
「将軍の勲章」
長短のパスでリズムをつくり、広い視野と一瞬の判断力でチャンスを演出。また “プラトッシュ” と恐れられる芸術的なフリーキックを代名詞とし、自らも多くの得点を奪った。そのエレガントなパスワークでフランスのシャンパンサッカーをリードし、「ル・ロワ(王様)」と呼ばれたのが、ミシェル・プラティニ( Michel François Platini )だ。
ASナンシーで若くしてその名を轟かせ、ASサンテティエンヌでの活躍を経て、82年にイタリアの名門ユベントスへ移籍。リーグ得点王に3度輝き、セリエA優勝2回、欧州チャンピオンズカップ制覇、インターコンチネンタルカップ(トヨタカップ)優勝などのタイトル獲得に大きく貢献。83年から3年連続でバロンドールを受賞する。
フランス代表でもチームの中心となり、アラン・ジレス、ジャン・ティガナらとともに「カーレ・マジック」とよばれた中盤を形成。84年の欧州選手権では9ゴールを挙げ、得点王の活躍で “レ・ブルー” を初の欧州王者に導く。W杯にも3度出場。華麗なパスワークによる “シャンパンサッカー” で世界を魅了した。
ミシェル・プラティニは1955年6月21日、フランス北東部のロレーヌ地方にある小さな町ジェフで生まれた。祖父の代より一家はイタリアからフランスへ移り住み、父親はアマチュアとしてプレーする数学教師だった。小さい頃は友達との遊び程度でボールを蹴っていたプラティニだったが、父親とFCメツの試合を観戦してからその迫力に目を奪われ、本格的にサッカーと取り組むようになる。
地元クラブのASジェフでその豊かな才能を示したプラティニは、16歳のときにプロを目指してFCメツの練習に参加する。その申し分ないテクニックと潜在能力が認められ契約寸前までいくが、呼吸器のテストで専属医の厳格な診断に引っかかって不合格となってしまった。
やむなくプラティニは、父親がコーチを務める田舎クラブのASナンシーと17歳で練習生契約を結ぶ。そこで急成長を見せたプラティニは、契約1年後の73年5月にトップチームデビュー。その2週間後のオリンピック・リヨン戦では、ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)の初得点と2点目を記録した。
だが翌73-74シーズンのOGCニース戦で、左脚骨折の重傷。残り試合の欠場を余儀なくされ、チームも18位と低迷してディヴィジョン・ドゥ(2部)へ降格した。だが故障が癒えた74-75シーズン、プラティニは33試合17ゴールの活躍で、チームの1部復帰に貢献する。
76-77シーズンは38試合で22ゴールを挙げて、チームを過去最高のリーグ4位に押し上げる。77-78シーズンのクープ・ドゥ・フランス(フランス杯)決勝では、殊勲の得点を挙げて初タイトル獲得に貢献。フランスサッカー界に現れた期待の新星と注目を集めた。
フランス代表には20歳の時に初招集され、76年3月のチェコスロバキア戦でデビューを果たした。このデビュー戦、プラティニはセットプレーのチャンスで臆することなくキッカーとして名乗りを上げ、鮮やかなFKでいきなり代表初ゴールを記録。国内に衝撃を与えたそのFKは “プラトッシュ” と名付けられた。
そのあと親善試合のデンマーク、ブルガリア、アイルランド戦でも立て続けに得点を決め、攻撃のエースとして不動の地位を確立。同年夏のモントリオール五輪では3ゴールを記録し、準々決勝進出に貢献している。
76年10月から始まったW杯欧州予選でも、4試合3ゴールの活躍。本大会出場を懸けた77年11月のグループ最終戦では、プラティニのロングシュートによる先制点が決まってブルガリアに3-1の勝利。フランスを12年ぶりとなるW杯出場に導く。
そしてW杯を控えた78年2月の親善試合イタリア戦では、伝説的名GKディノ・ゾフから必殺の “プラトッシュ” で2点を奪い、その名をヨーロッパ全土に轟かせた。
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。1次リーグ初戦ではイタリアに1-2と敗れ、続く第2戦はプラティニがW杯初ゴールを記録するが、地元アルゼンチンに1-2の敗戦。早くもフランスの敗退が決まってしまう。最終戦はハンガリーに3-1と勝利するが、「死のグループ」の敗者として大会を去った。
名門ユベントスへの移籍
79年、ディビジョン・アンの強豪サンテティエンヌに移籍。1年目の79-80シーズンから33試合16ゴールの活躍を見せると、翌80-81シーズンは30試合で20ゴールを記録。リーグ優勝の立役者となった。81-82シーズンも36試合22ゴールと尻上がりに成績を伸ばし、もはやディビジョン・アンに収まらない選手へと成長する。
そんなプラティニには、国外名門クラブから熱視線が送られるようになった。アーセナルやインテルとの交渉がなされる中、最終的に彼が選んだのはユベントス。名将トラパットーニ監督率いるユベントスは、ディノ・ゾフ、ガエターノ・シレア、アントニオ・ガブリーニ、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシらイタリア代表を揃える、文字通りのスター軍団だった。
ユベントス移籍当初は慣れない環境とヘルニア苦しんだプラティニだが、間もなく10番としての能力を存分に発揮。1年目から30試合16ゴールの成績を残し、いきなりセリエA得点王。ユベントスの中心選手として豪華な攻撃陣をリードし、初のバロンドールに輝く。
82-83シーズンはリーグ2位。チャンピオンズ・カップでも準優勝に終わってしまうが、翌83-84シーズンは2年連続得点王(20ゴール)の活躍でチームをリーグ優勝に導き、欧州カップウイナーズ・カップ優勝にも貢献。バロンドールには2年連続で選ばれる。
カーレ・マジックの誕生
78年W杯後、プラティニは代表キャプテンを任され、“レ・ブルー” の10番も背負うこととなった。80年欧州選手権出場は逃してしまうが、同年10月から始まったW杯欧州予選では8試合5ゴールの活躍。天王山となった終盤のオランダ戦では見事なFKで先制点を決め、W杯出場決定の立役者となった。
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。1次リーグの初戦はイングランドに1-3の完敗を喫するも、第2戦はプラティニのゴールなどでクウェートに4-1の快勝。第3戦でチェコスロバキアと1-1で引き分け、グループ2位で2次リーグに進む。
2次リーグの初戦はプラティニが負傷で欠場するが、代わってアラン・ジレスとジャン・ティガナが攻守に活躍。ジャンジーニのFKでオーストリアに1-0と勝利する。
続く北アイルランド戦はプラティニが戦列復帰。この試合でイマジネーションとテクニックに長けたプラティニ、ジレス、ティガナ、ジャンジーニの4人が揃い、 “カーレ・マジック”(魔法陣)と呼ばれる華麗な中盤を形成。英国の小チームを4-1と圧倒した。
準決勝に進出したフランスは西ドイツと対戦。開始17分にリトバルスキーのゴールで先制されるも、26分にプラティニがPKを沈めて同点に追いつく。ゲームは1-1のまま延長戦に突入。その92分、98分とフランスに立て続けの得点が生まれ、2点をリード。勝負の女神は “レ・ブルー” に微笑んだかに思えた。
だがその102分、延長から投入されたルンメニゲのゴールで1点差に迫られる。さらに延長後半の108分は、フランスの足が止まったところを西ドイツFWフィッシャーがバイシクルシュートで同点弾。ゲームは振り出しに戻った。
こうして延長の120分を終え、勝負はW杯史上初のPK戦(スペイン大会から採用)へ。PK戦では西ドイツ守護神シューマッハに2本を止められ、フランスは歴史に残る死闘で敗れ去ってしまった。
このあとフランスは若手中心で3位決定戦に臨み、ポーランドに2-3と敗れて大会4位。それでもフランスの “カーレ・マジック” は、華麗なパスサッカーで「最も美しいチーム」と賞賛され、ブラジルの「クアトロ・オーメン・ジ・オロ(黄金の4人)」とともに世界を魅了した。
悲願の欧州選手権優勝
84年6月、母国フランスで欧州選手権が開幕。ジャンジーニに代わって若手のルイス・フェルナンデスが “カーレ・マジック” 加わり、守備が安定したフランスは優勝候補の筆頭に挙げられていた。
開幕のデンマーク戦では、89分にプラティニが決勝点を決め薄氷の勝利。続くベルギー戦は マイナーチェンジした “カーレ・マジック” が躍動、プラティニのハットトリックなどで5-0と圧勝した。第3戦では、プラティニが2試合連続のハットトリック。ユーゴスラビアに3-2と競り勝つ。
全勝でグループを勝ち上がったフランスは、準決勝でポルトガルと対戦。フランスはプラティニがダミーとなりドメルグが蹴ったFKで先制するも、終盤追いつかれて延長戦に突入する。その97分にはポルトガルの勝ち越し弾を許し、焦るフランスの反撃は空転。延長も後半に入り、残り時間5分と追い詰められてしまう。
その時プラティニが強引に前線を突破、左に流したボールをドメルグが蹴り込んで同点とした。さらに終了直前の119分、ティガナが深く切り込み折り返しのパス。それをプラティニが右足で合わせ、劇的な決勝弾を叩き込む。
決勝の相手はスペイン。前半を折り返した57分、プラティニの蹴ったFKは綺麗な放物線を描いて壁を越えると、GKアルコナーダのファンブルを誘い先制点となる。終了直前にも追加点を決めたフランスは、スペインの反撃を抑え2-0と快勝。初の欧州チャンピオンに輝いた。
プラティニは5試合すべてで9得点を記録する大活躍。得点王とMVPも獲得し、最高の勲章を得たフランスの将軍は、母国の英雄として称えられるようになった。
85年5月、ユベントスはチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。対戦相手は、熱狂的なフーリガンの存在で知られるリバプールだった。決勝の舞台となったベルギー・ブリュッセルの “ヘイゼル・スタジアム” は、試合前から異様な雰囲気に包まれていた。
開始1時間前、両チームサポーターの間に罵り合いが始まると、リバプールのフーリガンが暴徒となって間の柵をなぎ倒し、ユベントスの応援ゾーンになだれ込んできた。ここからスタンドは修羅場と化し、死亡者39名、負傷者400人以上の犠牲者を出す「ヘイゼルの悲劇」と呼ばれる大惨事が起きてしまう。
悲惨な現場を目にした選手たちはショックを受けるが、試合は強行され、プラティニがPKを決めてユベントスが1-0と勝利、初のチャンピオンズ・カップ制覇となった。しかし勝利の歓びは虚ろさでかき消され、プラティニは罪悪感から「人生最悪の試合」とインタビューに答える。そしてこの事件が、サッカーへの情熱を失っていくきっかけとなった。
同年には3年連続となるバロンドールを受賞。直後の12月、東京の国立競技場で行われたトヨタカップに出場する。アルゼンチンのアルヘンティノスをPK戦で打ち破り、ユベントスは世界一クラブの称号を獲得。この試合プラティニは鮮やかな美技でネットを揺らすが、オフサイド判定で幻のゴールとなっている。
しかしこのプレーは、ふてくされて寝そべる姿と共に語り継がれ、彼自身も「この時がピークだった」と振り返る事になる。この直後に左脚踵を痛めたプラティニは、もはやトップコンディションを保てなくなってしまう。
最後の大舞台
84年9月から始まったW杯欧州予選では、脚の故障に悩まされながらも、4ゴールを挙げて3大会連続出場決定に貢献する。
86年5月31日、Wカップ・メキシコ大会が開幕。欧州チャンピオンのフランスは、W杯の優勝候補と目された。だが初戦は初出場のカナダに苦戦して1-0の辛勝、第2戦はソ連と1-1で引き分ける。それでも第3戦でハンガリーに3-0と快勝し、グループ2位でベスト16に進む。
トーナメント1回戦では前大会王者のイタリアと対戦。開始15分にプラティニのロビングシュートで先制。後半57分にも、ティガナのクロスからFWストビラが追加点を挙げて2-0。公式大会におけるイアタリアとの対戦では、実に66年ぶりの勝利となる会心のゲームだった。
準々決勝の相手はブラジル。前半17分にカレカのゴールで先制を許すも、40分にプラティニがルーズボールを押し込んで同点。1-1で迎えた後半71分、劣勢となったブラジルは怪我でベンチに控えていたジーコを投入。その直後、ジーコのスルーパスからPKを与えてしまう。
キッカーを務めたのはジーコ。だがそのキックはGKバツの横っ飛びセーブで防ぎ、フランスは失点のピンチを逃れる。
試合は延長120分を戦っても決着がつかず、勝負の行方はPK戦へもつれ込む。ブラジルは1人目のソクラテスが失敗、3人目に蹴ったジーコはPKを成功させた。だがフランスも4人目のプラティニが外し、両チーム3-3で並ぶ。だがブラジルの5人目が失敗。最後はフェルナンデスがPKを沈め、フランスが準決勝へと勝ち上がる。
準決勝で戦ったのは、前大会の因縁が残る西ドイツ。しかしベテラン選手の多いフランスは連戦の疲れが溜まり、動きに精彩を欠いてしまう。頼みのプラティニもアキレス腱の痛みに苦しみ、西ドイツに0-2の完敗。W杯初制覇の悲願は果たせなかった。
このあと行なわれた3位決定戦では、プラティニらベテラン勢が欠場。JPパパンら若手主体のチームでベルギーに4-2の勝利を収める。
W杯終了後に現役引退を決意したプラティニだが、周囲に説得されもう1シーズンプレーを続けた。だが足の故障とモチベーションの低下による衰えは隠しようもなく、86-87シーズンは29試合2ゴールの成績。そのシーズン終了後、プラティニは32歳の若さで選手生活に別れを告げる。
フランス代表でも、87年4月に行なわれた欧州選手権予選・アイスランド戦が最後の試合となった。12年間の代表歴で72試合に出場、41ゴールの記録を残している。
引退後の88年、フランス代表監督に就任。92年の欧州選手権スウェーデン大会(予選Gで敗退)まで指揮を執った。その後フランスWカップ組織委員長、フランスサッカー連盟副会長、UEFAとFIFAの理事・部門委員長など要職を歴任する。
07年、UEFAの会長選に立候補。現職のレナート・ヨハンソンを破り、6代目UEFA会長およびFIFAの副会長に就任した。これらの実績により次期FIFA会長の最有力候補となったプラティニだが、15年に組織内の汚職事件が発覚。この事件に関与したとして、プラティニは活動停止の厳しい処分を受ける。
そして無役となった19年には、カタールW杯招致に関する不正疑惑で、警察による取り調べが行なわれたとの報道がなされる。だが22年7月にスイスの裁判所で無罪判決が下され、プラティニの潔白が証明されている。