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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ジャチント・ファケッティ(イタリア)

 

サイドバックのパイオニア

189㎝の長身で快足を飛ばし、大きなスライドで左サイドをダイナミックに攻め上がって、カウンター攻撃の一翼を担った。「グランデ・インテル」の “カテナチオ戦術” をキーマンとして支え、ネラッズーリの偉大なキャプテンと称された選手が、ジャチント・ファケッティ( Giacinto Facchetti )だ。

 

DFは守備をするだけだった60年代当時、高い運動能力を武器に相手からボールを奪うと、一気に攻撃参加。その俊足を生かして攻撃的サイドバックの先駆者となった。そして若い頃はFWだったというシュート力を生かして自らも得点を挙げ、DFとしては異例の生涯75ゴールを記録する。

 

イタリア代表としても10年以上レギュラーを続け、66年のWカップでは北朝鮮に屈辱の敗北を喫してしまったが、68年の欧州選手権優勝、70年のWカップ準優勝にはキャプテンとして大きな役割を果たし、「世界最高のレフトバック」としての評価を揺るぎないものにした。

 
カテナチオ戦術のキーマン

ファケッティは1942年7月18日、イタリア・ロンバルディア州ベルガモ県、トレビリオに生まれた。父親は鉄道会社勤務という平凡な家庭だったが、ジャチント少年は文武両道の学生として育つ。学業は医者を目指すほど優秀で、陸上競技では100mを11秒台で走るという高い運動能力を見せたという。

幼少の頃からボールに親しんだ彼は、14歳で地元のジュニアチームに入団。翌年にはCSトレビリエーゼに移ってその素質を伸ばしていった。その頃はFWとしてプレーし、持ち前のスピード、テクニック、パワフルなシュートでゴールを量産。ユース年代の得点王にも輝いている。

60年、その活躍が名門インテル・ミラノのエレニオ・エレラ監督に認められ、ファケッティネラッズーリインテルの愛称、青と黒の意)のユニフォームに袖を通すことになった。エレラ監督は彼の体格の良さ、スピード、タックル能力に目を付け、FWからDFへとコンバート。堅く守ってカウンターで打ち破る、“カテナチオ戦術” のキーマンに据えた。

60-61シーズンが終盤となった5月21日、18歳のファケッティはローマ戦でトップチームデビュー。デビュー戦の出来は決して良くなか、ファケッティは順調に頭角を現していく。

まだディフェンスの攻撃参加という概念がなかったこの時代、自陣左サイドに陣取るファケッティは、チームが攻撃に転じるとその俊足を生かして敵陣深くにに攻め込み、パスやクロスで得点をお膳立てするだけではなく、自らもシュートを狙っていった。

61-62シーズンにはルイス・スアレスサンドロ・マッツォーラ、タルチシオ・ブルニッチらが加入。エレラ監督のインテルは強力な陣容を整えていく。62-63シーズン、ファケッティは31試合に出場してレギュラーに定着、9シーズンぶりのリーグ優勝に貢献する。特にブルニッチと組む両サイドバックのコンビネーションは、インテルの大きな武器となった。

翌63-64シーズンにはチャンピオンズ・カップの決勝へ進出。ディ・ステファノ、プスカシュ、F・ヘントらを擁するレアル・マドリードをマッツォーラの2ゴールで3-1と下し、初の欧州チャンピオンに輝く。続く64-65シーズンも、エウゼビオを擁するベンフィカを1-0と破って大会2連覇を達成した。

64年と65年に出場したインターコンチネンタル・カップでも、2年連続で対戦した南米王者インデペンディエンテウルグアイ)を撃破。リーグ戦も64-65、65-66シーズンと連続で制し、偉業を成したチームは「グランデ・インテル」の名を冠せられるようになる。

強く、大きく、エレガント。勤勉で空中戦を得意とし、足元のスキルにも優れて状況判断も抜群。攻守に高い適応能力を見せたファケッティは、65年にはDFながらシーズン10得点を記録し、「史上最高のレフトバック」と高く評価され、同年のバロンドールではエウゼビオに続く2位となった。

 

北朝鮮戦の屈辱

イタリア代表には63年3月に選出。5月23日の欧州ネーションズカップ、トルコ戦で初キャップを刻んだ。66年、Wカップイングランド大会には24歳で出場。イタリアは決して本調子ではなかったが、1次リーグ初戦のチリ戦はマッツォーラらの得点で2-0と勝利を挙げた。

第2戦は名ゴールキーパーレフ・ヤシン擁するソ連と対戦。初戦で出来の悪かったジャンニ・リベラがメンバー落ち。ファケッティのオーバーラップも止められ、イタリアは苦戦。ソ連に0-1と敗れてしまう。そしてベスト8進出を懸けた最終節は、厚いベールに包まれた謎の国・北朝鮮との試合になった。

北朝鮮の俊敏な動きとスタミナは、動きの遅いイタリアDFのヤニックとグアルネリを翻弄。34分にはタックルを仕掛けたブルガレリが負傷退場し、一人少なくなったアズーリは劣勢に追い込まれてしまう。42分、リベラがボールを奪われイタリアは失点。試合は0-1と敗れて1次リーグ敗退を喫してしまった。

屈辱的な敗戦に怒った群衆を避けるため、早朝のジェノバ空港に降り立ったイタリアチームだったが、待ち構えていたファンから腐ったトマトなどが投げつけられた。このあとしばらく代表選手には、「コリア、コリア」の嘲りの言葉が浴びせられたという。

Wカップ大会後、ファケッティは24歳で代表キャプテンに就任。イタリアで開催された68年の欧州選手権(欧州ネーションズカップより改称)本大会に出場する。

準決勝のソ連戦は、延長120分を戦ってもスコアレスで決着がつかず、(当時はPK戦がなかったため)主審のコイントスで勝者が決められることになった。そしてそのコイントスを主将ファケッティが当て、イタリアが決勝へ進出する。

決勝の相手はユーゴスラビア。これまた延長を戦って1-1の引き分け、2日後に再試合となった。再試合では新鋭ルイジ・リーバが先制点を挙げ2-0の勝利。優勝カップアズーリのキャプテン、ファケッティの手に渡された。

 

評価されなかった準優勝

70年、Wカップ・メキシコ大会が開幕。イタリアは1リーグを1勝2分け。3試合を1得点の無失点という、堅実な戦い方でベスト8に勝ち上がった。準決勝では地元メキシコと対戦。開始13分で先制を許したイタリアだが、25分にオウンゴールで追いつくと、リベラとリーバが立て続けに追加点。4-1の快勝を収める。

準決勝は、前回準優勝国・西ドイツとの戦い。試合は史上稀に見る大激戦となった。開始8分、ボニンセーニャのゴールで先制。西ドイツの猛反撃をカテナチオの守りで抑え、このまま逃げ切るかに見えたイタリアだが、後半のロスタイムの93分、カール = ハインツ・シュネリンガーのゴールで追いつかれてしまう。

延長の前半に入った4分、ファケッティらDF陣がボールの処理を誤り、ゲルト・ミュラーに押し込まれて1-2と逆転される。だがその4分後にリベラのFKからブルニチが同点、さらに延長前半終了前にリベラが決めて再逆転した。それでも諦めない西ドイツは、延長後半の10分にミュラーのジャンピングヘッドで再び同点とする。

そのリスタートから、ボニンセーニャが深々と左サイドを破り折り返しのクロス。走り込んできたリベラが中央からグサリと突き刺した。脱臼で右肩に包帯を巻いたベッケンバウアーはただ見送るばかり、「アステカの死闘」と呼ばれた激戦の幕切れだった。

決勝ではペレ擁するブラジルと、両チーム3度目となるジュール・リメ杯獲得を争う。しかし絶好調ペレに先制のヘディングシュートを許し、ジャイルジーニョ、トスタン、リベリーノ、ジェルソンらブラジルの強力な攻撃陣にファケッティも防戦一方、1-4の完敗を喫してしまった。

帰国したイタリアは、W杯準優勝という好成績を収めたにもかかわらず、決勝戦の惨敗から前回同様に国民からの非難を受けるハメになった。このあとしばらく代表チームは、不振に陥ることになる。

 

インテルでの功績

72年の欧州選手権予選は、ベルギーに敗れて本大会出場を逃してしまう。そのあと74年のWカップ・西ドイツ大会に出場するも、1次リーグ初戦で弱小ハイチに連続無失点記録を止められる失態。第2戦でアルゼンチンと引き分けたあと、最終節で勢いに乗るポーランドと戦い、1-2と敗れて予選リーグ敗退となった。

このあとも代表でキャプテンマークを巻き続け、78年Wカップ大会の出場も目指したファケッティだが、76年頃から台頭してきた新鋭ガエターノ・シレアにそのポジションを奪われ、ベンチを温めることも多くなる。以降、怪我が続いたこともあり、77年12月のイングランド戦を最後にファケッティは代表を退くことになった。

14年間の代表歴で94キャップを記録、そのうち70試合でキャプテンを務めた。78年のWカップ・アルゼンチン大会では、ベアルツォット監督の要請を受けてアシスタントコーチとして参加、イタリアのベスト8入りに寄与している。

68年にエレニオ・エレラ監督がインテルを退団。「グランデ・インテル」を支えた中心選手たちも次々とチームを離れて行き、インテル・ミラノの黄金期は終わりを告げた。それでもファケッティインテル一筋でプレーし、77-78シーズンのコッパ・イタリア優勝を置き土産に、36歳で現役を引退した。

18シーズンを過ごしたインテルでは、公式戦629試合に出場して75ゴールを記録。偉大なキャプテンはプレーの質の高さだけではなく、フェアプレイ精神と強いリーダシップでも知られた。生涯で退場になったのはただ一度、主審の間違ったジャッジに皮肉の拍手を贈った時だけだったと伝えられている。

引退後はインテルのゼネラルマネージャー、スポーツディレクター、副会長を歴任。インテルの重鎮としてクラブを支え続け、04年には会長に就任する。そして05年に末に起こったカルチョポリ騒動でも、ユベントスミランが厳しい処分を受ける中、その高潔さでインテルの名誉を守った。

しかしこの頃から病魔に蝕まれ、在職中の06年9月4日に惜しまれながら肝臓癌で死去。享年64歳だった。インテルファケッティの多大な功績を称え、彼の背番号3を永久欠番としている。