「 甘いマスクのドリブルモンスター 」
ぶっちぎりのスピードを活かした高速ドリブルで敵陣深くまで斬り込み、狙い澄ましたシュートでゴールを陥れた攻撃的MF。そのシンプルで直線的な推進力は圧巻。テクニックに加えフィジカルやボディバランスにも優れ、現代フットボーラーとして総ての要素を備えたドリブルモンスターが、カカ( Kaká / Ricardo Izecson Dos Santos Leite )だ。
21歳で名門ACミランに加わると、早くもアタッカーとしての輝きを見せつけ、並み居るスター選手たちを脇役へ追いやる活躍。ミラン5季ぶりとなるスクデット獲得の原動力となる。06-07シーズンには「イスタンブールの悲劇」の雪辱を果すチャンピオンズリーグ優勝の立役者となり、バロンドールやFIFA最優秀選手賞など個人タイトルを総なめした。
20歳でブラジル代表入りを果し、02年日韓W杯の優勝を経験。06年W杯ドイツ大会ではロナウド、ロナウジーニョ、アドリアーノとともに、「カルテット・マジコ(魔法の4人)」と呼ばれる強力攻撃陣を形成した。10年の南アフリカW杯にも出場するが、2大会連続のベスト8に終わり、主力としての優勝は果たせなかった。
サッカー人生の転機
カカことリカルド・イゼクソン・ドス・サントス・レイチは、1982年4月22日に首都ブラジリアで生まれた。父親は建築技師、母親は数学教師という比較的裕福な家庭で育ち、3つ下には後にサッカー選手となる弟ロドリゴがいた。「カカ」の通称はまだ幼い弟が「リカルド」と発音できずに、こう呼んだのが由来となっている。
父親の転勤によりクイアバで幼少期を過ごし、7歳のときにサンパウロへ移住。父親が総合スポーツクラブの会員だったことから、家族メンバーだったカカは10歳で同クラブの一部門であるサンパウロFCのスクールに入団する。
93年、サンパウロFCのジュニアチームが日本の国際交流行事に招かれ、当時11歳のカカ少年、は20人の仲間とともに山形県の家庭へ2週間のホームステイ。そのとき世話をしてくれた夫婦とは、有名選手となってからも交流を持ち続けた。
13歳になるとプロ養成のユースアカデミーに進むも、抜群の技量を持ちな天賦の能力を活かしきれず、サブメンバーに甘んじる日々。当時は小柄で線も細く、フィジカル面に弱点を抱えていたのだ。そこで16歳から筋力トレーニングに励み、身長の伸びとともに強靱なボディを獲得。当たり負けしなくなったカカは、2000年3月に17歳でトップチームの試合を経験する。
確実に歩みを進めていたかに思えたカカだが、同年10月、オフの期間に遊びに行った祖父母の家のプールで、滑り台から落下して頭部を強打。脊髄損傷の重傷を負う。医者からは「危うく下半身付随になるところだった」と言われるほど深刻なものだったが、懸命のリハビリを経て2ヶ月後に復帰。極度の近眼になった以外は、ほとんど運動能力に支障はないという奇跡の回復を遂げた。
自身が「人生観を変えた」と語るこのアクシデントのあと、より真剣にサッカーへ向き合うようになったカカは、01年シーズンに晴れてクラブとプロ契約。デビュー1年目のブラジレイロ(全国選手権)で27試合12ゴールの好成績を収める。そしてリオ=サンパウロ大会の決勝、ボタフォゴ戦の第2レグでは、後半14分からの出場で2得点を記録。逆転優勝の立役者となった。
02年シーズンもブラジレイロで22試合9ゴールと活躍し、全国選手権のMVPに選出。若くして実力を証明したカカは、その甘いマスクもあってたちまちクラブのアイドル的存在となり、海外からも注目されるようになる。
初めてのワールドカップ
サンパウロFCでの活躍がフェリペ・スコラーリ監督の目に止まり、02年1月に19歳でA代表初招集。強化試合のボリビア戦でセレソンデビューを果すと、3月のアイスランド戦で代表初ゴールを記録する。
このままW杯メンバーにも選ばれ、同年5月31日から開幕した日韓大会に出場。だがロナウド、リバウド、ロナウジーニョの「3R」と呼ばれる強力な攻撃陣でカカの入り込む余地はなく、G/Lのコスタリカ戦で25分間プレーしたのみ。大会はブラジルが5度目の優勝を達成、チーム最年少のカカは微力ながらもビッグタイトル獲得に寄与した。
03年7月、ブラジル代表はCONCACAF(北中米・カリブ海連盟)ゴールドカップに招待され、U-23選抜チームで参加。カカはロビーニョ、アドリアーノ、マイコンと将来のセレソンが揃った若いチームでキャプテンを務め、3ゴールを挙げて準優勝に貢献している。
サンパウロで順調にキャリアを刻だ03年8月、21歳のカカはセリエAの名門ACミランとの契約合意を発表。多くの有力選手を抱えていたミランの思惑は、将来のスター候補生を確保しておこうというもの。決して即戦力としての獲得ではなく、一旦はパリ・サンジェルマンへのレンタルが予定されていた。
しかしプレシーズンマッチでカカのプレーを見たアンチェロッティ監督は、その予定を撤回してミランの攻撃的MFに起用。9月1日のアンコーナー戦でセリエAデビューを果すと、ルイ・コスタ、リバウド、レドンドらの大物をベンチに追いやってレギュラーの座を獲得する。
そしてトップ下でセカンドストライカーの役割を担うとともに、得点王を獲得したシェフチェンコ(24ゴール)をサポート。30試合10ゴールの活躍で5季ぶりのスクデット獲得に大きく貢献した。
翌04-05シーズンは36試合7ゴールの好成績を残すも、ユベントスのスクデット奪回を許してリーグ2位。だがチャンピオンズリーグでは2ゴール5アシストの活躍を見せ、2年ぶりの決勝進出に貢献する。
イスタンブールの悲劇
イスタンブールのアタトゥルク・スタジアムで行なわれた決勝戦は、プレミアの強豪リバプールとの戦い。開始わずか1分、ピルロのFKにマルディーニがボレーで合わせて先制。その後もミランが主導権を握り、39分にはカカのドリブル突破からクレスポが追加点。前半終了間際の44分にも、カカのスルーパスに反応したクレスポが3点目を挙げる。
3-0という一方的なスコアでハーフタイムを折り返し、誰もがミランの優勝を確信した後半の54分、ジェラードのヘディングゴールを許し2点差。ここからリバプールの猛反撃が始まった。
失点直後の56分、途中出場のスミチェルにミドルシュートを決められ1点差。4分後の60分にはキーパーと1対1になったジェラードを、ガットゥーゾが後ろから倒してPK。シャビ・アロンソのキックは一旦ジーダの好セーブで跳ね返すも、素早く詰められて同点。試合はわずか6分間で振り出しに戻ってしまった。
試合は延長戦に突入。延長終了直前にシェフチェンコが決定的なシュートチャンスを得るも、GKデュデクの神懸りセーブに阻まれ、勝負の行方はPK戦に持ち込まれた。
PK戦はデュデクのクネクネした動きに惑わされたか、ミランの2人目までが失敗。そのあとトマソンとカカが決めてどうにか食い下がるが、5人目のシェフチェンコがに止められ万事休す。ミランはビッグイアーをほぼ手中にしながら、「イスタンブールの悲劇」に沈んでしまった。
05-06シーズンは35試合14ゴールと入団以来最高の成績。しかしミランはリーグ戦の優勝を逃し、チャンピオンズリーグではバルセロナに敗れてベスト4。コッパ・イタリアも準々決勝で敗退し、タイトル無冠に終わった。
シーズン終盤の06年4月、“カルチョポリ”(カルチョ・スキャンダル)と呼ばれる大型不正疑惑が発覚。主犯格とされたユベントスは04-05、05-06シーズンのタイトルを剥奪されたうえ、セリエB降格。不正に関与したされるミランもペナルティーを受け、06-07シーズンはマイナス8ポイントからのスタートとなった。
名門の信用失墜に乗じてカカには国外クラブからの誘いがかかるが、チームを支えるブラジル人アタッカーはそのオファーを拒絶。ミランへの忠誠を誓った。
不発に終わった「カルテット・マジコ」
06年6月、Wカップ・ドイツ大会が開幕。ブラジルはカカら「カルテット・マジコ」の攻撃陣を擁して大会連覇を狙った。
G/Lの初戦はクロアチアと対戦。前半は厳しいマークに攻めあぐねるも、ハーフタイム直前の44分にカカが20m余りのシュートを決めて先制。第2戦はオーストラリアを2-0と下しベスト16進出を決める。
先発5人を入れ替えた第3戦は、日本を4-1と粉砕しグループを1位突破すると、トーナメント1回戦ではガーナに3-0の圧勝。しかし準々決勝ではフランスの堅守に自慢の攻撃陣が封じられ、見せ場もなく0-1の敗戦。大会連覇の野望はあっさり潰えてしまった。
前線に居座って動かないロナウド、左サイドのポジションで窮屈そうなロナウジーニョ、動きが単調でチャンスに絡めないアドリアーノと、「カルテット・マジコ」の併用は機能せず。唯一カカだけ調子の良さを見せたが、まとまりを欠いたチームで成果を残せず、不完全燃焼のまま大会を終えた。
個人タイトルを独占
06-07シーズンはペナルティーの影響を受けながらリーグ4位を確保。シェフチェンコの抜けたミランでカカは攻撃の中心となり、よりストライカーとしての性格を強めてチームを牽引した。
チャンピオンズリーグはペナルティーにより3次予選からの参加となったが、無事グループステージ進出。カカはハットトリックを記録するなど5得点を挙げて、グループステージ突破に貢献する。
決勝ステージでもカカが得点を重ねベスト4進出。準決勝で強豪マンチェスター・ユナイテッドと相まみえた。敵地での第1レグは、ユナイテッドが開始5分にC・ロナウドのゴールで先制。だがこのあとカカが立て続けに得点を決めて逆転。前半を2-1とリードして折り返した。しかし後半の59分にルーニーのゴールを許し同点。さらにアディショナルタイムに入ってルーニーの逆転弾を浴び、2-3と敗れてしまう。
それでも2つのアウェーゴールというアドバンテージを得たホームの第2レグは、開始からユナイテッドを攻め立てカカのゴールで先制。その後も2得点を追加し3-0の快勝、2戦合計5-3として決勝へ勝ち上がった。
アテネで行なわれた決勝は、因縁の相手であるリバプールとの再戦。試合開始から膠着した状態が続くも、ハーフタイム直前の45分にピルロのFKがインザーギの背中に当たりゴールイン。ミランが前半を1-0とリードして折り返す。
そして82分にはインザーギがDFラインを抜け出し2点目。終了直前にカイトのゴールで1点返されるも、このままミランが2-1の勝利。2年前のイスタンブールの雪辱を果し、ロッソネリが7度目のビッグイアーを掲げた。
大会得点王(10ゴール)の活躍でCL優勝の原動力となったカカは、最優秀FWとUEFA年間最優秀選手賞に選出。さらに日本で行なわれたクラブワールドカップでも、決勝でゴールを挙げて南米王者ボカ・ジュニアーズを4-2と撃破。これらの活躍でバロンドールとFIFA年間最優秀選手賞にダブルで輝くなど、個人タイトルを独占した。
3度目のワールドカップ
07-08シーズンも30試合15ゴールと好調さを維持。しかしこの頃からクラブの財政難が囁かれるようになり、09年1月にはプレミアの新興クラブ、マンチェスター・シティーから高額オファー。
この話はミラニスタの猛抗議により白紙となるが、同年6月にはレアル・マドリードへの移籍合意を発表。カカは惜しまれながらも6シーズンを過ごしたミラノを離れ、スペインへ活躍の舞台を移すことになった。
10年6月、Wカップ南アフリカ大会が開幕。スターシステムを排除したドゥンガ体制でもカカは外すことのできない人材。しかし脚の故障を抱え、コンディションは万全でなかった。
初戦は北朝鮮を2-1と下し、第2戦もコートジボワールに3-1の勝利。ブラジルは早くもグループ突破を決める。コートジボワール戦の開始2分にイエローカードを受けたカカは、終盤の88分に2度目の警告で退場。消化試合となった次のポルトガル戦を出場停止となった。
戦線に復帰したトーナメントのチリ戦は、得意のドリブル突破からL・ファビアーノのゴールをアシストするなど3-0の完勝に貢献。準々決勝のオランダ戦は、カカを中心とした多彩な攻めで1点をリードして試合の主導権を握るが、後半の53分にスナイデルのゴールで同点。
ここから流れが変わり、68分にCKからスナイデルのヘディングで逆転を許すと、73分にはロッベンを踏みつけたフェリペ・メロが一発退場。終盤の猛反撃も及ばずベスト8敗退となってしまった。
セカンドキャリアへの準備
大きな期待を背負ってレアルの一員となったカカだが、1年目から故障に苦しみ、W杯後の2年目は半月板の手術を受けて長期離脱を余儀なくされるなど、満足な働きを見せることができなかった。
それでも3年目の11-12シーズンは27試合5ゴールと復調気配。レアル4季ぶりのリーグ優勝に貢献する。しかし度重なる故障とメスト・エジルの台頭で出番を失ってゆき、13年9月にレアルを退団。古巣ミランへの復帰が決まった。
だが凋落傾向にあったミランでも輝きを放つことができず、1シーズンで契約解除。母国の古巣サンパウロへ期限付きの移籍をしたあと、15年からは北米MLSに新加入したオーランド・シティでプレー。クラブとの契約が終了した17年12月に35歳で現役を引退する。
ブラジル代表では14年間で92試合に出場、29ゴールを記録した。代表実績は3度のW杯出場のほか、2度のコンフェデレーションズカップ優勝に貢献。コパ・アメリカはクラブでの活動を優先したためか、1度も出場することはなかった。
引退後は指導者ライセンスを取得するほか、大学でスポーツマネジメントを履修。セカンドキャリアに向けての準備を進めている。