「ブラジルの怒れる男」
精力的な働きで中盤を制し、ボールを奪ってからの正確な配球で攻撃の起点にもなったボランチ。派手さはないが、安定感抜群のプレーでチームに落ち着きをもたらした。また熱いキャプテンシーで仲間を鼓舞し、檄を飛ばしてゲームを引き締めたブラジルの闘将が、ドゥンガ( Dunga / Carlos Caetano Bledorn Verri )だ。
90年のイタリアW杯では、アルゼンチン戦で敗退を喫した責任を負わされ、ブラジル国民からの批判を浴びた。リベンジを誓った4年後のアメリカW杯では、不調で先発を外れたライーに代わって大会途中からキャプテンを務め、盟友ロマーリオとともにブラジルを24年ぶり4回目の優勝に導く。
ブラジルの名門クラブでプレーしたあと、イタリアのフィオレンティーナやドイツのシュツットガルトで活躍。95年にはジュビロ磐田に入団し、MVPの活躍でJリーグ初優勝に大きく貢献。持ち前の闘志と容赦ない叱咤で日本人選手を成長させ、ジュビロ黄金期の礎を築く。引退後はブラジル代表の監督を務めた。
“ドゥンガ” の名の由来
ドゥンガことカルロス・カエターノ・ブレドルン・ヴェーリは1963年10月31日、ブラジル南部の港町リオ・グランデ・ド・スル州イジェイで、イタリア系の父とドイツ系の母の間に生まれた。
呼び名の「ドゥンガ」は、グリム童話『白雪姫』に登場する “七人のこびと” の1人「ドーピー」(ポルトガル語でドゥンガ)からつけられたもの。「ドーピー」は “七人のこびと” の中でただひとりヒゲがなく、見た目も振る舞いも子供っぽい愛されキャラクター。幼児期のドゥンガのあどけなさに、叔父がこの名で呼んだのがきっかけとなった。
ストリートサッカーで技を磨いたドゥンガは、呼び名に反してたくましく成長。セレクションを受けてリオ・グランデ・ド・スル州の名門、インテルナシオナルの下部組織に入団する。
しばらく寮住まいの訓練期間を送ったあと、17歳でクラブとプロ契約。ここでリオ・グランデ・ド・スル州選手権4連覇を経験するも、ドゥンガがボランチとして頭角を現すのは、84年にサンパウロの名門コリンチャンスへ移籍してからである。ちなみにインテルナシオナル時代には、キリンカップ出場のため来日している。
ブラジル時代のキャリアと欧州挑戦
コリンチャンスでは、「黄金のカルテット」の一角として知られたソクラテスとともにプレー。イタリアのフィオレンティーナがソクラテスを引き抜いた際、若手有望株のドゥンガも目を付けられたが、このときは時期尚早として獲得を見送られている。
86年には、コリンチャンスのライバルであるサントスFCに移籍。サントスでは当時19歳だった三浦知良のプロデビュー戦に立ち会い、後に日本の ”キング” となる男をこっぴどく叱りつけて萎縮させている。
コリンチャンスに移籍したばかりのドゥンガは、まだフル代表経験のない若手選手に過ぎなかったが、現役代表クラスやベテラン選手に対しても遠慮なく罵声を浴びせるなど、早くも闘将としての姿を見せていたという。
87年にはリオ・デ・ジャネイロの名門、ヴァスコ・ダ・ガマへ移籍。ここでユース時代からの知り合いであるロマーリオとチームメイトとなり、友情を結ぶ。ドゥンガは超問題児とされたロマーリオの数少ない理解者だった。
ヴァスコ・ダ・ガマではリオ・デ・ジャネイロ州選手権優勝に貢献。着実に実績を重ねたドゥンガは、87年夏にセリエAに昇格したばかりのACピサへ移籍。念願の欧州挑戦となった。
ピサでは23試合に出場し、チームの「歴代最高選手」に選ばれるなど、セリエAでもボランチとしての実力を証明。こうして翌88年の夏には、4年越しのオファーを受けてフィオレンティーナへの移籍を果す。
フル代表へのステップアップ
83年にメキシコで開催された世界ユース選手権(現U-20ワールドカップ)では、ブラジルユース代表のキャプテンとして出場。チームには3歳下のロマーリオや1歳下のベベトーもいた。
オランダなど難敵の揃ったG/Lを1位で勝ち抜き、準々決勝はドゥンガの先制点などでチェコスロバキアに4-1と圧勝。準決勝は韓国を2-1と下し、決勝に進む。
そしてアステカスタジアムに11万人の観客を集めた決勝戦では、宿敵アルゼンチンをジオバンニの得点で1-0と破り、ブラジルが初優勝を果す。これがドゥンガ最初の国際タイトルとなった。
84年7月にはロサンゼルス五輪に出場。ブラジルはG/Lを全勝して順調にファイナルへ勝ち進むも、決勝でフランスに0-2と敗れて銀メダル。ドゥンガはG/Lで2ゴールを記録している。
アンダー代表でキャリアを積んだドゥンガは、87年5月にロンドンで行なわれた親善試合、イングランド戦で途中出場を果し、フル代表デビュー。6月の親善試合イスラエル戦で初ゴールを記録する。
89年7月には自国開催のコパ・アメリカに出場。ドゥンガはロマーリオ、ベベトー、ジオバンニ、ビスマルクらの攻撃陣をボランチとして支え、6試合すべてに出場してブラジル40年ぶり4度目の優勝に貢献した。
屈辱のアルゼンチン戦
フィオレンティーナでも主力としてチームを引っ張り、移籍2年目の89-90シーズンはUEFAカップ(現EL)決勝進出に貢献。決勝ではユベントスに0-1と敗れて準優勝に終わるが、11試合4失点の堅守構築に中心的役割を果した。
90年6月、Wカップ・イタリア大会に出場。ブラジルはFWカレカやミューレルの活躍でG/Lを3戦全勝で突破し、順当にベスト16へ進んだ。
トーナメント1回戦では、南米のライバルであるアルゼンチンと対戦。前回王者のアルゼンチンは、G/L初戦でカメルーンに金星を献上するなど本調子ではなく、頼みのマラドーナも麻酔注射を打ちながらの出場という満身創痍の状態。戦前の下馬評ではブラジルが圧倒していた。
その予想通り、試合の主導権を握ったのはブラジル。ジョルジーニョ、ブランコのSBが両サイドをえぐり、ミューレル、カレカ、アレモンらの攻撃陣が次々とアルゼンチンゴールに襲いかかっていく。
しかしカレカ、ミューレルのシュートは守護神ゴイゴエチアの好守に防がれ、アレモンの弾丸ミドルはバーを直撃。ドゥンガのヘディングもポストに阻まれるなど最後の砦が破れない。一方的な展開に持ち込みながら、得点を決められないままゲームは終盤戦を迎えた。
80分、ここまでブラジルのマークに封じられていたマラドーナが、突然自陣からドリブルを開始。ブラジルDFを引きつけ左で併走するカニーヒアをフリーにすると、追いすがるドゥンガを軽く振り切って必殺のスルーパス。ゴール前で1対1となったカニーヒアがGKタファレルをかわし、アルゼンチンの決勝点が生まれた。
ブラジルは終始ゲームを支配しながら、天才児のひらめきに屈して0-1の敗戦。マラドーナの決勝アシストを許してしまったドゥンガは、守備的戦術で結果を出せなかったラザローニ監督とともに批判の対象となってしまった。
国民やメディアからは「しょせん “ドゥンガ”(ドーピーはまぬけキャラでもある)だ」と嘲笑され、退屈なラザローニ戦術の象徴的存在として誹謗中傷の的となる。そしてW杯後は代表にも呼ばれなくなり、屈辱を晴らせないまま雌伏の期間を強いられることになった。
フィオレンティーナでは4シーズン在籍し、92年夏にはセリエAに昇格したばかりのデルフィーノ・ペスカーラへ移籍。クラブ幹部と衝突しての放出処分だった。
92-93シーズン、弱小クラブのペスカーラは1年でセリエBへ降格。ドゥンガはVfBシュトゥットガルトからのオファーを受け、93年の夏にはドイツ・ブンデスリーガへ活躍の舞台を移す。
93年にはアルベルト・ペレイラ監督に呼ばれ、約3年ぶりに代表復帰。6月にエクアドルで開催されたコパ・アメリカに出場する。しかしロマーリオなど決定力のあるFWを欠いたブラジルは、準々決勝でアルゼンチンに敗れて大会を去った。
翌7月にはW杯南米予選が開始。しかし調子の上がらないブラジルは、史上初めてボリビアに敗れるなど前半戦を大苦戦。バルセロナで活躍するロマーリオを使わないペレイラ監督に批判が集まった。
実は以前、親善試合でのサブ扱いに怒ったロマーリオが代表招集を拒否。これ以降ペレイラ監督も、あえてトラブルメーカーの彼を代表に呼ぼうとしなかったのだ。
ブラジルは予選後半でどうにか盛り返し、W杯出場はホームのマラカナン・スタジアムで行なわれるウルグアイとの最終戦に懸かることになった。
しかしこの大事な最終戦を前にミューレルが負傷し、窮したペレイラ監督はついにロマーリオを招集。代表に復帰したロマーリオはウルグアイ戦で2ゴールの活躍、ブラジルは2-0の勝利でW杯15大会連続出場を決める。
それでもペレイラはチームの規律を乱しかねない悪童のW杯メンバー選出をためらうが、ここでドゥンガが「世界一を目指すにはロマーリオが不可欠だ。宿舎で同部屋にしてくれれば俺がケアする」と監督に直談判。ドゥンガは盟友との連帯で4年前の雪辱を期すことになった。
ドゥンガの叫び
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。G/Lではロマーリオが3試合連続ゴールと期待通りの活躍。2勝1分けのブラジルは、7得点1失点という安定した内容で順当にグループを1位突破。ドゥンガはボランチコンビを組むマウロ・シルバと共にチームのバランスを取り、セレソンの堅実な戦いを支えた。
しかし主将でゲームメーカーのライー(ソクラテスの弟)がコンディション不調。トーナメント最初のアメリカ戦では、先発を外れたライーに代わりドゥンガがキャプテンマークを巻いた。
前半はブラジルが主導権を握るも、43分に右エルボーで相手選手を負傷させたレオナルドが一発レッド。後半1人少ない戦いを強いられるブラジルだが、72分に中央をドリブル突破したロマーリオのパスからベベトーの決勝ゴールが生まれ、1-0の辛勝を収める。
準々決勝はオランダと対戦。ロマーリオとベベトーのゴールで2点をリードするが、オランダの反撃に遭い終盤に追いつかれてしまう。それでも81分、出場停止処分となったレオナルドに代わって起用されたベテランのブランコが、低い弾道のFKをゴール右隅に叩き込んで勝ち越し点。激戦を制したブラジルが準決勝に勝ち上がった。
準決勝の相手はスウェーデン。ボールを支配し優位にゲームを進めるブラジルだが、相手の屈強なディフェンスとGKラベリの好守に阻まれ、再三の好機を逃し続ける。
しかし63分にスウェーデンの主将ヨナス・テルンが、ドゥンガへの激しいファールで退場処分。これで攻勢を強めたブラジルは、80分にジョルジーニョの折り返しからロマーリオがヘディングゴール。ブラジルの決勝進出が決まった。
ローズボールで行なわれた決勝戦は、ともにW杯4度目の制覇を狙うイタリアとの戦い。ロマーリオ、ベベトーの2トップは、バレージ、マルディーニを中心にしたイタリアの堅守に封じられてしまうが、ドゥンガも厳しいマークでロベルト・バッジオに決定的な仕事をさせなかった。
炎天下で行なわれた決勝は膠着状態となり、延長120分を終わっても0-0。優勝の行方はPK戦に持ち込まれた。PK戦はそれぞれ1人目が失敗。イタリア4人目のマッサーロをタファレルが止めると、ブラジル4人目のドゥンガがゴール真ん中に叩き込んで王手をかける。そしてイタリア5人目のR・バッジオがボールを吹かしてしまい、勝負は決着。ブラジルが24年ぶりの優勝を果した。
キャプテンとして優勝杯を受け取ったドゥンガは、トロフィーを高く掲げて「俺たちはチャンピオンだ!思い知ったかクソ野郎!」と絶叫。長年の鬱憤を晴らした瞬間だった。
ジュビロ磐田での功績
シュトゥットガルトでは、クラブ初の外国人キャプテンとして活躍。そしてこことの2年契約を終え、95年7月には熱心な誘いを受けてジュビロ磐田と契約。新興Jリーグの発展を助けるという使命に、新たな目標を見いだしての日本行きだった。
当時のジュビロにはエース中山のほか、名波、藤田、福西、服部、奥、高原らの有望株が在籍。チームの鬼軍曹と化したドゥンガは、選手の怠慢プレーを見かけるや声を張り上げ厳しく指摘。時には首根っこを押さえつけてまで、やるべきプレーの手本を示した。
そのコワモテの一方、グラウンドを離れるとフランクな素顔を見せ、チームメイトを自宅パーティーに招いてもてなした。また日本文化に親しむほか、クラブや町のイベントに家族とともに積極的に参加。地元との交流を楽しんでいる。
こうしてドゥンガに感化された選手たちは急速に力を伸ばしてゆき、97年にはJリーグ初優勝。チームに果した高い功績から、ドゥンガはリーグMVPとベストイレブンに選出される。
98年のシーズンを最後に磐田を退団するが、ドゥンガの薫陶を受けた選手たちは、その後のジュビロの黄金期を築いていった。
フランス戦の敗北
97年のコパ・アメリカ(ボリビア開催)で優勝を果したあと、98年6月のWカップ・フランス大会に出場。だが盟友のロマーリオは大会直前に怪我を理由に落とされ、G/Lのモロッコ戦ではベベトーと怒鳴り合うなど、求心力は低下していた。
それでもロナウドやリバウドなどの活躍で2大会連続の決勝に進出。決勝戦は地元フランスとの対決になった。だが試合当日に発作を起こしたロナウドが、強行出場するという事態に浮き足だつブラジル。前半の27分にCKからジダンのヘディングシュートを許してしまい、先制点を奪われる。
さらに前半終了直前にも、再びジダンがCKから頭で追加点。このときジダンと競ったのはドゥンガだったが、あえなく吹き飛ばされてしまい失点を防げなかった。
後半終了直前にもプティにダメ押し点を決められて0-3の完敗。まとまりを欠いたブラジルに勝利の女神が微笑むことはなかった。
99年にはプロキャリアを始めたインテルナシオナルへ戻り、シーズン途中に36歳で現役を引退。代表では空白期間も多く、実質8年の活動歴で91試合に出場、6ゴールの記録を残した。
闘将監督の誕生
引退後は04年までジュビロ磐田のチームアドバイザーを務め、06年7月にはペレイラの後任としてブラジル代表監督に就任。ドゥンガはクラブでの指導経験もなく、まったく白紙の状態での監督就任だった。
07年にはベネズエラ開催のコパ・アメリカに臨み、決勝進出を果す。決勝では宿敵アルゼンチンを3-0と圧倒して2大会連続優勝、監督としての手腕を証明した。
07年10月にはW杯南米予選が開始。08年からアルゼンチン代表監督に就任したマラドーナとの対決が注目されたが、ブラジルの1位突破に対しアルゼンチンは4位。直接対決でも1勝1分けとリードし、軍配はドゥンガに上がった。また09年のコンフェデレーションズカップでも優勝を果している。
だが優勝候補として臨んだ10年W杯・南アフリカ大会では、準々決勝のオランダ戦で1-2の逆転負けを喫してあえなく敗退。スター選手を排除するなどドゥンガの堅実なチームづくりは国民に不評で、あっさり監督解任となってしまった。
14年7月には再び代表監督に任命されるも、ロシアW杯・南米予選で不振に陥り、16年6月に2度目の解任。フリーの身となった現在は、次のオファーに備えながら貧困家庭を支援する慈善活動を行なっている。