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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ディエゴ・フォルラン(ウルグアイ)

 

「驚異の万能フォワード」

アグレッシブな動きで得点機を生み出し、天性の嗅覚と秀でたセンスでゴールを量産したウルグアイのエース。左右両足で強烈なシュートを叩き込み、一瞬のひらめきによるチャンスメイクも天下一品。前線ならどこでもこなせる万能型FWとして、チームに多くの勝利を呼び込んだのがディエゴ・フォルラン( Diego Martín Forlán Corazo )だ。

 

アルゼンチンのインデペンディエンテで頭角を現し、02年に移籍したマンチェスター・ユナイテッドではスーパーサブとしてプレミア優勝に貢献。その後スペインに活躍の場を移し、ビジャレアルアトレティコ・マドリードで2度のピチーチ賞とヨーロッパ・ゴールデンシューに輝く。14年にはセレッソ大阪でもプレーしている。

 

ウルグアイ代表として02年のW杯日韓大会に出場。G/Lのセネガル戦でゴールを挙げた。10年W杯・南アフリカ大会ではチームの大黒柱を務め、大会MVPと得点王(4人共同)の活躍。古豪ウルグアイを10大会ぶりとなるベスト4に導く。翌11年のコパ・アメリカでも主力として6大会ぶり15度目の優勝に貢献した。

 

生粋のフットボール一族

フォルランは1979年5月19日、首都モンテビデオの高級住宅地カラスコで生まれた。父パブロ・フォルランは名門ペニャロールサンパウロ(ブラジル)などで活躍し、74年W杯・西ドイツ大会にも出場した元ウルグアイ代表選手。また母方の祖父ファン・コラロス・コラソも、62年W杯チリ大会で代表監督を務めていたという、生粋のフットボール一族だった。

親戚を合わせて12人という大家族の中で育ったフォルランは、サッカーとテニスの両方で天賦の才能を発揮。どちらの競技でも一流プレーヤーとして鳴らし、学業も優秀な少年だった。

だがフォルランが12歳の時、姉のアレハンドラが雨中の自動車事故で重傷を負ってしまう。ドライバー席のボーイフレンドは衝突により即死。助手席のアレハンドラもシートベルトをしていなかったことが災いし、下半身不随となってしまった。

姉の治療費はフォルラン家の財政を圧迫。このことによりディエゴ少年はサッカー競技一本に絞り、家計を助けるためプロ選手を目指すことを決意する。16歳の時にはフランスへ渡り、ASナンシーのトライアルを受けるも不合格。だがかつて祖父もプレーしていたCAインデペンディエンテ(アルゼンチン)から声が掛かり、プロへの道を歩み始める。

ちなみに障害者となった姉アレハンドラは、困難を克服して大学で心理学を学び、人材活用コンサルティング修士号を取得。しばらくFIFA代理人として活動したあと、09年にはアレハンドラ・フォルラン財団を設立。現在は交通事故で障害を負った人々のサポートと交通事故防止の啓発に取り組んでいる。

 

マンチェスター・ユナイテッドスーパーサブ

入団後はリザーブリーグで腕を磨いたのち、19歳でトップチーム昇格。78年W杯でアルゼンチン代表を初優勝に導いた名将メノッティ監督のもと、98年10月のアルヘンティノス戦でプロデビューを果す。

そしてプロ3年目の00-01シーズン、36試合で18ゴールを挙げて得点王争いに加わる活躍。一気に注目株となったフォルランの名は欧州クラブにも知られるようになり、翌01-02シーズン途中にはイングランドミドルズブラからオファーが届く。

ミドルズブラとは契約合意寸前にまで至るが、そこへ横やりを入れてきたのがマンチェスター・ユナイテッドインデペンディエンテは名門クラブからミドルズブラを大幅に上回る好条件を提示され、急遽一転、フォルランのユナイテッド移籍が決まった。

02年1月のボルトン戦でプレミアリーグデビュー。だがチームには当時全盛期にあったルート・ファン ニステルローイがエースストライカーとして君臨。フォルランの出番は限られ、プレミア1年目はノーゴールに終わる。

2年目となる02-03シーズン、ファーガソン監督からスーパーサブの役割を与えられたフォルランは、25試合に出場して6ゴールの成績。得点こそ少なかったものの、リバプール戦やチェルシー戦で重要なゴールを挙げるなど貢献度は抜群。プレミア優勝に大きな役割を果した。

だが翌03-04シーズンは不振に陥り、24試合で4ゴールを挙げるも貢献度は低下。リーグ戦ではインビンシブルズ(無敗優勝)を達成したアーセナルに大きく引き離され、新興チェルシーにも遅れをとる3位。04年8月には新鋭ウェイン・ルーニーが入団したことから、フォルランの居場所は無くなってしまった。

 

W杯日韓大会

ウルグアイ代表には02年に22歳で初招集され、3月の親善試合サウジアラビア戦で国際Aマッチデビュー。試合は2-3と敗れたものの、初ゴールを記録して代表デビュー戦を飾った。このまま日韓W杯のメンバーにも選ばれ、代表歴わずか3ヶ月で世界の大舞台に臨むことになった。

G/Lの初戦はデンマークに1-2と敗れ、第2戦は前回王者のフランスと0-0の引き分け。グループ突破には、最終セネガル戦で2点差をつけての勝利が必要となる。

しかしウルグアイは序盤からセネガルのスピードに手を焼き、開始20分にディウフを倒してPKを献上。26分にはサイド突破からB・ディオプのゴールを許し2失点目。38分にも再びディオプに得点を決められ、0-3のビハインドで前半を折り返す。

戦況打開を試みるウルグアイは、後半開始にフォルランとFWモラレスを投入。これがフォルランのW杯デビュー戦となった。そして後半立ち上がりの46分、GKが弾いた球をモラレスが詰めて1点を返す。

さらに69分、相手DFの浮き球を拾ったフォルランが、胸トラップからのボレーシュート。豪快なミドルを突き刺して1点差とする。終盤の88分にはモラレスが倒されPKを獲得。これをレコバが勢いよく沈め、ついに同点へ追いつく。

だがウルグアイの追撃もここまで。試合は3-3と引き分け、グループ3位での1次リーグ敗退となった。

04年7月にはペルー開催のコパ・アメリカに出場。フォルランは6試合すべてにプレーし、コスタリカ戦ではゴールを記録。ウルグアイの3位入賞に貢献する。

 

初の得点王

マンチェスター・ユナイテッドで出番を失ったフォルランは、04-05シーズンの開幕直後に活躍の場を求めてスペインのビジャレアルと契約。リーガデビューのバレンシア戦でさっそくゴールを挙げると、それからの5試合で7得点と快調な出足。

このあともアルゼンチンのリケルメとホットラインを組み、最終的には25ゴールの大活躍。バルセロナエトーを抑えてピチーチ賞(リーガ得点王)とヨーロッパ・ゴールデンシューに輝き、ビジャレアルをCL出場権の得られる3位に押し上げた。

翌05-06シーズンは役割が定まらず10ゴールに終わるが、CLではチャンスメークでチームを支えてクラブの過去最高成績となる大会ベスト4に貢献。06-07シーズンは調子を取り戻し、19ゴールを挙げてUEFAカップ出場権の得られる5位確保に貢献する。

 

2度目のW杯出場ならず

03年9月から始まったドイツW杯南米予選は、6ゴールを記録してチームを牽引するも、安定感を欠くウルグアイは全日程を終えて5位の成績。W杯出場権を得られる4位に届かず、大陸間プレーオフに回ることになった。

05年12月に行なわれた大陸間プレーオフでは、ヒディンク監督率いるオセアニアのオーストラリアと対戦。ホームでの第1戦は、D・ロドリゲスのゴールで1-0の勝利。しかしフォルランは前半16分で負傷退場、4日後に行なわれる第2戦の欠場を余儀なくされる。

フォルランが不在となったシドニーでの試合は0-1と敗れ、同スコアで並んだため勝負は延長・PK戦に突入。PK戦ではウルグアイの2人が止められ、2大会連続のW杯出場を逃してしまう結果となった。

07年6月にはベネズエラ開催のコパ・アメリカに出場。ウルグアイは苦戦しながらもG/Lを勝ち抜き、準々決勝ではフォルランの2ゴールなどで地元ベネズエラに4-1の勝利。準決勝では優勝候補のブラジルと対戦し、フォルランのゴールで先制しながら延長を戦って2-2の同点。

PK戦では1人目のフォルランが失敗してしまい、勝負はサドンデスにもつれ込むも4-5の惜敗。このあとメキシコとの3位決定戦にも敗れ、前回を下回る4位の成績に終わる。

そしてこの大会を限りにエースのレコバが代表を退き、フォルランは “ラ・セレステ” の10番を引き継ぐことになった。

 

アトレティコでの栄光

07-08シーズン、名門のアトレティコ・マドリードへ移籍。リバプールへ引き抜かれていったフェルナンド・トーレスの後釜と期待されての移籍だった。

ここでアルゼンチンの新鋭アグエロと2トップを組み、36試合16ゴールの活躍。チームをリーグ4位の好成績に導き、12季ぶりとなるCL出場権獲得に貢献する。

翌08-09シーズンにはさらに充実度を増し、リーグ戦33試合で32ゴールと大爆発。得点の多さだけではなく、シュートの質と重要な場面で決める勝負強さも天下一品だった。またもエトーを抑えて2度目のピチーチ賞とヨーロッパ・ゴールデンシューを獲得。2季連続となるCL出場権確保に貢献し、ウルグアイの最高スポーツ賞である「チャルア賞」にも選ばれる。

09-10シーズンはチームが不振にあえぐ中、33試合18ゴールの成績。リーグ戦は9位にとどまるも、コパ・デル・レイ(国王杯)では準優勝。CLはグループステージ敗退となってしまったが、3位の成績でヨーロッパリーグ(当シーズンよりUEFAカップから移行)へ回る。

ELでは決勝ステージから参戦。1回戦はフォルランの決勝ゴールでガラタサライを退け、2回戦はアグエロアウェーゴールスポルディングリスボンを撃破。準々決勝ではアウェーでの第1レグでフォルランが先制点を記録、この得点が効いて準決勝進出を果す。

準決勝はリバプールと対戦。ホームでの第1レグは、フォルランの得点で1-0の勝利。だが敵地での第2レグは逆に0-1と敗れ、2戦合計で同スコア。そのまま延長戦へともつれ込む。

延長の95分、ベナユンのゴールでリバプールが勝ち越し。だがその7分後、フォルランが右足ミドルを叩き込んで同点。試合は2戦合計2-2で終わるが、フォルランアウェーゴールアトレティコが決勝に進んだ。

決勝の相手はイングランドフルハム。前半32分、アグエロのシュートのこぼれ球をフォルランが押し込んで先制。その後追いつかれて延長戦に突入するが、終了間近の116分にアグエロのパスからフォルランが決勝弾。アトレティコがEL初代王者に輝き、優勝の立役者となったフォルランが決勝のマン・オブ・ザ・マッチに選ばれた。

 

W杯MVPの活躍

07年から始まったW杯南米予選ではまたも苦戦を強いられるが、コスタリカ中南米カリブ海地区)とのプレーオフを制して2大会ぶりの出場を決める。ウルグアイは好不調の波が激しく、不安定さは相変わらずだったが、ルイス・スアレスやエディソン・カバーニら若手の台頭で攻撃陣の厚みは増していた。

10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。G/L初戦は前大会準優勝のフランスに押されながらも、粘り強く守って0-0の引き分け。第2戦では開催国の南アフリカと対戦する。

試合は序盤からウルグアイが主導権を握り、25分には主将フォルランの芸術的なミドルシュートで先制。このあと南アフリカの反撃を堅守でかわし、後半80分にはスアレスがGKクネに倒されPKを獲得。これをフォルランが落ち着いて沈め、ロスタイムにもフォルランを起点として追加点。3-0の完勝を収める。

第3戦はともに1勝1分けのメキシコと対戦。前半43分にカバーニのクロスをスアレスが頭で決めて先制。このまま1-0と逃げ切り、ウルグアイが1位での勝ち上がりを決める。トーナメントの1回戦はスアレスの2ゴールで韓国に2-1の勝利。エースのフォルランも両得点に絡んだ。

準々決勝の相手はアフリカの雄ガーナ。試合はウルグアイペースで進むが、欧州クラブで活躍するタレントを揃えたガーナの組織的守備を破ることは出来なかった。すると前半終了直前のロスタイム、ガーナFWギャンの落としからムンタリが強烈なミドルシュート。ボールはGKの前で跳ねてゴールへ突き刺さった。

1点をリードされたウルグアイは後半55分、ゴール左45度の位置にFKを獲得。このチャンスにフォルランが右足を振り抜くと、ボールは急激な軌道を描いてゴール右へ飛び込み、同点弾が決まった。

試合は1-1のまま延長に進み、PK戦に突入するかと思えた120分、今度はガーナが左45度にFKのチャンスを獲得。ゴール前へクロスが送られると、そこからの混戦でアディイアーがヘディングシュート。だがゴールラインをケアしていたスアレスがあからさまなハンドで弾き、決定的な失点を防ぐ。

スアレスは一発退場となりガーナにはPKが与えられるが、ギャンのキックはバーを叩き失敗。ウルグアイは一命を取り留めた。このあとPK戦を4-2と制し、ピンチから一転の勝利。近年W杯で低迷を続けていたウルグアイが、40年ぶりの準決勝進出を決めた。

準決勝で戦ったのはオランダ。前半18分に先制されるが、41分にフォルランが豪快なロングシュートを突き刺して同点。後半67分にも絶好の位置でFKのチャンスを得るも、フォルランの逆転を狙ったシュートはGKの好セーブに阻まれた。

その直後の70分、スナイデルのゴールを許し失点。73分にはロッベンにヘディングシュートを叩き込まれ、リードを2点に広げられてしまう。後半ロスタイムに1点を返すも、追撃及ばず2-3の敗戦。15大会ぶりの決勝進出はならなかった。

このあと3位決定戦でもドイツに2-3と敗れて大会ベスト4。この試合で5得点目を挙げたフォルランは、トーマス・ミュラーダビド・ビジャ、ウエズレイ・スナイデルと並ぶ得点王(アシストで上回ったミュラーがゴールデンブーツ賞)となる。また決勝に進めなかったのにもかかわらず、数々の印象的なゴールでMVP(ゴールデンボール賞)に輝く。

 

日本でのフォルラン

10-11シーズンは監督との確執などで不調に陥り、32試合8ゴールと入団後最低の成績。翌11-12シーズンはイタリアのインテル・ミラノと契約を結ぶ。だがインテル・ミラノでも結果を残せず、12年7月にはブラジルのインテルナシオナルへ移籍する。

インテルナシオナルで13年のリオグランデ・ド・スル州選手権優勝に貢献したあと、セレッソ大阪からのオファーを受けて14年1月に来日。入団記者会見では大阪弁を交えた流暢な日本語で挨拶を行なっている。

セレッソ大阪ではワールドクラスのシュート術で柿谷曜一朗南野拓実ら若手の手本となるが、チーム成績は低迷してJ2降格。J2での15年6月に契約が満了し、高額年俸を理由に更新はされなかった。

 

40歳での現役引退

11年7月にはアルゼンチン開催のコパ・アメリカに出場。決勝のパラグアイ戦で2得点を挙げ、ウルグアイ16年ぶり15度目の優勝に貢献する。

14年W杯ブラジル大会にも35歳で出場。スアレスがイタリア戦での噛みつき事件で出場停止となったあと、トーナメント1回戦のコロンビア戦で先発出場。だがこれといった見せ場もなく、後半53分に交代。試合も0-2の完敗を喫する。

翌15年3月、代表からの引退を表明。13年の代表歴で112試合36得点の記録を残した。

15年7月にはジュニア時代を過ごした故郷のペニャロールと契約。そのあとインドのムンバイ・シティと香港の傑志キッチーで短期間プレーし、19年8月に40歳で現役を引退する。

引退後は古巣ペニャロールと2部アテナスの監督を務めるも、首脳陣との意見の相違によりいずれも短命で終わる。現在は2部リーグ・ドゥラスノFCのオーナーとなり、若手育成のプロジェクトに取り組んでいる。