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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》 デ コ(ポルトガル)

 

「熟達のゲームメーカー」

一瞬にして前線のスペースを見つけ出し、精度の高いラストパスでチャンスを創出。豊富な運動量と巧みなポジショニングで守備にも高い能力を見せ、ボールを奪いとるや卓越した技術とアイデアで攻撃を組み立てたゲームメーカーが、デコ( Deco / Anderson Luis de Souza )だ。

 

若くしてブラジルからポルトガルへ渡り、モウリーニョ監督率いるFCポルトで才能を開花。02-03シーズンはUEFAカップ、翌03-04シーズンはチャンピオンズリーグ優勝を勝ち取り、その名を世界に知らしめた。

 

04年に移籍したバルセロナでも、シャビ、ロナウジーニョらと素晴らしいコンビネーションを披露。チーム戦術の核となってリーグ優勝とCL優勝に貢献する。03年には帰化してポルトガル代表入り、ユーロ04とW杯ドイツ大会で活躍した。

 
小さな体のサッカー少年

デコことアンデルソン・ルイス・デ・ソウザは1977年8月27日、ブラジルのサンパウロ都市圏にあるサンベルナルド・ド・カンポで、インド系移民を先祖に持つ家庭に生まれた。

幼い頃は名前(Anderson)を縮めた「De」と呼ばれていたが、少し長じて「Cuzinho(ちびすけ)」のあだ名が付けられ、やがてこの二つを合わせた「Decuzinho(デクジーニョ)」の愛称を持つようになった。さらにこれが省略され「Deco」の通称が定着することになる。

子供のときからプロを目指して地元クラブでプレー。テクニックと敏捷さでは秀でたものがあったが、小さい体がハンディとなりベンチを温める日々。やむなくサッカーを諦めて、15歳のときにフットサルへ転向した。

フットサルでは彼の特徴が活かされ大活躍、僅かながら収入も得るようになった。そのあと背が伸びたこともあり、17歳のときナショナル・サンパウロに誘われ、再び11人制のサッカーを始める。

19歳となった96年には地元の名門、コリンチャンスとプロ契約。だがコリンチャンスでは出場機会を得られず、97年にCSアラゴアノへ移籍する。しかし線の細さという弱点を抱え、アラゴアノでも陽の当たらない毎日を過ごした。

それでもサンパウロ・ジュニア選手権(U-20の大会)でのプレーが、視察に訪れていたベンフィカ・リスボン関係者の目に止まり、将来性を買われてポルトガルの名門クラブにスカウトされる。こうしてデコは20歳を目前に、欧州挑戦というビッグチャンスを掴んだ。

 

サッカー人生の転機

97年の夏にベンフィカへ移籍するものの、フィジカル重視の監督からは無視され、1試合も出場することなく2部リーグのアルベルカにレンタル移籍となった。

97-98シーズン、アルベルガでは32試合12ゴールの好成績を残し、チームの1部リーグ昇格へ貢献する。こうしてベンフィカに呼び戻されたデコだが、すぐにポルト市にあるSCサルゲイロスの右ウィンガーとトレード。またも不遇の時期を過ごすことになる。

サルゲイロスでは怪我に悩まされ、98-99シーズンの後半まで12試合2ゴールと低迷。だがその中でもキラリと光る彼の才能を高く評価したのが、当時リーグ5連覇の最強クラブ、FCポルトの指揮官を務めていたフェルナンド・サントス監督だった。

シーズンが終盤に差し掛かった99年3月、サントス監督に見込まれてポルトへ移籍。するとデコには専任のフィジカルトレーナーが付けられ、徹底的な肉体改善が行なわれた。

地道なトレーニングにより丈夫な体を身につけたデコは、99-00シーズンの開幕からレギュラーとして活躍。チームの司令塔を担いリーグ優勝は逃したものの、99-00シーズンのポルトガルカップ優勝とスーパーカップ優勝に貢献する。

 

モウリーニョ戦術の中核

その後もデコは着実に成長を遂げ、01-02シーズンは13ゴールを挙げてチームのトップスコアラーとなった。

だがこの年のポルトは成績不振に喘ぎ、サントス監督の後任を務めたマチャド監督はシーズン途中での解任。そして02年1月に指揮官としてポルトへやってきたのが、新進気鋭の監督、ジョゼ・モウリーニョだった。

モウリーニョは監督就任会見で「来季は優勝してみせる」と強気の宣言。01-02シーズンの後半戦を11勝2分け2敗の好成績で乗り切り、中位に低迷していたポルトを3位にまで押し上げ、UEFAカップ(現EL)出場権を得た。

02-03シーズンは開幕から21連勝の快進撃を続け、4季ぶりのリーグ制覇と2季ぶりの国内カップ優勝を達成。UEFAカップでもホームの試合で絶対的な強さを見せ、決勝へ進出する。

決勝のセルティック戦は白熱のシーソーゲームとなったが、延長戦を制して3-2の勝利。大会初優勝で3冠達成の偉業を成した。デコはトップ下として攻撃をリードするだけではなく、豊富な運動量で縦横無尽の働き。モウリーニョ戦術の中核を担った。

翌03-04シーズンもリーグを2連覇。ポルトガル王者として臨んだチャンピオンズリーグは、グループステージをレアル・マドリードに続く2位で突破した。

 

決勝ラウンドの1回戦では、プレミア最強のマンチェスター・ユナイテッドと対戦。ホームでの第1レグは、積極的なプレッシングとデコを中心とした攻撃で2-1の勝利。シュート数でも21対4と内容で圧倒した。

敵地での第2レグは終盤までリードを許し、アウェーゴールの差で敗退の危機を迎えるが、終了間際の90分にMFコスティーニャが起死回生の同点弾。劇的結末でポルトは準々決勝に進んだ。

準々決勝は、フランス覇者のオリンピック・リヨンを2戦合計4-2で退けてベスト4へ進出。ここまで前年王者のACミラン、準優勝のユベントス、「銀河系軍団」のレアル・マドリードといったビッグクラブが次々に敗退し、残ったチームはFCポルトデポルティーボ・ラ・コルーニャASモナコチェルシーFCという新鮮な顔ぶれとなった。

準決勝はスペインの名将、ハビエル・イルレタが監督を務めるデポルティーボと対戦。知将同士の神経戦となったが、主導権を握り続けたポルトが2戦合計で1-0の勝利。ついに決勝へ勝ち上がった。

勝の相手は、ディディエ・デシャン監督率いるフランスのモナコ。前半23分、裏への飛び出しでDFに脅威を与えていたモナコFWのジュリが負傷交代。ここからポルトの流れとなり、39分にカルロス・アルベルトのゴールで先制する。

後半の71分にはデコが追加点。75分にもアレニチェフのダメ押し点が決まり3-0の完勝、ポルトは86-87シーズン以来2度目のチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げた。デコは安定したゲームメークで再三の好機を創出、決勝戦のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれている。

 

ポルトガル代表の一員

02年にポルトガル国籍を取得。翌03年3月、ブラジル人監督フェリペ・スコラーリに招集されポルトガル代表入りを果たす。母国ブラジルとの親善試合で代表デビュー、後半60分に途中出場してFKによる決勝点を決めた。対ブラジル戦では実に37年ぶりの勝利だった。

だが、ポルトガルにルーツを持たないデコの代表招集は国内に波紋を呼び、特に中心選手のルイス・フィーゴは「ポルトガル国歌は覚えられても、ポルトガル国民の精神は学べない。彼の加入は代表の結束を妨げる」と不快感を示した。

それでもデコは「ポルトガルを愛してる」と訴え、ポルトでもリーグ連覇やCL優勝などの実績を残したことから、彼への批判は収まっていく。

04年6月、ポルトガル代表として自国開催のユーロ大会に出場。初戦はベンチスタートとなり、後半開始から新鋭クリスティアーノ・ロナウドとともに大会初登場を果たした。しかし大事な初戦で格下ギリシャに1-2の敗戦を喫し、地元ポルトガルは痛恨の黒星発進となってしまった。

第2戦は不調のルイ・コスタに代わり先発出場。開始7分、デコのパスからマニシュが先制点、本領を発揮したポルトガルはロシアに2-0の勝利を収めた。続く第3戦は強敵スペインを1-0と下し、無事グループを1位突破する。

準々決勝ではイングランドとの戦いを激闘の末PK戦で制し、勢いに乗った準決勝では難敵オランダを2-1と撃破。とうとう決勝へたどり着いた。この準決勝ではデコとフィーゴが抱き合う姿も見かけられ、チームは一体となった。

決勝は、G/L初戦で苦杯を味わった伏兵ギリシャと再び対戦。前半ポルトガルは堅く守る相手を攻めあぐね無得点、後半57分にギリシャ得意のCKから先制点を許してしまう。

結局ギリシャに0-1と敗れ、ポルトガルは初のビッグタイトルを逃してしまうが、チームの躍進を支えたデコは代表に不可欠な存在となった。

 

バルセロナでの活躍

04年の夏、モウリーニョ監督はロシアの大富豪アブラモヴィッチに招かれ、大きな実績を引っさげてチェルシーの新監督に就任。中心選手のデコも、CBコンビのリカルド・カルバーリョパウロ・フェレイラとともにチェルシーへ移る予定だったが、契約寸前で翻意。憧れのバルセロナに誘われ急転直下の移籍をする。

04-05シーズン、ライカールト監督に率いられたバルサは近年になく快調な出足。開幕から危なげなく勝ち星を重ね独走状態に入り、6季ぶり17度目のリーグ優勝を果たす。

中盤左に入ったデコは、右サイドのシャビと連携してゲームメーク。ロナウジーニョをサポートし攻撃を活性化しながら、ファールを誘うプレーなど守備での汚れ役も厭わなかった。こうしてデコは優勝の立役者として高く評価され、この年のバロンドールではミランシェフチェンコに続く2位となった。

翌05-06シーズンもリーグを2連覇。チャンピオンズリーグでは圧倒的な強さでグループステージを勝ち上がり、決勝ラウンドの1回戦では前年と同じ組み合わせとなったチェルシーと対戦する。

敵地での第1レグは新星リオネル・メッシの活躍で2つのアウェーゴールを奪い、ホームでの第2レグを余裕の引き分けで勝ち上がり。1年前の戦いで敗れた雪辱を果たした。

準々決勝でベンフィカを下し、準決勝では優勝候補のACミランと対戦。ホームでの第1レグは、メッシ、シャビ、デコの主力3人を欠き苦しい戦いとなったが、ロナウジーニョの芸術的パスからジュリが得点を決めて1-0の勝利。デコが戻ったアウェーでの第2レグを0-0と引き分けて決勝へ進んだ。

 

2度目の栄冠

決勝の相手はアーセナル。開始18分、Pエリア直前でエトーを倒したGKレーマンが一発退場。早くも優位に立ったバルサだが、37分にFKからアーセナルの先制点を許してしまう。

そのあとバルサが猛攻をかけながらも、相手の粘り強い守りに手を焼き続けた終盤の76分、ラーションからのパスを受けたエトーが同点ゴール。さらにその4分後、ラーションのクロスを途中出場のベレッチが決めて逆転する。

こうして2-1と勝利したバルセロナが12年ぶり2度目のCL制覇。デコも自身2回目となるビッグイアーを手にした。

同年12月には日本で行なわれたクラブ・ワールドカップに出場。ブラジルのインテルナシオナルに敗れて優勝はならなかったが、デコはMVPに当たるゴールデンボール賞を受賞している。

 

ドイツワールドカップ

06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。初戦はアンゴラに1-0と勝利するが、デコの負傷欠場が影響したのかポルトガルの攻撃には粗が目立ち、格下相手に最少得点しか挙げられなかった。

次のイラン戦にはデコが復帰。前半は専守防衛の相手に手こずったが、後半の63分にデコの強烈なミドルシュートが決まり先制。80分にはC・ロナウドのPKでリードを広げて2-0の快勝、早くもグループ突破を決めた。

最終節は主力を温存しながらもメキシコに2-1の勝利。トーナメント1回戦の相手はオランダと対戦する。ゲームはイエロー16枚、レッド4枚のカードが乱れ飛ぶ荒れた展開となり、デコも後半78分に遅延行為で2枚の警告を受けて退場。ポルトガルは前半23分の先制点を守って準々決勝へ進む。

準々決勝は優勝候補イングランドPK戦で制して準決勝へ進出。準決勝のフランス戦では、デコら出場停止の解けた主力が戦線に復帰する。

前半33分、ジダンのPKでフランスが先制。ポルトガルの反撃はレ・ブルーの堅い守備に阻まれ、司令塔デコもヴィエラの徹底マークに動きを封じられてしまった。このままフランスの逃げ切りを許し0-1の敗戦。ポルトガルはベスト4で大会を去ることになった。

08年6月には2度目のユーロ大会(オーストリア /スイス共催)に出場。デコはG/L第2戦のチェコ戦でゴールを挙げてベスト8進出に貢献するが、準々決勝でドイツに2-3と敗れ次に進めなかった。

 

負傷に苦しんだキャリアの後半生

バルセロナでは4シーズンを過ごしたが、08年5月に就任しグアルディオラ監督より戦力外通告を告げられて退団。08-09シーズンからチェルシーの監督に就任したスコラーリ監督に呼ばれ、活躍の舞台をプレミアリーグに移すことになった。

移籍したチェルシーでは、公式戦30試合に出場してFAカップ制覇に貢献。しかしスコラーリ監督が途中解任となり、デコも主力の座を外されることになった。

09-10シーズン、アンチェロッティ新監督のもとチェルシーはリーグ優勝とFAカップ優勝の2冠を達成。だがデコは怪我に苦しんだこともあり、出場機会が減少していく。シーズン終了後にはチェルシーを退団。10年8月にブラジルのフルミネンセと契約を交わす。

10年にはWカップ南アフリカ大会のメンバーに選ばれたが、初戦コートジボワールの試合で65分に負傷交代。結局これ以降デコの出番はなく、ポルトガルは決勝トーナメント1回戦でスペインに敗れ姿を消した。大会終了後デコはポルトガル代表を引退、代表8年間で75試合に出場し5ゴールの記録を残す。

4シーズンを過ごしたフルミネンセでは2度のブラジレイラン(全国選手権)優勝に貢献し、36歳の誕生日を目前にした13年8月26日に現役引退を発表。17年間のプロ生活に幕を閉じた。引退後は “第2の故郷” と語るポルト市に居を構え、事務所を設立して代理人業を営んでいる。