「褐色の先駆者」
驚異的なスピードと高度なテクニックを備え、攻守にわたってポテンシャルの高さを見せたウルグアイの黒人スター選手。ライトハーフとして守備を担いながら、正確なパスとドリブルで攻撃にも貢献。観客を魅了するプレーで「ラ・マラビジャ・ネグラ(黒い真珠)」と呼ばれたのが、ホセ・アンドラーデ( José Leandro Andrade )だ。
首都の小クラブ、ベジャ・ビスタでキャリアをスタートさせ、すぐに強豪ナシオナル・モンテビデオに引き抜き。自在のドリブルで敵陣をジグザグに進む姿から「イーオ(糸)」の異名をとった。その活躍でウルグアイ代表選手にも選ばれ、2度の南米選手権優勝に主力として貢献。ウルグアイの黄金期を築く。
24年パリ五輪と28年アムステルダム五輪連覇にも大きく貢献。当時珍しい存在だった黒人選手の華麗なプレーはヨーロッパの人々の注目を集め、大人気を博した。一時代表を退くも、自国開催となった第1回W杯(30年)出場のため復帰。ウルグアイ優勝の原動力となり、黒人スター選手の先駆者としてその名を残した。
アンドラーデは1901年10月1日(11月22日とする記録もあり)、アルゼンチンとの国境に近いウルグアイ第2の都市、サルトで生まれた。アフリカ生まれの祖父は奴隷としてブラジルに連れてこられ、ウルグアイに逃れて自由の身になったと言われる。
私生児だったアンドラーデは幼い時に叔母を頼って、首都モンテビデオのパレルモ地区に移住。最貧困層の家庭で育ったためほとんど学校に通うことなく、新聞販売員、靴磨き、カーニバル演奏者など様々な仕事で日銭を稼いだ。また歌やタンゴが得意で、カンドンベ(民族舞踊)の名手としても鳴らし、軽やかに踊る黒人少年を人々は「カーニバル・キング」と呼んだ。
カーニバルや音楽と平行して、小さい頃からストリートサッカーに熱中していたアンドラーデは、10代でミシオネスという小さなクラブから選手生活をスタート。ここでずば抜けた能力を発揮し、たちまち頭角を現す。
21年にはモンテビデオのベジャ・ビスタでプレー。ここで親しくなったのが、のちに世界最強ウルグアイ代表を束ねる主将として「エル・マリスカル(元帥)」と呼ばれることになるホセ・ナサシである。アンドラーデはベジャ・ビスタでの活躍が認められ、22年には名門クラブのナシオナル・モンテビデオと契約。この年のウルグアイ選手権制覇に貢献する。
23年にはウルグアイ代表に選ばれ、“ラ・セレステ(空色)” のユニフォームに袖を通し、6月24日のアルゼンチン戦でデビュー。23年に地元で開催された南米選手権の優勝メンバーにもなった。
南米選手権を制したウルグアイは、大陸王者として24年のパリ五輪に初参加(南米チームとしても初)することになり、アンドラーデは世界デビューを果す。
サッカーはオリンピックの中でも注目競技のひとつ。パリに集まった観客の誰もが欧州勢の優勝を予想したが、大会が始まると状況は一変した。アウトサイダーと思われたウルグイが、高いテクニックとコンビネーションプレーで快進撃を続け、世界に一大センセーションを巻き起したのだ。
1回戦でユーゴスラビアを7-0と一蹴し、続く2回戦もアメリカを3-0と相手にしなかった。準々決勝で地元フランスを5-1と粉砕すると、準決勝はオランダを2-1と退けた。
守備の選手であるアンドラーデに得点こそなかったが、巧みなボール使いと柔軟なドリブルで相手をかわし、次々と味方のチャンスをお膳立て。その華麗なステップは得意のタンゴで磨かれたものだった。現地のスポーツ紙を「まるでサラブレッドのようだ」と感嘆させた彼のプレーは、初めて黒人選手を目の当たりにした観客にカルチャー・ショックを与えることになった。
コロンブス・スタジアムで行われた決勝では、スイスに3-0と快勝。集まった5万5千の観客は総立ちになり、魅力的なサッカーで勝利したウルグアイに「ブラボー!」と喝采を送った。初めて金メダルを手にした選手たちは右手を上げ、大きな歓声に応えながら場内を一周。これが世界スポーツ史上初となる、「ビクトリー・ラン」だと言われている。
異国の地で「ブラックワンダー」と呼ばれて人気者となったアンドラーデは、五輪終了後も数ヶ月間パリに滞在。「狂騒の20年代」と呼ばれた時代の “花の都” を楽しんだ。
ここでは黒人ということで差別されることもなく、逆に地元名士たちの歓待を受ける日々。夜ごとにナイトクラブのパーティーに通うアンドラーデは、高名な黒人女性ダンサー、ジョセフィン・ベイカーともタンゴで踊り明かした。
いつまでも帰国しようとしないこの男を連れ戻すため、ウルグアイ・サッカー協会は代表チームメイトであるアンヘル・ロマーニを派遣。彼が暮らしているというパリ近郊の別荘地を訪れたロマー二は、ランジェリー姿のままの数人の女性を伴い、シルクを羽織って現れたアンドラーデを見て啞然としたという。
パリでの享楽的な生活ですっかり天狗へと成り果て、そのままの気分で帰国したアンドラーデ。オシャレな手袋に高価なコート、ピカピカの革靴とモダンな帽子というパリかぶれの装いは、昔からのファンのヒンシュクを買った。また帰国した英雄を称えようと催されたパーティーを無断欠席、黒人コミュニティの仲間たちを激怒させている。
帰国からほどなくして、隣国アルゼンチンに招待されての代表親善試合に参加。だがブエノスアイレスで行なわれた試合は、ライバルに対抗心を燃やすアルゼンチンサポーターから石を投げつけられる騒動。アンドラーデとチームメイトがその石を観客席に投げ返したことから乱闘に発展し、ついには逮捕者が出る始末。ウルグアイは試合の続行を拒否した。
身の危険を感じたアンドラーデは、数週間後に地元で行なわれた南米選手権に参加しなかったが、最強ウルグアイチームは大会2連覇を果す。翌25年にはアルゼンチンで南米選手権が開催。ウルグアイはこの大会を棄権し、地元アルゼンチンが2度目の優勝を飾る。
同じ25年には所属するナシオナルで欧州遠征。この遠征中にアンドラーデはチームを離れ、パリで遊ぶなど羽目を外し、挙げ句の果てにはブリュッセルの病院で梅毒と診断。療養のため帰国が遅れ、チームメイトとは2ヶ月遅れでモンテビデオに戻った。
26年秋、チリで開催された南米選手権に出場。大会は参加5ヶ国による総当たり方式で行なわれ、ウグルアイは宿敵アルゼンチンに2-0の勝利。4戦全勝でウルグアイが6度目の南米制覇を果し、優勝の原動力となったアンドラーデは大会MVPに選ばれる。
28年夏、前回金メダルのウルグアイは “無敵の王者” の名を背負ってアムステルダム五輪に出場。当初アンドラーデは報酬の支払いを巡って参加を拒否するが、チームの出航を直前にして翻意。大西洋を渡る船に乗った。
大会の初戦はオランダに2-0の勝利、準々決勝もドイツを4-1と寄せ付けず、評判の強さを見せつけた。準決勝では伸長著しいイタリアと対戦。接戦となった試合は、ウルグアイが3-2の勝利。2大会連続の決勝へ進む。だがゴールポストに衝突して片目を負傷してしまったアンドラーデは、決勝の欠場を余儀なくされてしまう。
決勝の相手となったのは、南米のライバルであるアルゼンチン。27年の南米選手権(ペルー開催)優勝で、今回のオリンピックに初参加していたのだ。アルゼンチンは五輪初登場ながら、アメリカに11-2、ベルギーに6-3、エジプトに6-0と圧倒的な強さ。まさに世界一を決めるにふさわしい相手だった。
アムステルダムのスタジアムで行われた決勝は、互いのプライドと名誉を懸けた激しい試合となり、延長を戦って1-1の引き分け。3日後に再試合となった。この再戦も両者譲らず、1-1のまま勝負は後半戦にもつれ込むが、73分に勝ち越し点を決めたウルグアイが逃げ切っての勝利。主軸のアンドラーデを欠きながら、“ラ・セレステ” がオリンピック連覇の偉業を達成した。
28年にパリでFIFA総会が行なわれ、会長ジュール・リメが提唱したワールドカップの開催が決定。以前から欧州や南米の各地でプロ化の波が押し寄せており、アマチュアの祭典であるオリンピックは「真の世界一を決める大会」に成り得なくなっていたのだ。
五輪2連覇で世界最強を実証したウルグアイは、リメ会長の根回しによりW杯のホスト国に立候補。建国100周年を記念した新スタジアムの建設や、参加国の渡航費負担を約束するなど熱意を示し、第1回開催国の栄誉を勝ち取る。
そして大会が近づくと、アムステルダム五輪後に代表を退いていたアンドラーデが、“ラ・セレステ” への復帰を表明。国家を挙げた一大イベントに参加することになった。
30年7月、Wカップ・ウルグアイ大会が開幕。メイン会場であるセンテナリオ・スタジアムのこけら落としとなった1次リーグ初戦は、ペルーの抵抗に苦しむが、「神聖なる隻腕」エクトル・カストロのゴールで1-0の辛勝。続くルーマニア戦で4-0の快勝を収め、順調にベスト4へ進出する。
準決勝はユーゴスラビアと対戦。開始4分に先制を許すも、18分にエースFWのペドロ・セアが同点弾。さらに20分、31分とアンセルモが立て続けに得点を決め、たちまち逆転とした。
後半にも若手エネルスト・イリアルテのゴールでリードを広げると、このあとセアが2点を叩き込んでハットトリック達成。6-1と大勝し、開催国がついにファイナルへと駒を進めた。アンドラーデは「鉄のカーテン」と呼ばれたディフェンスを支える一方で、頭によるリフティングでボールを運び、相手5人をかわして50mを進むという離れ業を演じている。
初の世界一を決める決勝は、アムステルダム五輪の再現となるアルゼンチンとの戦い。アルゼンチンは新鋭ギジェルモ・スタービレが大爆発、危なげない強さでファイナルへ勝ち上がってきていた。
開始12分、右ウィングのパブロ・ドラドが相手キーパーの股下を狙ってウルグアイが先制。だがその8分後、同じ右ウィングのカルロス・ペウセレに強烈なシュートを叩き込まれ、すぐに追いつかれてしまう。さらに37分にはスタービレのゴールで逆転を許し、1-2のビハインドでハーフタイムを折り返す。
後半に入るとようやくウルグアイの硬さがとれ、57分にはセアが巧みなドリブルから同点ゴール。これでセンテナリオ・スタジアムに集まった6万8千人の観客を沸かせると、68分にはイリアルテのロングシュートで再逆転。試合終了間際にはカストロのゴールでとどめを刺し、ウルグアイが4-2の勝利。開催国が地元大会でW杯初代王者に輝く。
栄光のジュール・リメ杯は主将ホセ・ナサシの手に渡り、盟友と共に攻守でチームを支えたアンドラーデは大会ベストイレブンに選ばれる。ウルグアイ国民を熱狂させた初めてのワールドカップは、こうして大成功のうちに幕を閉じた。
31年、アンドラーデはナシオナルと並ぶモンテビデオの名門で、ライバルクラブでもあるペニャロールに移籍。32年と35年にチームをリーグ優勝に導いたあと、37年に移籍したワンダラーズで現役を終えた。ウルグアイ代表の7年間では34試合に出場、1ゴールを記録している。
引退後は再びパリに渡り、プロダンサーとして第2の人生を始める。だが自堕落な生活と浪費癖のため、2度の結婚は失敗。落ちぶれて故郷に戻った頃には、うつ病とアルコール依存症で身体を弱らせ、アムステルダム五輪のイタリア戦で負った怪我が原因で片目の視力も失っていたとされる。
人々から忘れられたアンドラーデは、モンテビデオの下町にある建物のエレベーター係や清掃係として働き、孤独な後半生を過ごした。ドイツ人ジャーナリスが彼を探し当ててインタビューを行なうも、もうその時にはまともに喋ることさえ出来なかったと言われる。
1957年10月5日、晩年世話をしてくれた妹に看取られながら、結核と貧困により死去。享年56歳だった。亡くなった時の彼の所持品は、かつての栄光を伝えるいくつかのトロフィーやメダル、そしてパリの女性から届いた手紙だけだったという。
寂しくこの世を去って行ったアンドラーデだが、ウルグアイが2度目の優勝を果たした50年W杯でキャプテンを務めたのは、黒人のオブドゥリオ・バレラ選手。また甥のビクトール・ロドリゲスもDFとして優勝に貢献しており、アンドラーデは時代の先駆者としてその名を残した。