「ゴールエリアの鷲」
シャープな動きで相手を一瞬にして置き去りにし、鋭い得点感覚でゴールを陥れたCF。オフ・ザ・ボールのプレーにも優れ、味方のチャンスを引き出した。高い精度を誇る左右のキックを持ち、アクロバティックなシュートを決めるなど多彩な得点パターンで「ゴールエリアの鷲」と呼ばれたのが、エルナン・クレスポ( Hernán Jorge Crespo )だ。
アルゼンチンの名門、リーベル・プレートの南米制覇に貢献し、20歳でセリエAのパルマへ移籍。98-99シーズンにはチームの得点源として、クラブをUEFAカップ優勝とコッパ・イタリア優勝に導く。その後もラツィオやインテル・ミラノ、プレミアのチェルシーなど強豪クラブで活躍した。
96年に出場したアトランタ五輪では、得点王(6ゴール)の活躍で銀メダル獲得の立役者となる。W杯には98年フランス、02年日韓、06年ドイツと3度の大会に出場。98年大会と02年大会はバティストゥータの控えに終わったものの、06年大会はエースとしてアルゼンチンのベスト8進出に貢献した。
努力のストライカー
クレスポは1975年7月5日、首都ブエノスアイレス近郊にあるベッドタウンのフロリダで生まれた。中流階級の比較的恵まれた家庭で育ち、父親が地元サン・ロレンソの熱狂的ファンであったことから、クレスポも幼い頃よりサッカーに親しんだ。
イタリア・セリエAやワールドカップのテレビ観戦にも熱中し、マリオ・ケンペス、パオロ・ロッシ、リネカー、ファン バステンらのストライカーをアイドルとした。もちろん母国の英雄マラドーナも憧れの対象だったが、「別格すぎて自分には無理」と早くから感じていたという。
リーベル・プレートの下部組織で本格的にサッカーを始めたのは6歳のとき。真面目なクレスポ少年は熱心に練習へ励むも、「平凡な選手」とコーチの評価を得られずレギュラーの座を掴めずにいた。
それでも日頃の努力が実って14歳のときにユースチームへ昇格。93年にはダニエル・パサレラ監督から得点感覚を見込まれ、18歳でトップチームへ引き上げられる。
93年11月、ニューウェルズ・オールドボーイ戦でプリメーラ・ディビシオン(トップリーグ)デビュー。93-94シーズンはスーパーサブとして25試合に出場し、13ゴールの好成績を残す。初めて臨んだ伝統のスーペル・クラシコでは、オルテガとともに得点を挙げてボカ・ジュニアーズに2-0の勝利。その活躍でリーベルのリーグ2連覇に貢献する。
しかしパサレラ監督がアルゼンチン代表の指揮官となってリーベルを離れると、クレスポの出場機会は減り、94-95シーズンは18試合5ゴールの成績。95-96シーズンに新監督となったラモン・ディアスに再び出場の機会を与えられるが、リーグ戦19試合6ゴールと成績は振るわないまま。だがディアス監督はクレスポを辛抱強く起用し続けた。
そしてクレスポがその真価を発揮し始めたのが、リーベルがアルゼンチン王者として出場したコパ・リベルタドーレスの大会。この大会クレスポは11試合8ゴールの活躍で、リーベルの決勝進出に大きく貢献。決勝ではコロンビアのアメリカ・デ・カリと南米王者を争う。
敵地での第1戦は0-1と敗れるが、ホームでの第2戦では前半6分にクレスポが同点となる先制弾。後半59分にもクレスポが決勝点を挙げ、リーベルを10年ぶりの南米王者に導く。この活躍により、若きストライカーの名は国内で広く知られるようになった。
アトランタ五輪銀メダル
95年2月、パサレラ監督によってA代表に招集されたクレスポは、親善試合のブルガリア戦で初キャップを刻む。そのあと五輪代表監督も務めるパサレラに呼ばれて、96年アトランタオリピックのメンバーとなった。
クレスポ、オルテガ、C・ロペス、サネッティらの若手に、シメオネやセンシーニなどの経験豊富な選手を加えたアルゼンチンは、難敵ポルトガルをかわしてG/Lを1位突破。準々決勝ではクレスポ2ゴールの活躍で強敵スペインを4-0と退ける。
準決勝では再び対戦したポルトガルをクレスポの2試合連続2得点で一蹴し、アルゼンチンが28年アムステルダム五輪以来68年ぶりとなる決勝に進む。
決勝は「スーパーイグルス」のナイジェリアと対戦。開始3分、オルテガの縦パスからクレスポが抜け出し、折り返しをC・ロペスが決めて先制。だが28分にババロヤのヘディングゴールを許し、1-1で前半を折り返す。
後半50分、クレスポのバスに抜け出したオルテガが倒されPKを獲得。これをクレスポが確実に決め、再びリードを奪う。しかし74分にアモカチのループシュートで追いつかれると、ロスタイム直前の90分にはアムニケの決勝ゴールで万事休す。
アルゼンチンはあと一歩のところで初の金メダルを逃すが、クレスポはブラジルのベベトーと並ぶ6ゴールを挙げて得点王。同国2度目となる銀メダル獲得に大きく貢献した。
ゴールエリアの鷲
コパ・リベルタドーレスとアトランタ五輪での活躍が認められ、96年8月にはセリエAのパルマへ移籍。だがイタリアサッカーに馴染むのに時間がかかり、96-97シーズン最初の6週間はノーゴール。サポーターからの容赦ないブーイングを浴びてしまう。
それでもアンチェロッティ監督が彼を信頼して使い続けてくれたおかげで、10月のインテル・ミラノ戦で初ゴールを記録すると、一気に調子を上げて27試合12ゴールの成績。優勝したユベントスにあと2ポイントと迫るリーグ2位に貢献する。
翌97-98シーズンも25試合12ゴールと安定した成績を残し、98-99シーズンはリーグ戦30試合16ゴールの活躍。コッパ・イタリアでは7試合6ゴールの活躍でクラブ2度目の優勝に貢献。UEFAカップ(現EL)でも8試合6ゴール2アシストとチームの攻撃を牽引し、マルセイユとの決勝では先制点を挙げて3-0の勝利。パルマに初の欧州タイトルをもたらした。
99-00シーズンは開幕前のイタリア・スーパーカップで負傷してしまうが、出遅れを取り戻す活躍で34試合22ゴール。シェフチェンコ、バティストゥータに続く得点ランク3位の好成績を残す。
この活躍により、大型補強で前年のセリエAを制したラツィオから高額オファー。当時最高額となる移籍金が支払われ、クレスポは活躍の舞台を小都市パルマから首都ローマへ移した。
移籍1年目の00-01シーズン、32試合26ゴールと過去最高の成績を残して初の得点王。左右両足による精度の高いシュートを誇り、ボールコントロールも巧み。空中戦にも強いうえ、アクロバティックなゴールもたびたび決めた。その万能ストライカーぶりで「ゴールエリアの鷲」の異名をとる。
しかし翌シーズン後半戦の02年1月、ハムストリングの故障によりチームを離脱。3月のヴェネツィア戦でハットトリックを記録して衝撃の復帰を果すが、半月後には練習中の怪我により再び戦線離脱。01-02シーズンは22試合13ゴールと不本意な成績に終わった。
バティのサブFW
97年3月のW杯南米予選・エクアドル戦でA代表初ゴールを記録。エースのバティストゥータがパサレラ監督から代表を外されてしまったため、クレスポは彼に代わってC・ロペスと2トップを組み、3ゴールを挙げて南米予選突破に貢献する。
だが南米予選の最終戦でバティが代表に復帰。決定機で再三シュートを外すなど、まだ完全に信頼を得られていなかったクレスポは、実績を誇るエースにポジションを譲ることになった。
98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。日本、ジャマイカ、クロアチアに全勝したG/Lでは、クレスポの出番はなかった。
トーナメントの1回戦はイングランドと対戦。新星オーウェンのスーパーゴール、ベッカムの報復行為による一発退場など、波乱の展開となった後半の68分、バティに代わってクレスポがW杯初出場を果す。試合は2-2でPK戦にもつれ込み、2人目に蹴ったクレスポがシーマンに止められ失敗。それでもアルゼンチンGKのロアがイングランドの2本を阻止し、ベスト8へ進む。
準々決勝はオランダと激戦を繰り広げるも、クレスポの出番が訪れないまま1-2の敗戦。最初のW杯は消化不良の状態で終わってしまった。
ビエルサ新監督のもと2000年3月から始まったW杯南米予選では、バティから先発の座を奪って12試合9ゴールの大活躍。得点を挙げるほかポストプレーもこなし、守備にも献身的なクレスポはビエルサ戦術の中核を担った。こうしてアルゼンチンは南米予選を圧倒的強さで勝ち抜き、W杯の優勝候補に躍り出る。
02年5月31日、Wカップ日韓大会が開幕。しかしナイジェリアとの初戦で、先発のピッチに立ったのはクレスポではく33歳のバティだった。優勝を狙うビエルサ監督は、バティのW杯通算9得点という抜群の決定力に賭けたのだ。
試合はバティのゴールで1-0の勝利。クレスポの出番はバティと交代した終盤の10分のみだった。第2戦は因縁のイングランドと対戦。ベッカムのPKで先制された後半の60分、バティに代わりクレスポが登場。Pエリアを固めるイングランドに猛攻撃を仕掛けるが、最後までゴールを割れず0-1の敗戦を喫する。
グループ突破を懸けた最終節はスウェーデンと対戦。1点をリードされて迎えた終盤の88分、バティに代わって投入されたクレスポが、オルテガのPKのこぼれ球に詰めて同点ゴール。試合は1-1と引き分けるも、アルゼンチンは3位に沈んで無念のG/L敗退となった。
強豪クラブを転々
W杯終了後の02年8月、急遽インテル・ミラノへの移籍が決定。レアル・マドリードに引き抜かれたロナウドの後釜として、ラツィオで活躍するクレスポに白羽の矢が立ったのだ。
02-03シーズンのCLでは12試合9ゴールの活躍でインテルを準決勝へ導くも、03年の初頭に重傷を負って4ヶ月の戦線離脱。リーグ戦は18試合7ゴールと期待外れの成績に終わってしまった。
翌シーズンの再起を目指していた03年8月、潤沢な資金を使ってスター選手を買い集めていたチェルシーから好条件のオファー。クレスポはロシアの石油王アブラモビッチからの誘いを受け、プレミアリーグへの挑戦を決意する。
だが移籍1年目は故障に悩まされて満足なシーズンが送れず、19試合10ゴールと不本意な成績。新天地に馴染めずにいたクレスポに、ACミランで監督を務める恩師アンチェロッティから声が掛った。
04-05シーズンにローンでミランへ貸し出されたクレスポは、リーグ戦こそ18試合10ゴールの成績に終わるが、CLでは10試合6ゴールの活躍で決勝進出に貢献。決勝ではリバプールと対戦する。
開始6分にマルディーニのゴールで先制すると、39分と44分にはカウンターからクレスポが立て続けに追加点。大量リードでミランの優勝が決まったかに思えたが、後半リバプールの猛反撃を受けて3-3の同点。PK戦を落としてまさかの敗戦を喫した。
85分に交代で下がったクレスポは「イスタンブールの奇跡」と呼ばれた逆転劇を、ベンチからなすすべなく眺めるしかなかった。
ミランへの残留を希望したクレスポだが、契約の壁に阻まれてチェルシーへ復帰。モウリーニョ監督のもとで05-06シーズンは30試合に出場するも、ドログバの陰に隠れて10ゴールの成績。プレミア優勝のタイトルを得るも、イタリアへの復帰を熱望した。
ドイツW杯のエース
ペケルマン監督のもとで臨んだドイツW杯・南米予選では、11試合7ゴールの活躍でチームを牽引。宿敵ブラジルとの対戦では勝利に繋がる2ゴールを挙げてエースの貫禄を見せ、南米予選2位突破を果す。
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕、G/L初戦はアフリカの新興コートジボワールとの対戦だった。3回目のW杯で初めて先発出場したクレスポは、前半24分にリケルメFKのこぼれ球から先制点。38分にサビオラが追加点を決めると、コートジボワールの反撃をドログバの1点に抑えて白星スタートを切る。
続くセルビア・モンテネグロ戦は序盤から相手を圧倒。前半を3点のリードで折り返すと、後半にはテベス、メッシと期待の若手を投入。78分にはメッシのアシストでクレスポの追加点が決まる。終盤にはテベスとメッシに初ゴールが生まれ、6-0と圧勝した。
すでにグループ突破が決まっていた最終節は、クレスポら主力を温存してオランダと0-0の引き分け。アルゼンチンは1位で決勝トーナメントへ進んだ。
トーナメントの1回戦はメキシコと対戦。開始6分にメキシコのリードを許すも、10分にリケルメのCKをクレスポが押し込んで同点弾。このあと双方譲らない攻防戦が繰り広げられ、後半はクレスポ、サビオラらに代えてテベス、アイマール、メッシと攻撃の駒を続々投入。延長98分にマキシ・ロドリゲスのスーパーゴールが決まり、激戦を制したアルゼンチンがベスト8へ勝ち上がる。
準決勝の相手はホスト国のドイツ。後半49分にアジャラの先制点が生まれると、ドイツの猛反撃を受けた終盤、アルゼンチンはリケルメ、クレスポを下げて守備固めの選手を投入。逃げ切りを図るも、クローゼの同点弾を浴びて延長戦に持ち込まれる。
攻撃の柱を失ったアルゼンチンに有効な攻め手はなく、どうにか延長120分をしのぐもPK戦で力尽きて敗戦。チーム最多の3点を挙げたクレスポの健闘も空しく、アルゼンチンは大会から姿を消した。
点取り屋から指導者へ
W杯終了後の06年8月、ローン移籍による2年契約でインテル・ミラノに復帰。06-07シーズンはイブラヒモビッチと2トップを組んで14ゴールと復活の輝きを見せ、スクデット獲得に貢献。チェルシーとの契約を終えた07-08シーズンのあと、インテルへの完全移籍を果す。
だが08年の夏にモウリーニョがインテルの監督に就任すると、クレスポの出場機会は減少。08-09シーズンは14試合2ゴールの低調な成績に終わり、クラブとの契約も終了。09-10シーズンはジェノアへ移籍する。
代表では07年7月にベネズエラで開催されたコパ・アメリカに、自身初めての出場。2ゴールを挙げてG/L首位突破に貢献するも、負傷により決勝トーナメントを欠場。アルゼンチンは決勝でブラジルに0-3と完敗し、準優勝に終わった。
このあとクレスポは代表へ招集されることなく、アビセレステス(アルゼンチン代表の愛称)での活動を終えた。13年間の代表歴で64試合に出場、35得点を記録している。
09-10シーズン途中には古巣のパルマへ復帰。ここで約2年を過ごし、12年2月に35歳で現役引退を発表した。
引退後は指導者の道に進み、19年にはデフェンサ(アルゼンチン1部)の監督に就任。チームを2020年のコパ・スメリダカーナ(南米クラブ大会)優勝に導き、無名クラブに初の国際タイトルをもたらした。このあとサンパウロFCの監督を務め、現在はカタールリーグのアル・ドゥイハルで指揮を執っている。