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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》トマス・ブローリン(スウェーデン)

 

「 小さなバイキング 」 

シャープな動きで相手守備をかき乱し、素早いシュート体勢からゴールネットを揺らした攻撃の選手。スウェーデン人としては小柄だが、俊敏なドリブルとパワーを活かした突進力でチャンスを創出。その雄姿により「小さなバイキング」と呼ばれたのが、トマス・ブローリン( Per Tomas Brolin )だ。

 

右手拳を突き上げての、跳躍一回転ひねりによるゴールパフォーマンスが有名。90年W杯を直前にして彗星のように現れ、本大会では全敗を喫したG/Lでひとり気を吐く。ユーロ92では準決勝進出に貢献、94年W杯でも大会ベスト3に大きな役割を果たし、スウェーデンの躍進を支えた。

 

6シーズン在籍したイタリアのパルマでも攻撃の主力として活躍。セリエA初昇格間もないチームをコッパ・イタリア優勝、カップウィナーズ・カップ優勝、UEFAスーパーカップ優勝に導くも、度重なる怪我に苦しみ30歳を前に引退に追い込まれた。

 

スカンジナビアの次世代ホープ

ブローリンは1969年11月29日、バルト海ボスニア湾に面するイェヴレボリ県のフディスクバルに生まれた。

6歳で地元クラブのナスウィッケンIKに入団してサッカーを始め、12歳の時にジュニアチームのゲームで1試合15ゴールを記録。天賦の才能を発揮して注目された。

14歳でトップチーム昇格。ディヴィジョン4(6部リーグ相当)で3年間プレーし、17歳となった87年にはアルスヴェンスカン(スウェーデン1部リーグ)昇格を果たしたばかりのGIFスンツヴァルへ移籍する。

移籍2年目の88年には21試合6ゴールの成績でレギュラーの座を獲得、クラブの過去最高成績となる1部リーグ5位に貢献する。しかし翌89年、不振にあえいだスンツヴァルはスーペルエッタン(2部リーグ)降格。次世代ホープと目されていたブローリンは、アルスヴェンスカン王者のIFKノーショーピングに引き抜かれる。

90年シーズン、国内屈指の強豪IFKヨーテボリとの開幕戦でハットトリックを記録。6-0の歴史的大勝の立役者となった。のちにトレードマークとなった一回転ゴールパフォーマンスを披露したのは、この試合からだとされている。

 

新星現る

3大会ぶりとなるW杯出場を決めていたスウェーデン代表は、大会本番を2ヶ月後に控えた90年4月に20歳のブローリンを初招集する。

代表デビュー戦となった25日の強化マッチ、ウェールズ戦でブローリンはいきなり2ゴールを決め、続く5月のフィンランド戦でも2得点を記録。日の出の勢いで代表レギュラーを獲得し、W杯メンバーに選ばれた。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/Lの初戦は優勝候補ブラジルと対戦する。カレカの2得点で劣勢となるスウェーデンだが、79分にブローリンが見事な切り返しでDFを置き去り、1点差に迫るゴールを決めた。

しかしブローリンの奮闘虚しく初戦を1-2と落とし、続くスコットランド戦も1-2の敗北。最終節のコスタリカ戦にわずかな望みを残すも、前半に先制しながら、ブローリンが負傷交代した終盤に失点を喫して1-2の逆転負け。

3連敗での敗退は国民の期待を裏切る結果となったが、ブローリンはブラジル戦のゴールで脚光を浴び、スウェーデン年間最優秀選手賞に選ばれる。

 

パルマ移籍

W杯後、新星ブローリンには欧州クラブからの注目が集まり、最も好条件を提示してきたイタリアのパルマACと契約。当時パルマは、クラブ創設77年目にしてセリエA初昇格を果たした新参チームだったが、新しくオーナー企業となったパルマラットの支援を受け、有望選手をスカウトしてのチーム力強化を進めていた。

90-91シーズン、2トップを組んだアレッサンドロ・メッリと息の合ったコンビでさっそく活躍。33試合7ゴールの成績を残し、昇格1年目のパルマをいきなりリーグ5位の好成績に押し上げた。

翌91-92シーズン、リーグ成績は6位に留まったものの、コッパ・イタリア決勝では強豪ユベントスを下して初優勝。ブローリンは大会8試合2ゴールと、クラブの初タイトル獲得に貢献する。

 

小さなバイキング

92年6月には自国開催のユーロ92に出場。開幕戦となったG/L初戦はフランスと1-1の引き分け、続く第2戦はブローリンがゴールを決め、北欧のライバルであるデンマークを1-0と下す。

最終節は優勝候補の一角に挙げられていたイングランドとの対戦。開始4分にリネカーからのクロスをデヴィッド・プラットに合わされ失点。しかし後半51分にCKのチャンスからエリクセンのヘッドで同点とする。

そして終盤に入った82分、鋭いドリブルでDFをかわしたブローリンがワンツーでゴール前へ切り込み、勢いのまま決勝ゴール。最終節を2-1と勝利したスウェーデンが、フランス、イングランドの2強を敗退に追いやりグループ1位で準決勝に進んだ。

準決勝は90年W杯チャンピオンのドイツと対戦。2点をリードされた後半の64分、ブローリンの反撃を告げるゴールで1点差。奮戦叶わず試合は2-3と敗れたが、スウェーデンは過去最高成績となるユーロ・ベスト4入り。3得点を挙げ「小さなバイキング」と称えられたブローリンは、大会屈指の輝きを見せた。

92年7月にはバルセロナ・オリンピックに出場。スウェーデンはG/Lを1位で勝ち上がるも、準々決勝でオーストラリアに1-2と敗れてメダル獲得はならなかった。ブローリンはG/Lのモロッコ戦で1得点を挙げている。

 

「ミラクル・パルマ」の快進撃

92-93シーズンにコロンビア代表のFWアスプリージャが入団。外国人選手枠(3つ)の制限でベンチを温める時期を過ごすも、カップウィナーズ・カップの決勝に先発出場して2つ目のタイトル獲得に貢献する。

93-94シーズンにイタリア代表のゾラが加入すると、ブローリンは中盤のポジションで起用されるようになり、プレーメーカーの役割を担った。

この起用が当たり、ブローリンはフリーマンの働きでトップの繋ぎ役として活躍。チャンスがあれば積極的にシュートを狙った。また時にはゾラがゲームメークを担い、ブローリンは得意のドリブルでサイドを突破。ポジションを替えたことでさらに彼の持ち味が活かされ、再び輝きを見せた。

カップウィナーズ・カップは決勝でアーセナルに敗れて連覇を逃すも、欧州スーパーカップでCL優勝のACミランを1-0と下して初優勝。1部リーグ昇格間もない新参クラブの快進撃は、「ミラクル・パルマ」と呼ばれた。

 

ワールドカップの活躍

ブローリン、ダーリン、ケネス・アンディション、ラーションと攻撃のコマを揃えたスウェーデンは、W杯欧州予選を1位突破。2大会連続の出場となる94年Wカップアメリカ大会に臨んだ。

G/Lの第1戦はカメルーンと対戦。1-2とリードされた終盤の75分、ブローリンが同点ゴールを決めて初戦を引き分けに持ち込む。

続く第2戦はブローリンのPKとダーリンの2得点でロシアに3-1の勝利。ロシアの1点を挙げたサレンコは、次のナイジェリア戦で5得点を記録してG/L敗退にもかかわらず大会得点王(ストイチコフと並ぶ6ゴール)に輝いている。

最終節のブラジル戦は、ブローリンのクロスをK・アンディションが決めて先制。しかし後半ロマーリオの得点を許して惜しくも1-1と引き分ける。スウェーデンは前大会の雪辱を果たせなかったが、優勝候補を相手に善戦を見せ、自国開催の58年大会以来となる決勝トーナメント進出を決めた。

トーナメントの1回戦は、ダーリンの先制点とK・アンディションの2ゴールでサウジアラビアを3-1と撃破。準々決勝では、アルゼンチンを破って勢いに乗るルーマニアと対戦する。

両チーム無得点のまま進んだ終盤の78分、FKのトリックプレーからDF裏に抜け出したブローリンが先制弾。しかし勝利を目前とした88分、ハジのシュートのこぼれ球に詰めたラドチョウが同点ゴール。試合は延長へ突入した。

延長前半の101分、K・アンディションのミスからラドチョウの勝ち越し弾を許し、さらにシュバルツの退場で1人少なくなるというピンチ。だが敗色濃厚となった延長後半の115分に、アンディションが失敗を取り返す同点ゴール。このあとスウェーデンPK戦を制し、準決勝へ進出した。

準決勝は再びブラジルとまみえるも、またもやロマーリオのゴールを浴びて0-1の敗戦。36年ぶりの決勝を逃し、ブルガリアとの3位決定戦を戦った。

3位決定戦はブローリンの独り舞台、縦横無尽の働きでブルガリアDFを撹乱した。開始7分に先制のヘディングゴールを決めると、30分にはブローリンのFKから追加点。37分にも新鋭ラーションのゴールをスルーパスでアシストし、40分にはK・アンディションがダメ押し点。

前半だけで4-0と勝負を決めたスウェーデンが、58年自国開催大会の準優勝に続くベスト3の好成績を残した。チームの攻撃を牽引したブローリンは大会ベストイレブンに選ばれ、2度目のスウェーデン年間最優秀選手賞にも輝く。

 

キャリアの暗転

24歳でトッププレーヤーとなったブローリンにはビッグクラブへの移籍も噂されたが、94-95シーズンはパルマ残留を選択。サポーターからの期待に応えて攻撃をリードし、開幕9試合でパルマはリーグのトップに立った。

しかし好事魔多し、11月のユーロ予選・ホームのハンガリー戦で足首を骨折。長期の離脱を強いられる重傷となり、ここからブローリンの失速が始まる。

翌95年4月にリーグ復帰するも、もはや半年前までの輝きは失われていた。この時点でパルマは首位ユベントスに大きく差を付けられおり、結局3位で終了。それでもチームはUEFAカップ(現EL)決勝でユベントスを2戦合計で2-1と破り、一矢を報いるが、その試合にブローリンの姿はなかった。

95-96シーズンが始まってもコンディションは戻らず、ディノ・バッジョにポジションを奪われたこともあり完全に出番は失われた。そのためシーズン途中の11月には、活躍の場を求めてプレミアのリーズ・ユナイテッドへ移籍する。

代表には95年5月のユーロ予選・アイスランド戦で復帰を果たし、PKで得点を記録するが、スウェーデンは予選グループ3位に留まりユーロ96出場を逃す。このあとブローリンはナショナルチームに呼ばれる呼ばれることなく、25歳で代表のキャリアを終えた。6年間の代表歴で47試合に出場、27ゴールの記録を残している。

 

早すぎる引退

リーズではW杯の活躍もありブローリンの人気は高かったが、太りやすい体質と怪我の後遺症に苦しみ、かつてのようなキレやスピードは見られなかった。シーズン終盤には怠慢プレーと練習不参加を非難され、首脳陣と衝突。わずか4ゴールと期待を裏切る成績しか残せず、翌シーズンはスイスのFCチューリッヒへ、ローンで放出されることになる。

96-97シーズン、50万ポンドのレンタル費用を自ら負担して古巣のパルマへ復帰。しかしアンチェロッティ監督からチャンスを与えられることなく、1年後にはやむなくレンタル元のリーズへ出戻り。だがそこにブローリンの居場所はなかった。

97年11月には、2週間のテストを受けてクリスタルパレスと契約。しかしブローリンの太りすぎは一目瞭然。その動きは重く、半年間の在籍でノーゴール。2部降格となったクリスタルパレスは契約を解除。彼を受け入れるクラブも無く、98年5月に28歳で現役を引退する。

このあと故郷のスウェーデンに戻り、兄弟が所属するアマチュアクラブでGKとして1試合だけプレー。後半15分からの出場で無得点に抑えている。

引退後はサッカー界から離れ、レストラン経営や不動産業、また家電部品メーカーへの投資など、実業家として活動中である。