「ネラッズーロのおじさん」
強靱な肉体を持ち、空中戦にも強く、守備のポジションならどこでもこなした。ハードマークで鳴らすストッパーとして知られながら、スイーパーとしても高い適性を見せ、攻撃の起点にもなった万能型ディフェンダーが、ジュゼッペ・ベルゴミ( Giuseppe Bergomi )だ。
キャリアのすべてをインテル・ミラノで過ごし、「ミスター・インテル」と称されたネラッズーロ最後のバンディエラ。寡黙ながら、高いプロ意識と規律正しさでチームを牽引し「沈黙のリーダー」と呼ばれた。
82年Wカップ・スペイン大会の大舞台に18歳の若さで登場。ブラジルのソクラテス、ポーランドのラトー、西ドイツのルンメニゲといった点取り屋たちをハードマークで押さえ、イタリアの優勝に貢献している。
ベルゴミは1963年12月22日、イタリア北部の大都市ミラノで生まれた。早くから地元のジュニアチームでサッカーを始め、11歳の時には上のカテゴリーでプレーするほど大きな身体になっていた。
主にフルバックやリベロのポジションを務めていたが、途中から攻撃に加わることも多く、守備の選手ながら多くのゴールも挙げている。
13歳のとき、憧れていたACミランのセレクションに参加。プレーそのものは文句なしだったが、血液検査でリウマチの原因となるものが検出されたとして、不合格になってしまう。
だがベルゴミの名は地元で知られており、77年にインテル・ミラノのセレクションに招かれて参加。今度は血液検査でも問題なしとされ、14歳でネラッズーロのユニフォームに袖を通すことになった。
入団当時からベルゴミは大柄で老け顔。しかもその頃から口髭を生やしていたため、対戦相手からはユースの選手と信じてもらえず、試合のたびに身分証明書を見せなければならなかったという。
16歳のときユース代表に選ばれ、優勝した国際大会での活躍を認められてインテルのトップチームに引き上げられる。79年、コッパ・イタリア準々決勝のユベントス戦でプロデビュー。この年のリーグ戦出場はなかったが、翌81年2月のコモ戦でセリエAデビューを果たす。
81-82シーズンはリーグ戦24試合に出場して2ゴールを記録。コッパ・イタリアでもレギュラーとして活躍し、優勝に貢献している。
若くしてトップチームに定着したベルゴミだが、「お前本当に17歳か? 俺のおじさんみたいな顔をしているのに」とMFのマリーニに言われたことから、「ツィオ(おじさん)」のあだ名で呼ばれるようになった。
イタリアA代表には82年4月に18歳で初招集、14日の東ドイツ戦で途中出場のデビューを果たす。代表のベアルゾット監督は、まだセリエAの実績は浅いものの、将来性のあるベルゴミをW杯メンバーに加える。
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。GKゾフ、シレア、ジェンティーレ、カブリーニ、コロバティで構成する守備陣は鉄壁。若いベルゴミに出番はなかったが、準決勝進出を懸けた2次リーグのブラジル戦でついにチャンスが訪れる。
イタリアがパオロ・ロッシのゴールで2-1とリードした前半の33分、FWセルジーニョをマークしていたコロバティが負傷退場。ベンチには当時22歳のフランコ・バレージも控えていたが、ベアルゾット監督は対人守備に強いベルゴミを投入する。
後半の68分にファルカンのゴールで追いつかれるが、74分にロッシのハットトリックで再びリード。ブラジルの反撃をカテナチオの堅い守りで跳ね返し、激戦を制したイタリアが3-2の勝利。準決勝進出を決める。
初出場ながら、ベルゴミは素晴らしい働きで勝利に貢献。負傷したコロバティの代役を勤め上げ、70分にはセルジーニョを交代に追いやった。ゲーム終了後、声を掛けてきたソクラテスとはユニフォーム交換を行っている。
準決勝のポーランド戦、ジェンティーレが累積警告で出場停止。代わりにベルゴミが先発で起用されることになった。ベルゴミはラトーを抑えるという役割を見事に果たし、ロッシの2得点で2-0の完封勝利。イタリアは3大会ぶりの決勝へ進む。
決勝の相手は西ドイツ。先発に復帰したジェンティーレは好調リトバルスキーをマーク、ベルゴミにはルンメニゲへのマークが命ぜられた。
決勝はロッシのゴールでイタリアが先制。故障を抱えていたルンメニゲはベルゴミの徹底マークを受けて何も出来ず、65分に交代となった。68分にはシレア、ロッシ、ベルゴミのパス交換からタルデリが追加点。終始試合をリードしたイタリアは3-1と勝利し、44年ぶりの優勝を果たす。
優勝杯を掲げたキャプテンのゾフは、「18歳とは思えない。パーフェクトだった」とベルゴミのプレーを讃えた。
アズーリのキャプテン
このあとアズーリは主力の引退と高齢化で低迷、84年の欧州選手権は予選敗退で本大会出場を逃している。86年のWカップ・メキシコ大会は、前回優勝国として予選免除で出場する。
調子の上がらないままブリガリアとアルゼンチンに1-1で引き分け。ベルゴミが欠場した韓国戦に3-2と辛勝して、なんとかグループ2位で決勝Tに勝ち上がる。
トーナメント1回戦の相手は優勝候補のフランス。開始15分にプラティニのゴールで先制されると、57分にもストピラの追加点を許し0-2の完敗。イタリアが公式戦でフランスに負けたのは、実に60年ぶりのことだった。こうして前回王者のイタリアは、いいとろこなく大会を去って行った。
大会終了後、ベアルゾットは10年勤めた代表監督を辞任。後任のヴィチーニ監督は世代交代を推し進めていく。88年にはブロック予選を突破して欧州選手権(西ドイツ開催)の本大会に出場。守備陣には唯一ベルゴミが残り、F・バレージ、リカルド・フェッリ、パオロ・マルディーニ、GKワルテル・ゼンガと新しい顔ぶれに替わっていた。
G/Lの初戦は地元西ドイツと1-1で引き分け、続くスペイン戦は1-0の勝利。最終節のデンマーク戦は2-0の快勝を収め、イタリアは準々決勝に進む。ベルゴミはキャプテンとしてチームを牽引するだけでなく、2アシストを決めて予選突破に貢献している。
準々決勝は、知将ロバノフスキー監督率いるソ連との戦い。前半はベルゴミらイタリアのDFが相手の攻撃を抑えるが、後半はソ連のスピード豊かな「トータル・サッカー」に押され気味となり、58分、62分と立て続けに失点、0-2の敗戦を喫してしまった。
大会ベスト4に終わってしまったイタリアだが、その内容は決して悪くはなく、2年後に迫った自国開催大会のWカップに期待を抱かせるものだった。
9シーズンぶりのスクデット獲得
セリエAでは毎年のように上位につけながら、当時最強のユベントスに阻まれ、79-80シーズン以来リーグタイトルから遠ざかっていたインテル。86-87シーズンにユベントスの黄金期を築いたトラッパトーニ監督を招聘し、スクデット獲得を目指した。
88-89シーズンにはバイエルン・ミュンヘンのマテウスとブレーメ、そしてアルゼンチン選手のラモン・ディアスを獲得。攻守に陣容を整えたインテルは、リーグ戦34試合で26勝2敗6分けと圧倒的な強さを見せ、9シーズンぶりのリーグ優勝を果たす。ベルゴミら代表級を揃えたインテル守備陣が許した失点は、僅か19点だった。
翌89-89シーズンにはユルゲン・クリンスマンが加入し、「ドイツ・トライアングル」が形成される。90年代黄金期の到来が期待されたが、好調は続かず、トラッパトーニ解任後にインテルの迷走が始まった。
90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。主将のベルゴミ、リベロのバレージを中とした鉄壁の守備陣は、G/L3試合を無失点。攻撃陣にスキラッチという救世主も現れ、開催国イタリアは全勝でベスト16に進んだ。
トーナメント1回戦はウルグアイに2-0と完勝、そのうちの1点はベルゴミの深いクロスから生まれたものだった。準々決勝のアイルランド戦はスキラッチの1点を守り切って準決勝に勝ち上がり、前回王者アルゼンチンとの戦いを迎える。
前半17分にスキラッチのゴールで先制。だが後半の67分にカニージャのヘディングシュートで今大会初失点。同点に追いつかれてしまう。延長でも決着はつかず勝負はPK戦にもつれたが、アルゼンチンの守護神ゴイゴエチェアがスーパーセーブを連発。イタリアは敗退となってしまった。
3位決定戦は、スキラッチとバッジオのゴールでイングランドに2-1の勝利。決勝進出を逃し失意のイタリアだが、どうにか最低限の義務を果たした。
91年には、欧州選手権のグループ予選に出場したベルゴミ。6月のノルウェー戦でキャリア初のレッドカードを受けて退場処分。試合は1-2で敗れてしまい、イタリアは欧州選手権・本大会の出場を逃すことになった。
このあとアリゴ・サッキが代表監督に就任すると、構想から外れたベルゴミはアズーリに呼ばれなくなってしまう。
最後の大舞台
91-92シーズンにはUEFAカップ優勝。翌92年には、インテルを退団したジュゼッペ・バレージ(F・バレージの兄)からベルゴミがキャプテンの座を引き継ぐが、チームは最盛期にあったACミランの牙城を崩せず、短期間で次々に監督が交代するという迷走期に入っていく。
それでも93-94シーズンはUEFAカップを2度目の制覇。怪物ロナウドやサモラノ、レコバ、ジョルカエフという強力な攻撃陣を擁した97-98シーズンは、あと一歩のところまでスクデットに迫りながら、ユベントスとの直接対決に敗れてリーグ2位となる。
98年5月のUEFAカップ決勝では、同国対決となったラツィオ戦を制して3度目の優勝。決勝戦は負傷欠場となってしまったベルゴミだが、優勝に貢献したキャプテンとしてトロフィーを掲げた。
シーズン終了後、ベルゴミは代表監督チェーザレ・マルディーニによって、98年のWカップメンバーに選ばれる。この時ベルゴミは34歳。一発退場となった91年のノルウェー戦以来7年ぶりの復帰という、驚きの選出だった。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。イタリアは初戦のチリ戦を1-1で引き分け、第2戦はカメルーンに3-0と圧勝。最終節でオーストリアと戦う。
その開始4分、CBのネスタが悪質なタックルを受け負傷退場。急遽ベルゴミが代役を務めることになった。0-0で迎えた後半の49分、デル・ピエロのFKからヴィエリが先制のヘディングシュート。89分には途中出場したバッジオが追加点を決める。
直後の90分にはコスタクルタのファールでPKの1点を返されるが、2-1と勝利したイタリアがグループ1位でベスト16に勝ち上がった。8年ぶりにWカップのピッチへ戻ったベルゴミは、貫禄のプレーで勝利に貢献した。
トーナメント1回戦は、戦線離脱したネスタに代わり先発出場。難敵ノルウェーを見事に完封し、ヴィエリの得点で準決勝に進む。
準々決勝は、ホスト国フランスとの戦い。司令塔ジダンの操るフランスの攻撃陣を、ベルゴミ、カンナバーロを中心としたイタリア守備陣が堅守で防ぎ、試合は延長120分を終わっても0-0のままだった。
しかしイタリアはまたもPK戦の前に涙を飲み、準々決勝敗退。ベルゴミにとってこれが代表最後の試合となった。
Wカップで始まったベルゴミの代表歴はWカップで終わり、ブランクを除く9年間で81試合に出場、6ゴールを挙げている。
98-99シーズン、インテルはタイトル無冠、リーグ戦も8位と低迷する。翌99-00シーズンにマルチェロ・リッピが新監督に就任すると、ベルゴミは戦力外通告を受けてインテルを退団。そのまま35歳で現役を引退した。
インテル一筋の20年で公式戦756試合に出場。これはハビエル・サネッティに抜かれるまで(858試合)クラブ歴代1位の記録だった。得点はディフェンダーながら28ゴールを記録している。
引退後はサッカーのコーチとなり、インテルのユースチームなどを指導。また衛星放送局「スカイ・イタリア」のコメンテーターとしても活躍し、イタリアが優勝した06年W杯ドイツ大会では解説者を務めている。