ウルグアイで開催されたワールドカップが大成功したことで、欧州各国の大会への関心も高まった。第2回大会は前回より大規模になるのは必至で、開催国に立候補したのはイタリアとスウェーデンの2ヶ国となった。
当時のイタリアは、ファシスト党総裁ベニト・ムッソリーニによる一党独裁国家だった。ムッソリーニはサッカー好きでもあったのだが、ワールドカップという祭典に大いなる宣伝価値を見いだしていた。そこで、イタリアサッカー連盟会長のジョルジョ・バッカロ将軍に「いかなる代償を払っても、ワールドカップの開催権を手に入れるように」と厳命する。
すでにFIFAは「独裁政権のプロパガンダに使われるのでは」という懸念を持っていたが、バッカロ将軍は「最終目的は、ファシストスポーツの偉大さを見せつけることである」と公言してはばからず、なりふり構わない招致活動を行なった。
8回にわたるFIFA総会で開催地を選ぶ協議が行なわれるが、32年5月の総会でスウェーデンが立候補を取り下げ、残る候補はイタリアだけになった。この時は開催地決定が保留となるも、5ヶ月後の理事会で正式にイタリア開催が決まる。
翌33年、ワールドカップ参加希望国の募集が行なわれ、最終的に32ヶ国からのエントリーがあった。この時、世界最強を自認する英国サッカー協会(FA=イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの4協会)はFIFAを脱退中で、ワールドカップには興味を示さなかった。
また第1回大会の覇者で開催国だったウルグアイは、前回多くの欧州チームが参加しなかったことへの意趣返しと、国中で選手たちのストが続いたことでイタリア大会に参加しなかった。日本も36年に開催されるベルリン五輪に目標を絞っていたため、エントリーを見送っている。
本大会の出場枠は16チームと決まり、地区予選を行なうことになった。当時まだ開催国枠がなかったので、イタリアも予選でギリシャを破って本大会出場を決めている。
他にワールドカップ出場を決めたのは、欧州ではチェコスロバキア、ルーマニア、オランダ、スイス、スウェーデン、ベルギー、ドイツ、オーストリア、フランス、ハンガリー、スペイン。南米はアルゼンチン、ブラジル。それと中北米を勝ち抜いたアメリカ、そしてアフリカ / アジア地区を勝ち抜いたエジプトの顔ぶれだった。
この頃のイタリア代表は「ムッソリーニのアズーリ」と呼ばれるような独裁者のチームで、ワールドカップ優勝は至上命題となっていた。その使命を果たすため使った手段が、アルゼンチン代表選手の引き抜きである。当時セリエAのユベントスやローマでプレーしていたモンティ、オルシ、グアイタというイタリア系の3選手に国籍を取得させ、アズーリのメンバーとした。
この当時は代表選手の規定が緩く、ナショナルチームの転籍が可能だったのだ。こうしたイタリアのやり方は批判を受けるが、監督のヴィットリオ・ボッツォは「ルールの範囲内だ」と涼しい顔。結局この3人が大会で貴重な働きを見せることになる。
開催国に並ぶ優勝候補は、名将ウーゴ・マイスル監督に率いられたオーストリア。知性と技術に優れた戦いで「ヴンダーチーム(驚きのチーム)」と呼ばれ、欧州屈指の強さを誇っていた。
だがこの時は少し最盛期を過ぎ、中心選手も高齢化していた。もう一つの優勝候補がスペイン。第二次大戦前で最も偉大なGKと言われたリカルド・サモラを擁する好チームだった。
前回準優勝国のアルゼンチンは、選手を引き抜かれた反発と、発足したばかりのプロリーグがシーズン中、という理由で2選級の選手を送り込んでいた。またブラジルもプロ選手を招集できず、アマチュアチームでの参加だった。
大会形式は、ウルグアイ大会のような予選リーグを行なわず、16チームのトーナメントによるノックダウン方式となった。こうして第2回ワールドカップは、34年5月27日に首都ローマのPNF(国家ファシスト党)スタジアムを始め、全国8ヶ所の会場で一斉に始まった。
大会に使用されたスタジアムは、いずれもファシスト党が好むようなギリシャ的なスタイルで飾られていた。ボローニャのスタジアムにはムッソリーニの騎馬像があり、トリノの会場はそのままムッソリーニの名前を冠するなど、まさに独裁者の偉容を喧伝するものだった。
トーナメント第一回戦を勝ち抜いたのはチェコ、スイス、スウェーデン、ベルギー、ドイツ、オーストリア、ハンガリー、スペイン、イタリアの欧州8ヶ国。はるばる船旅で米大陸からやってきたアルゼンチン、ブラジル、アメリカ、そして北アフリカから参加したエジプトは、1試合を戦っただけで帰国することとなった。
フィレンツェで行なわれた準々決勝のイタリア対スペイン戦は、ワールドカップ史に残るような長く激しい試合となった。イタリアはスペインの名キーパー、リカルド・サモラを潰しに来るなどラフプレーを繰り返したが、ベルギー人主審がファールを取らずゲームは次第にエキサイト化していった。
荒れ模様のゲームは、スペインが31分にFKを決めて先制するが、ハーフタイム直後にイタリアもFKのチャンスを得る。そしてGKサモラが弾いたこぼれ球を、フェラーリが拾いシュート、イタリアが同点に追いつく。イタリアの選手がオフサイドの位置にいてGKを妨害したと抗議するスペインだが、主審に聞き入れられることはなかった。
試合はこのまま延長に入るも決着は付かず、規定により翌日再試合が行なわれる事になった。ちなみにワールドカップでPK戦が採用されるのは、82年のスペイン大会からである。前日の荒れた試合のおかげで、スペインはGKサモラを含め7人の選手を入れ替えざるを得なかった。またイタリアにも骨折した選手がおり、4人の選手を入れ替えてきた。
ゲーム開始直後の5分、モンティによるラフプレーによりスペインのボシュが重傷を負ってしまう。当時は試合途中の選手交代が許されていなかったので、ボシュは立っているのがやっとの状態でプレーを続けた。
優位に立ったイタリアは12分、オルシのCKからジュゼッペ・メアッツアがヘディングシュートを決める。味方の肩を借りてジャンプしたメアッツァ選手のヘッドは物議を醸すが、ゴールはそのまま認められた。主審はスイス人が務めていたものの、イタリア寄りの判定は相変わらずだった。
先制されたスペインは猛反撃を開始。同点のシュートが決まったかと思いきや、主審によってゴールは取り消されてしまう。こうしてイタリアは1点を守り切り試合は終了、ワールドカップ史上最長となる210分の激戦にケリをつけた。負けたスペインのサモラは「これでイタリアが優勝しないなんて、考えられない」と、皮肉を込めた言葉を贈るしかなかった。
準決勝のカードは、イタリア対オーストリア、チェコ対ドイツという顔合わせ。事実上の決勝戦と言われたイタリアとオーストリアの試合は、ミラノのサンシーロ・スタジアムで行なわれた。イタリアは再試合となった準決勝から中一日の試合で疲労が残るも、雨でぬかるんだグラウンドは、繊細なパス回しを身上とするオーストリアに不利なものだった。
オーストリアは当時ヨーロッパ最高のFWと謳われたマティアス・シンデラーを擁していたが、モンティのマークが彼を完全に押さえこむ。その19分、グアイタの先制ゴールが生まれ、流れは完全にイタリアに傾いた。その後の反撃もイタリアが迫力を見せて守り切り、1-0で試合は終了。アズーリの決勝進出が決まった。
もう一つの準決勝は、チェコがFWネイエドリーの活躍とGKプラニーチカの好守でドイツを3-1と下し、イタリアと決勝を戦うことになった。
負けたオーストリアとドイツはこのあと3位決定戦を行ない、気落ちしたオーストリアにドイツが3-2と勝利する。当時のドイツは強靱な肉体と統制された組織力を持つものの、アイデアと決定力には欠けた中堅チームだった。そのため大会3位の成績を残せたのは、上出来の結果と言えた。
決勝のイタリア対チェコ戦は、大観客を集めて6月5日にローマのPNFスタジアムで行なわれた。貴賓席にはイタリア代表の試合を全て観戦してきたムッソリーニと、FIFA会長ジュール・リメの姿があった。また決勝はラジオの生中継も行なわれ、イタリア4千万人の聴取者がこの実況を固唾を呑んで耳を傾けた。
試合はイタリアがやや優勢に進めるも、両者慎重な戦いで膠着状態となる。無得点のまま試合が進んだ終盤の76分、チェコにプチュの先制点が生まれ会場は一気に静まりかえった。追いつきたいイタリアだが、焦りでプレーは正確性を欠き、ピンチが続く状況に観客席からはため息が聞こえてきた。
しかし81分、フェラーリのパスを受けたオルシが、巧みなフェイントでかわしループシュート。相手キーパーの頭上を越え、ゴールネットに飛び込んだ。起死回生の同点ゴールに観客は大歓声をあげ、試合は延長戦に突入する。
だが延長戦に入り、イタリアは主力のメアッツァが負傷。それでも彼は脚を引きずりながらプレーを続けた。油断したチェコが要注意選手へのマークを外した96分、フリーでボールを受けたメアッツァがグアイタにクロスを送る。そこからスキアヴィオにボールが渡り、DF網を突破してシュート。決定的な得点が生まれた。
このあと逃げ切ったイタリアは、2-1と勝利。至上命題だったワールドカップ優勝を成し遂げる。注目の得点王は、5ゴールを挙げたチェコのネイエドリーに輝いた。
そして閉会式では、貴賓席のムッソリーニが熱狂する観客に手を振るが、イタリアの手段を選ばないやり方や露骨な審判のジャッジは他国の不興を買い、アズーリの実力も疑われた。
しかしムッソリーニはWカップの絶大な宣伝効果に満足、ドイツで政権を握ったばかりのアドルフ・ヒトラーに影響を与える。そして2年後に開催されたベルリン五輪も、ナチス・ドイツのプロパガンダに利用されることになった。