「ゴールの外科医」
絶妙なポジショニングとシャープな動きから素早く抜け出し、高い決定力でゴールを奪い取ったシャドーストライカー。また豊富な運動量とDFを引きつける動きで味方のスペースを作り、献身的なプレーでチームを支えたデンマークの名手が、ヨン=ダール・トマソン( Jon Dahl Tomasson )だ。
オランダのフェイエノールトでエールディヴィジ優勝とUEFAカップ制覇に大きな役割を果す。02年に移籍したACミランでは主にスーバーサブとして活躍。ピンチの場面で登場し、チームを救う働きで「ゴールの外科医」の異名をとった。ミランではCL優勝やスクデット獲得に貢献している。
デンマーク代表では02年W杯日韓大会に出場。G/L3試合でフランス戦を含む4ゴールの活躍を見せ、グループ首位突破の立役者となる。10年W杯南アフリカ大会にもキャプテンとして出場。G/L最終節の日本戦で得点を挙げるも、試合は1-3と敗れて敗退を喫した。
若きストライカーの輝きと挫折
ヨン=ダール・トマソンは1976年8月29日、デンマークの首都コペンハーゲンにトマソン&ダール夫妻の一人息子として生まれた。5歳のときに近郊のソルロードBKでサッカーを始め、9歳でコペンハーゲンの名門キューゲBKへ移籍。92年には16歳の若さでトップチーム(当時2部リーグ)昇格を果す。
そしてトップチーム3年目の94シーズン、攻撃的MFとして32試合23ゴールの活躍でキューゲの1部リーグ昇格に貢献。その才能がスカウトの目に止まり、94年12月にはオランダのヘーレンヘーンと18歳でプロ契約を結ぶ。
エールディヴィジのへーレンヘーンでもすぐにレギュラーとなり、移籍2年目の95-96シーズンは公式戦3試合14ゴールの成績でチーム得点王。翌96-97シーズンも公式戦38試合24ゴールと活躍し、KNBVカップ準優勝に貢献。21歳でデンマーク年間最優秀若手選手賞とオランダリーグ年間最優秀選手賞に輝いた。
トマソンの名はたちまち欧州中に知られるところとなり、アヤックス、バルセロナ、アトレティコ・マドリードといった名門クラブから関心を寄せられる中、「新しいミカエル・ラウドルップだ」と熱心な誘いを受けて97年7月にプレミアリーグのニューカッスルへ移籍する。
トップ下からの飛び出しを得意とするトマソンには、チームのエースであるアラン・シアラーのサポート役が期待された。その思惑通り、プレシーズンマッチでトマソンとシアラーのコンビネーションは上々の出来。強力なホットラインとなるかに思えた。
だが97-98シーズンの開幕直前、シアラーが足を骨折して戦線離脱。エースの代わりをコロンビア人FWのアスプリージャが務めるが、膝の故障によりこれまたチームを離脱。二人の代役としてトマソンがトップに起用されるも、馴れないポジションでノーゴールの結果。フィジカルが強いとは言えないトマソンは、コンタクトの激しいプレミアサッカーで調子を崩してしまった。
そしてシアラーの復帰とともにFWから外され、攻撃的MFのポジションも奪われて出番を失ってしまう。結局ニューカッスルで挙げた得点は攻撃的MFとしての4点にとどまり、わずか1年で契約を解除。オランダに戻ってフェイエノールトと新たな契約を交わす。
UEFAカップ優勝
フェイエノールトで本来のフォームを取り戻したトマソンは、98-99シーズンに33試合13ゴールの成績。6季ぶりとなるチームのエールディヴィジ優勝に貢献する。このあとも攻撃の主力としてコンスタントに得点を挙げ、01-02シーズンは得点王となったファン ホーイドンクに続く公式戦38試合22ゴールの活躍。
UEFAカップ(現EL)も快調に勝ち進み、準決勝ではトマソンのゴールなどで強豪インテル・ミラノを撃破。チームは30年ぶりとなる決勝へ進出する。
決勝の相手はブンデスリーガのボルシア・ドルトムント。奇しくも決戦の会場となったのは、フェイエノールトの本拠地であるスタディオン・フェイエノールト(通称デ・カイプ)だった。
試合は前半31分、相手のボールコントロールミスからPエリアに侵入したトマソンが、ユルゲン・コラーに倒されPKを獲得。コラーは一発退場となり、PKをファン ホーイドンクが沈めて先制。さらに40分にもファン ホーイドンクがGKレーマンを破るFKを決め、2-0とフェイエノールト優勢でハーフタイムを折り返す。
だが後半立ち上がりの47分、今度はフェイエノールトDFがブラジル人FWアモローゾを倒してPKを献上。これをアモローゾ自身に決められ1点差とされる。
その3分後、レーマンからのロングフィードを奪った小野伸二がワンタッチによる浮き球のスルーパス。鋭い反応で抜け出したトマソンが落ち着いてシュートを打ち、流れを取り戻す3点目。58分にはヤン・コレルのボレーシュートで1点を返されるが、残り時間を優位に進めて3-2と勝利する。
フェイエノールトは30年ぶり2度目となるUEFAカップ制覇を本拠地で果し、優勝の立役者となったトマソンは決勝のマン・オブ・ザ・マッチに輝いた。
デンマークのエース
デンマークU-19代表年間最優秀選手賞に選ばれるなど、ユース時代から将来を嘱望されていたトマソン。97年3月には20歳でA代表に招集され、クロアチア戦で初キャップを刻む。
98年W杯フランス大会のメンバーには選ばれなかったが、同年9月から始まったユーロ予選に参加。99年6月に行なわれたウェールズ戦で代表初ゴールを記録する。ユーロ予選では7試合6ゴールと活躍、デンマークの本大会出場決定に貢献した。
2000年6月のユーロ大会(ベルギー/オランダ共催)では、G/Lの3試合に先発出場。しかしフランス、オランダ、チェコと強豪揃いのグループに入ったデンマークは、勝点1どろこか1得点も挙げられまま最下位に沈んで敗退。トマソンにとって初の大舞台は、悔しさだけが残るものとなってしまった。
ユーロ大会の雪辱を期すデンマークは、同年9月から始まったW杯欧州予選で首位戦線を快走。グループ最大の強敵であるチェコをトマソンの決勝点で2-1と打ち破り、ライバルを2ポイント上回ってのW杯2大会連続出場を決める。トマソンはチーム最多の4得点を記録、エースとしての責任を果した。
日韓W杯の活躍
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。デンマークはG/L初戦でウルグアイと戦った。試合はデンマークペースで進み、前半ロスタイムには左からのクロスにトマソンがダイレクトで合わせて先制。後半開始の47分に追いつかれるも、終盤の83分に再びトマソンが左クロスを頭で合わせて決勝弾。南米の古豪を相手に白星スタートを切った。
第2戦は、王者フランスを相手に歴史的金星を挙げたセネガルと対戦。開始16分、トマソンが後ろから倒されPKを獲得。これをトマソン自身が沈め、2戦連続の先制となった。
しかし猛暑の中で北欧の選手たちの動きは重く、後半52分には自陣でボールを奪われカウンターによる逆襲。一気に駆け上がったボランチのディアオにゴールを決められ、1-1の引き分けに持ち込まれてしまう。
引き分けでもグループ突破となる最終節は、ここまで1敗1分けと未だ勝利のないフランスと対戦。2戦欠場のジダンが、太腿に故障を抱えたまま強行出場する。
攻撃の駒を減らして守備を固めるデンマークは、相手の攻撃を封じながら機を見てのチャンスを窺う。前半22分にはトフティンの浮き球クロスをロンメダールが左足で合わせて先制。後半67分にはカウンターから抜け出したトマソンが追加点を挙げ、2-0の完勝。前回王者を敗退に追い込み、グループ1位での決勝トーナメント進出を決めた。
トーナメント1回戦の相手はイングランド。ここに来てデンマークの堅守に綻びが生じ、開始5分にはファーディナンドのヘディングシュートをGKソーレンセンがファンブルして失点。22分にはDFに当たったボールがオーウェンのもとにこぼれ、追加点を決められてしまう。さらに44分にはクリアボールをベッカムに拾われ、そこからのクロスで3失点目を喫する。
トマソンはスピードを活かして裏への抜けだしを狙うも、再三のランニングが実ることなく0-3の完敗。デンマークはG/Lの勢いを保つことが出来ず、ベスト16敗退となってしまった。
W杯直前の02年5月、フェイエノールトとの契約が満了したトマソンは、クラブと代表での活躍が認められてイタリアの名門ACミランへ移籍。アンドリー・シェフチェンコ、フィリッポ・インザーギ、リバウド、ルイ・コスタら豪華攻撃陣の中でスーパーサブの役割を当てられ、コッパ・イタリアでは7試合4ゴールの活躍。26季ぶり5度目の大会制覇に貢献する。
ミランはチャンピオンズリーグでも快進撃を続け、9季ぶりの決勝進出。決勝では同リーグのライバルであるユベントスをPK戦で下し、6度目となる優勝を果す。トマソンは決勝の舞台に立てなかったものの、大会3ゴールを挙げて優勝に大きな役割を果した。
03-04シーズンはエースのインザーギが故障による不調に陥る。これによって出番を増やしたトマソンは、26試合12ゴールの好成績。得点王(24ゴール)となったシェフチェンコとともにチームの攻撃を支え、ミラン5季ぶりとなるスクデット獲得に寄与する。
だが04-05シーズンにエルナン・クレスポが加入すると、トマソンは再びサブ要員に追いやられ30試合6ゴールの成績。CLでは2季ぶりの決勝に進出するが、リバプールとのファイナルではベンチスタートとなった。
試合はミランが前半で3-0と大きくリード。ほとんど優勝が決まったかに思えたが、後半に入るとリバプールが主将のジェラードを中心に猛反撃。わずか3分間で同点に追いつかれてしまう。終盤の85分にはクレスポに代わりトマソンが投入されるも、延長戦となってもスコアは変わらず勝負はPK戦へと持ち込まれた。
先攻のミランは1人目のセルジーニョと2人目のピルロが失敗。3人目のトマソンと4人目のカカが決めて望みを繋いだが、5人目のシェフチェンコがGKデュデクに止められ終了。「イスタンブールの奇跡(悲劇)」と呼ばれた歴史的な敗戦を喫し、2季ぶりのビッグイアーを逃してしまった。
デンマーク代表の停滞
02年9月から始まったユーロ予選では、トマソンの8試合5ゴールの活躍で見事1位突破。04年6月にはポルトガル開催のユーロ04に出場する。ユーロのG/Lでは3ゴールの活躍、強豪イタリアに競り勝ってのベスト8に進む。
準決勝ではチェコに0-3と敗れるが、トマソンはデンマークで唯一「UEFAチーム・オブ・ザ・トーナメント」の23人に選ばれた。
この勢いで9月から始まったW杯欧州予選に臨むも、トマソン6ゴールの活躍にも関わらずチームは3位に留まり、デンマークの3大会W杯出場は叶わなかった。
W杯後のユーロ08予選でも、勝負弱さを露呈したデンマークは3位に沈んで敗退。トマソンの8ゴールの奮闘も、チームを浮上させることは出来ずに終わる。
08年2月の親善試合、スロベニア戦では代表通算51ゴールを記録。これは1900年代初頭に活躍したFWポウル・ニーセンの持つ代表通算最多得点記録に、あと1点差へと迫るものだった。しかしこのあと度々の故障に苦しみ、しばらく記録への足踏みが続くことなった。
古巣フェイエノールトへの復帰
05年7月にはクリスティアン・ヴィエリがミランに加入。余剰戦力となったトマソンは移籍リストに載せられ、ブンデスリーガのシュツットガルトと4年契約を結ぶ。だがシュツットガルトでも結果を残せず、07年1月にはリーガ・エスパニョーラのビジャレアルにレンタル移籍。欧州4大リーグの全てを経験することになった。
ビジャレアルでは主にカップ要員としてプレーし、UEFAカップでは8試合5ゴールを記録。08年7月にはビジャレアルを退団し、古巣フェイエノールトへの復帰を果す。
08-09シーズンは開幕3試合で4ゴールと好調なスタートを切ったが、その後は故障に悩まされ13試合9ゴールの成績に終わる。翌09-10シーズンは24試合11ゴールと復調、KNVBカップ準優勝に貢献した。
最後の試合となった日本戦
故障の影響により08年9月から始まったW杯欧州予選では無得点に終わってしまったが、守備を立て直したデンマークは強敵のポルトガルやスウェーデンを退けて見事グループ首位突破。2大会ぶりのW杯出場となった。
10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。G/L初戦のオランダ戦は前半を0点に抑えるも、後半はオウンゴールから崩れて0-2の敗戦。第2戦はベントナーとロンメダールの得点で、エトー擁するカメルーンを2-1と打ち破る。
グループ突破を懸けた最終戦は、ともに1勝1敗の日本と対戦。得失点差で下回るデンマークには、3点差をつけての勝利が必要だった。
デンマークはベントナーの高さとトマソンの飛び出しで得点を狙い、前半14分にはS・ポウルセンのスルーパスに抜け出したトマソンがあわやのシュート。ボールはポスト右をわずかに外れ、先制点とはならなかった。
直後の17分、ゴール右30mの距離に与えたFKを本田圭祐に叩き込まれ失点。さらに30分、今度はゴール正面のFKを遠藤保仁に決められ2失点目。デンマークは厳しい状況に追い込まれてしまった。
後半はCBのラーセンを前線に上げてパワープレーを狙うデンマーク。その再三の放り込みが効を奏し、35分にはアッガーがPエリア内で長谷部誠に倒されPKを獲得。キッカーを任されたのは主将のトマソンだった。
長い助走から右足で蹴ったシュートはGK川島永嗣に弾かれるも、こぼれ球にトマソンが素早く詰めてゴール。ポウル・ニーセンの代表最多得点に並ぶ、通算52本目のゴールだった。
しかし終盤の87分に本田のアシストから岡崎慎司の追加点を許し、1-3の完敗。グループ3位での敗退となった。
W杯終了後の8月、トマソンは代表からの引退を表明する。14年の代表歴で刻んだ112キャップは、現在歴代5位。52得点は今も歴代1位タイである。
指導者トマソン
日本戦で右足ハムストリングを痛めてしまったトマソンは、シーズン中の復帰を目指してトレーニングに取り組むも、回復の気兆しはなく1年を棒に振ってしまう。そして医者からの「完治の望みは薄い」の勧告を受け、W杯後の出場がないまま11年6月に34歳で現役を引退する。
引退後は指導者の道に進み、エクセルシオール(オランダ)のアシスタントコーチを務めたあと、13年6月に監督へ就任。そのあとローダの監督やデンマーク代表のアシスタントコーチなどを歴任し、22年7月にはブラックバーン・ローヴァーズ(イングランド・フットボールリーグ1部)の監督に就任する。
ブラックバーンは現在リーグ4位と好位置につけており、来季のプレミアリーグ昇格(3チーム)を虎視眈々と狙っている。