の輝きを隠せず、15歳でディヴィジョン・ドゥ(現リーグ・ドゥ)に所属するグルノーブルと契約する。
17歳でトップチームに昇格し、19歳となった87年にプロとしてのキャリを開始。そして88-89シーズンは25試合11ゴールの活躍を見せ、優雅なプレーメーカーぶりから「小さなモーツァルト」と呼ばれた。
その活躍により、89年の秋にはストラスブールへスカウトされる。ストラスブールは前年2部降格の憂き目に遭っていたが、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)優勝経験もある名門チームだった。
そして移籍1年目の89-90シーズンから28試合21ゴールと活躍、1部昇格プレーオフ権の得られる2位確保に貢献する。その活躍で強豪クラブからも注目される存在となったが、一番熱心に誘いを掛けてきたのが、ASモナコのアーセン・ベンゲル監督だった。
ベンゲル監督の指導
ジョルカエフを手放そうとしなかったストラスブールとの交渉は難航したが、シーズン途中の90年10月にようやく契約がまとまり、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)のASモナコへ移籍。
この時期ジョルカエフは、兵役義務を果たしながら週末には試合をこなすという忙しい日々を送り、90-91シーズンは20試合5ゴールの成績。ベンゲル監督からは守備の課題を指摘され、1年目は先発を外されることも多かった。
それでもシーズン終わりの91年6月にはクープ・ドゥ・フランス(フランス杯)の決勝に先発し、当時リーグ最強のオリンピック・マルセイユを破って初タイトルを獲得する。
このあとベンゲル監督のもとで着実に力を伸ばし、92-93シーズンは32試合11ゴールと活躍。19ゴールを挙げた新加入のクリンスマンとともにチームの得点源を担った。
93-94シーズンには、ベルギー代表のエンツォ・シーフォが入団。ジョルカエフはゲームメークをシーフォに任せ、負傷したクリンスマンに代わりエースとして活躍。35試合で20ゴールを挙げ、リーグ得点王(3人が同点)に輝く。
リーグ戦は9位に終わるも、チャンピオンズリーグでは2得点を挙げて準決勝進出に貢献。翌94-95シーズンも33試合14ゴールと好成績を残し、契約がフリーとなった95-96シーズンは強豪パリ・サンジェルマンに移籍する。
PSGでも1年目から主力として活躍。リーグ2位に貢献するほか、カップウィナーズ・カップでは4得点を挙げて初優勝の原動力となる。
そして96年にボスマン裁定が下されると、EU内の選手移籍が活発化。有望選手のジョルカエフにはバルセロナなどスペインの複数チームからオファーが寄せられ、その中からセリエAのビッグクラブ、インテル・ミラノへの移籍を選択する。
新生フランス代表の課題
フランスのフル代表には93年に初招集。10月に行なわれたアメリカW杯予選のイスラエル戦で初キャップを刻んだ。フランスは予選最終節のブルガリア戦でW杯出場を目前にするも、ロスタイムに無用な失点。「パリの悲劇」と呼ばれる失態を犯して敗退となり、2大会連続でW杯出場を逃してしまう。
94年2月の親善試合イタリア戦で代表初ゴールを記録し、5月にはカントナ、パパン、デシャン、デサイーらの主力選手と共に、キリンカップ出場のため来日。29日の日本戦では前半15分に先制ゴールを挙げ、4-1と圧勝して「ドーハの悲劇」に沈んだ日本との実力の違いを見せつけた。
このあとエメ・ジャケ監督はカントナ、パパン、ジノーラら旧世代のスター選手を外し、ジョルカエフとジダンを中心にした攻撃陣を構成。同年9月から始まったユーロ予選では、ジョルカエフがチームトップとなる5得点を挙げ、本大会出場決定に大きく貢献する。
96年6月にはイングランド開催のユーロ96に出場。ジョルカエフはG/L第2戦のスペイン戦でゴールを記録、フランスはグループ1位でベスト8に勝ち上がった。
準々決勝のオランダ戦は延長120分を戦って0-0。フランスはPK戦を制して準決勝に進むが、準決勝のチェコ戦でまたもスコアレス。今度はPK戦で敗れてしまった。フランスはベスト4入りしたものの、試行中の攻撃陣が沈黙。ジョルカエフとジダンの併用は疑問視され、2年後の自国開催W杯に向けて大きな不安を残した。
インテル史上最高のゴール
ガンツ、サモラノ、ポール・インス、サネッティ、ベルゴミ、パリウカとスター選手がひしめくインテル・ミラノでも、ジョルカエフはキープレーヤーとして活躍。移籍1年目の96-97シーズンから33試合14ゴールと好成績を残した。
97年1月にホームで行なわれたローマ戦では、大きなジャンプから完璧にボールを捉えてのバイシクルキック。強烈なシュートを左ネットに突き刺した。これはインテル史上最も美しいゴールとして強いインパクトを残し、クラブの年間最優秀選手にも選ばれる。
97-98シーズンは新加入した怪物ロナウドのサポート役に廻り、リーグ2位とUEFAカップ優勝に貢献。UEFAカップでのゴールこそなかったが、全9試合にゲームメーカーとして大きな役割を果たした。
しかし毎年のように主力選手が入れ替わるビッグクラブにあって、ジョルカエフのモチベーションは次第に低下。98-99シーズンはエンポリ戦でハットトリックを記録するも、25試合8ゴールとパフォーマンスを落とし、リーグ戦終了後にイタリアを離れることになった。
ワールドカップ初優勝
98年6月、自国開催のWカップに出場。G/L初戦は南アフリカを3-0と下し、第2戦もサウジアラビアに4-0と圧勝。しかし司令塔のジダンが相手選手を踏みつけ一発退場、2試合の出場停止となってしまう。最終節のデンマーク戦は、ジョルカエフのPKなどで2-1と勝利。地元フランスは全勝で決勝トーナメントに進む。
ジダンを欠いたトーナメントの1回戦は、GKチラベルトを中心に堅守を誇るパラグアイを攻めあぐねるも、延長後半の113分にDFブランがゴールデンゴール。ベスト8進出となった。
ジダンが戻った準々決勝はイタリアと対戦。これまた1点を争う接戦となり、延長120分を戦っても決着がつかず0-0でPK戦へ。イタリア5人目ディ・ビアッジョのシュートがバーに阻まれ、フランスが準決勝に進出する。
準決勝の相手はW杯初出場のクロアチア。後半開始直後の46分にシュケルの先制ゴールを許すが、その1分後、ボバンのボールを奪ったテュラムがジョルカエフとのワンツーから同点弾。そして69分にも再びテュラムがゴールを決め、2-1と逆転勝利したフランスが決勝へ勝ち上がった。
決勝は前回王者ブラジルとの戦い。大会連覇を狙うブラジルだが、決勝の朝にロナウドが発作を起こして入院。それでも強行出場したエースを気遣って浮き足立つセレソンを相手に、フランスは優位に試合を進める。
開始27分、プティの右CKからジダンがヘディングシュートを決めて先制点。そして前半のロスタイムにも、ジョルカエフの左CKから再びジダンが頭で追加点を叩きだす。後半69分、デサイーが警告2枚で退場。フランスはジョルカエフを下げ、守備固めとしてヴィエラを投入する。
後半ロスタイムにはプティがダメ押し点。フランスは3-0の快勝で地元でのW杯初優勝を飾った。ジョルカエフはジダンと機能的な補完関係を築き、エースFW不在の攻撃陣をカバーした。
99-00シーズンはドイツの1.FCカイザースラウテルンに移籍。ここでもすぐにチームの主力となり、UEFAカップ出場権を得られるリーグ5位確保に貢献する。
しかし00-01シーズン途中にアンドレアス・ブレーメが監督に就任すると、新指揮官とソリの合わなかったジョルカエフの出場機会が減少。カイザースラウテルンはUEFAカップ準決勝でスペインのアラベスに2-9(2戦合計)の惨敗を喫し、不満を露にしたジョルカエフがブレーメ監督を公然と批判。二人の不仲は決定的となった。
翌01-02シーズン途中、チームの居場所を失ったジョルカエフはイングランドのボルトンワンダラーズへ移籍。ナイジェリアのオコチャ、スペインのイヴァン・カンポとともに魅惑的な中盤を形成し、03-04シーズンには決して強豪とは言えないチームをリーグカップ準優勝に導いた。
ユーロ制覇に貢献
00年6月にはユーロ2000(オランダ / ベルギー共催)に出場。G/L初戦でデンマークを3-0と打ち破り、第2戦では4年前のユーロで惜敗したチェコと対戦。デンマーク戦でハムストリングを痛めたジョルカエフはベンチスタートとなった。
ハーフタイムを1-1で折り返した後半開始の46分、プティに代わってジョルカエフがピッチへ登場。そして60分に期待に応える得点を挙げ、フランスを2-1の勝利に導く。最終節はオランダに2-3と敗れるが、フランスはグループ2位でベスト8に進んだ。
準々決勝はスペインと対戦。前半32分、ジョルカエフが倒されて得たFKを、ジダンが鮮やかに決めてフランスが先制。だがその6分後、Pエリアに切れ込んだムニティスをテュラムが引っ掛けてしまいPK。これをメンディエタに決められ1-1となる。
だが前半終了間際の44分、ヴィエラのパスに抜け出したジョルカエフが右脚を振り抜いて勝ち越し弾。このまま後半を守り切り、フランスが準決勝へ進出する。
準決勝はポルトガルと激闘を演じ、延長の117分にジダンがゴールデンゴールとなるPKを決めて2-1の決着。ついに決勝へ勝ち上がった。
決勝の相手はイタリア、ポルトガル戦で出番のなかったジョルカエフが先発復帰した。前半は互いに様子を見て0-0。だが後半の55分、トッティのヒールパスから右サイドに抜けたペソッティがクロス。それをデルベッキオがボレーで合わせて、イタリアが先制する。必死の反撃を試みるフランスだが、アズーリの堅い守りに阻まれ続けロスタイムを迎えた。
このままイタリアの優勝が決まるかに思えたが、終了直前にカンナバーロのクリアミスからヴィルトールが起死回生の同点弾。ゲームは延長戦に突入する。
そして延長前半の103分、ピレスが左サイドを突破して中央へ折り返し。それをジョルカエフに代わって投入されたトレゼゲが、左脚ダイレクトで叩き込みゴールデンゴール。フランスが奇跡の逆転劇で12年ぶり2度目の欧州制覇を果たした。
ワールドカップ日韓大会の屈辱
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。優勝候補の筆頭と目されたフランスだが、司令塔のジダンが直前の強化試合で大腿部を負傷。G/L初戦のセネガル戦は欠場となった。
ジダンの代わりを34歳のジョルカエフが務めるも、アンリやトレゼゲが再三の好機を逃すなど攻撃陣は空回り。高齢化した守備陣もディウフのスピードに翻弄され、前半の30分に失点。0-1とよもやの敗北となってしまった。
プレー中に股関節を痛めたジョルカエフは、後半の60分にデュガリーと交代。第2戦のウルグアイ戦は欠場となった。最終節のデンマーク戦はジダンが強行出場するも、本来のコンディションとはほど遠く、優勝候補のフランスはG/L3試合で無得点。屈辱の予選敗退を喫してしまう。
ジョルカエフはデンマーク戦で終盤の10分間をプレーしたのみ。この大会を最後に代表を引退した。10年の代表歴で82試合に出場、28ゴールの記録を残している。
引退後の活動
ボルトンワンダラーズでは3シーズンをプレー。そのあと同じプレミアのブラックバーンを経て、05年にはMLSのニューヨーク・レッドブルズへ移籍。ここで10点を挙げるなどゲームメーカーとして活躍し、クラブの年間最優秀選手にも選ばれた。
しかし06シーズンはアキレス腱を痛めて21試合2ゴールの成績。06年10月の公式戦出場を最後に、38歳で現役を引退する。
引退後は故郷リヨンのクラブ、UGAデシヌの会長に就任。父ジャンがジェネラルマネージャーを務め、2人の兄弟も幹部としてクラブを支えた。また現在のジョルカエフは、有料スポーツチャンネルのコメンテーターとしても活動中である。
22年4月には、モンゴルサッカー協会に招かれて83歳のジャンとともに同国を訪問。ジャンがカルムイクス(西モンゴル系オイラート族の子孫)の血を引くという縁による招待だった。ジョルカエフは2000個のボールを贈る他、指導者へのゼミを行なったり、親善試合に参加したりと、普及活動に協力した。