「北の巨人」
2m近い高さと頑強な巨体を活かしたポストプレーを武器とし、空中戦に絶対的な強さを見せるだけでなく、正確な技術も備えたCF。ゴール前にそびえるターゲットマンとして相手に脅威を与え続けてきた「北の巨人」が、トーレ・アンドレ・フロー( Tore André Flo )だ。
キック&ラッシュを基本戦術とするノルウェー代表で長くワントップを張り、98年W杯・フランス大会では同国初の1次リーグ突破に貢献。持ち前の高さと屈強さで王者ブラジルを苦しめ、殊勲の金星を奪った。
キャリアのピークを過ごしたチェルシーでは、FAカップ優勝とUEFAカップウィナーズカップ優勝に貢献。その後ケガに悩まされながらも幾多のクラブでプレーし、長い現役生活を送っている。
T・A・フローは1973年6月15日、ノルウェー西部ソグン・オ・フィヨーラネ郡のストレン地区フロー村で生まれた。少年時代は地元の総合スポーツクラブ、ストレン・ティルでスキー、クロスカントリー、陸上競技のハイジャンプなど様々なスポーツに親しみながら、サッカーにも熱中した。
そのあとソグナル・フットボルの下部組織に入団。20歳となった93年にはクラブとプロ契約を結ぶ。ちなみにフロー家の兄弟、ケル・ルーン、ヨースタイン、ジャール、そして従兄弟のホーヴァルと、一族の多くがサッカー選手の道に進み、甥のウルリック(ケル・ルーンの息子)、親戚のペル・エギル(ホーヴァルの甥)もサッカー選手となった。
93年シーズンは1ディヴィジョン(2部リーグ)で22試合に出場して16ゴールを記録、エリテセリエン(1部リーグ)昇格に貢献する。94年4月のトロムソIL戦でトップリーグデビュー。しかし弱小チームにあってT・A・フローは充分な力を出せず、クラブは1年で降格してしまう。
翌95年シーズンにはトロムソILへ移籍、ここでリーグ戦18ゴールを挙げてチーム得点王となる。その活躍が認められて、96年シーズンには名門SKブランへの移籍を果たした。
ブランでの1年目は、公式戦28試合23ゴールの活躍でリーグ2位とカップウィナーズカップ準々決勝進出に貢献。23歳のT・A・フローは国内最高のストライカーと認められるようになった。
97年にはチェルシー監督、ルート・フリットからのオファーを受け、シーズン途中ながらプレミアリーグへの移籍を合意。T・A・フローはブランでの最後の試合でハットトリックを決め、英国へ旅立っていった。
U-21代表では28試合で15ゴールを挙げてエースとなり、95年10月の親善試合・イングランド戦でフル代表デビュー。翌11月のトリニダート・トバゴ戦で代表初ゴールを記録する。
97年3月、親善試合のサウジアラビア戦でハットトリックを決め、エースの座を確立。前年から始まったW杯欧州予選では、マンチェスター・ユナイテッドで活躍する同い年のスールシャールとともに攻撃の核となり、3ゴールを挙げて2大会連続出場に貢献。ホームのフィンランド戦では、兄ヨースタインとのアベックゴールを記録している。
頑丈な男たちが強固な守備網を形成し、放り込みと攻め上がりを繰り返す「キック&ラッシュ」がノルウェー伝統のプレースタイル。90年から代表を率いるエギル・オルセン監督は、その伝統スタイルに「連動して守り、連動して攻める」組織戦術を導入し、ホームでは6年間負けなしという堅牢なチームを作り上げる。
ターゲットマンとして献身的に働き、フィニッシャーとしても優れていたT・A・フローは、そんなノルウェー代表のCFにうってつけの人材だった。
その力を見せつけたのが、97年8月にノルウェー国内で行われたブラジルとの親善試合。相手ゴール前に待ち構えたT・A・フローが、空中高く上がったクロスをヘッドで捉えて2得点。南米の王国を4-2と下した。
ブラジルの卓越した技巧や創造性も、「北の巨人」の高さの前にはお手上げ状態。勝利の立役者となったT・A・フローには「フロナウド」(ブラジル、ロナウドの名をもじったもの)のあだ名がつけられた。そのあとフランスとの親善試合でも2得点を叩き出し、さらに注目される存在となる。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。T・A・フローは兄のヨースタイン、従兄弟のホーヴァルとともに初めての大舞台へ臨んだ。G/Lの初戦はアフリカの技巧集団、モロッコと2-2の引き分け。続く第2戦でスコットランドと対戦する。
屈強さと堅守を誇る似た者同士の戦いは、後半開始直後の46分にホーヴァルのヘッドでノルウェーが先制。追いかけるスコットランドは、66分に長い縦パスへ走り込んだバーリーがボレーの浮き球シュート。同点とされてしまった。
このあとノルウェーは、トップのT・A・フローにボールを当てて得点を狙うが、試合は1-1で終了。2戦連続で引き分けたノルウェーは、初のG/L勝ち抜けに最終節での勝利が必要となった。
グループ突破を懸けた第3戦は、前大会王者ブラジルとの対戦。2連勝のブラジルはすでに決勝トーナメント進出を決めていたが、ロナウドら主力を温存することなく、ほぼベストと言えるメンバーを組んできた。
引いて構えるノルウェーは、コンパクトな守備でブラジルの攻撃を止めての速攻。その繰り返しで得点機を狙った。しかし終盤に入った78分、デニウソンのパスからベベットに頭で決められ、ブラジルに先制を許す。
敗退の瀬戸際に立たされたノルウェーは、失点直後に193㎝のヨースタインを投入。長身の兄弟を前線に揃えて反撃を開始する。すると執拗なまでのパワープレーに、ブラジル守備陣の綻びが見え始めた。
その83分、DFバイアーノとの空中戦を制したT・A・フローが同点ゴール。さらに終了直前の88分、ハイボールに反応したT・A・フローが、DFゴンサウベスにシャツを引っ張られてPKを獲得。これを経験豊富なレクダルが確実に沈め、ついに逆転勝利を収めた。
ノルウェーはこの奇跡の逆転劇によりグループ2位を確保。悲願の決勝トーナメント進出を成し遂げた。ちなみにノルウェーはブラジルに対し、国際Aマッチ4戦2勝2分けといまだに負けなしである。
トーナメント1回戦の相手はイタリア。開始18分、ディビアッジョの縦パスに抜け出したヴィエリがDFを振り切りゴール、イタリアが先制する。このあと守備を固めたアズーリたちは危険回避のボール回しに終始し、ノルウェーに攻撃の機会を与えなかった。
試合は終盤に入り、ノルウェーは得意のパワープレーを開始。カンナバーロの密着マークに動きを抑えられていたT・A・フローだが、71分に一瞬の隙を突いてヘディングシュート。しかしこれはイタリア守護神、パリウカのスーパーセーブに防がれる。
このまま試合は0-1のまま終了、ノルウェーはイタリアの老獪な試合運びの前に敗れてしまった。
チェルシーに移籍した97-98シーズン、8月9日のコベントリー・シティー戦でプレミアデビュー。試合は2-3と敗れたが、T・A・フローは途中出場から得意のヘッドでデビューゴールを記録した。
イタリアのヴィアリ、ディ・マティオ、ゾラなど各国代表級選手を揃えるチームで、T・A・フローの出番を危ぶむ声もあったが、その破壊力でFW陣の一角に食い込み公式戦44試合に出場。シーズン15ゴールの活躍を見せた。
チェルシーはリーグ4位に終わったものの、リーグカップとUEFAカップウィナーズカップで優勝。カップウィナーズカップ準々決勝のベティス戦では、T・A・フローがアウェーの第1レグで2ゴールを記録。優勝に大きな役割を果たしている。
98-99シーズンはラツィオから移籍してきたカシラギに先発の座を奪われるも、試合途中の出場で公式戦13ゴールを挙げ、チャンピオンズリーグ出場権が得られるリーグ3位に寄与する。
翌99-00シーズンはヴィアリ監督の信頼を得て出場機会を増やし、公式戦57試合出場で19ゴールを決め、チームのトップスコアラーとなる。クラブはFAカップで優勝するほか、初出場を果たしたチャンピオンズリーグではベスト8に入った。
T・A・フローはチャンピオンズリーグで8得点を記録し、ベスト8入りに大きく貢献。準々決勝でバルセロナに敗れてしまったものの、ホームの第1レグでは2得点を挙げて勝利の立役者となっている。
98年9月から始まったユーロ予選では、10試合で5得点を挙げてノルウェーの本大会初出場に貢献する。ユーロ2000本大会(オランダ/ベルギー共催)の初戦では、優勝候補スペインを相手に1-0と殊勲の勝利。しかし第2戦で新ユーゴスラビア(実質セルビア・モンテネグロ代表)に0-1と敗れ、第3戦は伏兵スロベニアと0-0の引き分け。
スペインに続く実力を持つと思われていたノルウェーだが、T・A・フロー、スールシャール、ヨン・カリューら攻撃陣の不発で3位に沈み、G/L敗退となってしまった。このあとノルウェーは低迷期に入り、現在までW杯とユーロ大会への出場を果たしていない。
01年にはサッカー協会と対立し代表を外されるが、その後和解し03年のフィンランド戦で代表復帰。さっそくカムバックのゴールを決めた。
04年には家族との時間を優先することを理由に、代表からの引退を表明。8月のベルギー戦を最後に31歳でナショナルチームを退いた。10年間の代表歴で76試合に出場、23ゴールを記録している。
チェルシーで再びベンチ要員となったT・A・フローは、00-01シーズン途中に出番を求めてスコットランドのレンジャーズへ移籍。伝統のオールド・ファーム(セルティックとのダービーマッチ)で初出場を果たし、デビューゴールを挙げて5-1の勝利に貢献する。
翌01-02シーズンは公式戦46試合25ゴールの大活躍、チームにスコティッシュカップ優勝とリーグカップ優勝の2冠をもたらす。しかし02-03シーズンにクラブは財政難に陥り、T・A・フローはプレミアリーグのサンダーランドに売却された。
サンダーランドでは出場機会に恵まれず不遇を味わうが、03年に移籍したセリエAのシエナで復活。エンリコ・キエーザを助けるセカンド・ストライカーの役割を果たし、昇格したばかりのシエナのセリエA残留に寄与する。
だがこの頃から怪我に悩まされるようになり、05年には故郷ノルウェーのヴォレレンガへ移籍。リーズ・ユナイテッド(当時イングランド2部)でプレーしていた08年3月に現役引退を表明する。だが8ヶ月後にはそれを撤回し、イングランド2部のMKドンズと1年契約。09年5月にフリーとなった。
2年後の11年3月、再び現役復帰し古巣のソグナルと契約。22試合で2ゴールを挙げ、12年8月に39歳で現役を引退する。
引退後はチェルシー・ユースのコーチを務めるかたわら、イングランドにサッカーアカデミーを開設して少年・少女たちの指導に当たっている。