サイレントノイズ・スタジアム

サッカーの歴史や人物について

ワールドカップの歴史 第3回フランス大会(1938年)

「戦争の足音」

 

 

開催国決定を巡る欧州と南米の紛糾

第3回ワールドカップの開催地を決めるFIFA総会は、1936年8月にオリンピックが開催中だったベルリンで行なわれた。立候補したのはフランスとアルゼンチン。アルゼンチンは第1回大会で準優勝に終わった雪辱を果たすべく、強く自国開催を訴える。

 

また世界大会は南米と欧州で交互に開かれるべきだとの主張も、南米諸国の支持を集めていた。しかしFIFAが選んだのは、会長ジュール・リメの母国フランス。リメ会長の意向が強く働いたこともあるが、やはりFIFAは欧州重視の組織だったのだ。

 

落選したアルゼンチンは憤慨し、南米諸国も不満を露わにする。そして大会をボイコットする南米チームが続出、或いは予選にエントリーしても試合を棄権した。その結果、ボイコットへ参加しなかった南米のブラジルと北中米のキューバは予選を行なわずに、ワールドカップへの出場が決まった。

 

欧州では、開催国・優勝国枠が初めて設けられ、フランスとイタリアは予選を免除された。そして欧州予選にエントリーした22ヶ国(含むエジプト)をグループ分けして戦い、本大会出場を決めたのがハンガリー、スイス、ドイツ、ルーマニアオーストリアスウェーデンポーランドチェコスロバキア、オランダ、ベルギー、ノルウェーである。

 

だが依然として英国4協会(FA)はFIFAを脱退中。前大会イタリアと死闘を演じたスペインは、フランコ反乱軍と政府の内戦が激化したため予選に参できなくなっていた。

 

第3回 フランス大会開幕

アジア地区では、日本が初めてワールドカップ予選にエントリーする。そしてアジアの出場枠1を、もう一つのエントリー国・オランダ領インド(現インドネシア)との2ヶ国で争うことになった。しかしアジア予選を目前にした37年7月に、日華事変が勃発。中国との戦争に突入した日本は大会参加を取りやめた。

こうして出場16ヶ国が出揃ったが、1938年3月にヒトラーナチスドイツがオーストリアを併合。大会本場3ヶ月前に、欧州最強の「ヴンダーチーム」は消滅してしまった。チームの象徴、マティアス・シンデラーはナチスの反ユダヤ人政策を忌避し、併合後にガス自殺を遂げたと伝えられている。

この時点ですでに大会トーナメント戦の組み合わせが決まっていたが、急遽の事態にオーストリアの対戦予定だったスウェーデンは不戦勝となった。

不穏な情勢が続く6月4日、フランスワールドカップが始まり、開幕戦となるドイツ対スイスの試合が行なわれた。ドイツは消滅した「ヴンダーチーム」から5人の選手を補強しており、オーストリアに代わって前回王者イタリアと並ぶ優勝候補のひとつとして名乗りを上げていた。

試合前の国歌吹奏時にドイツは、スイスチームにナチ式の敬礼を要求。スイスは敢然とこれを拒否した。するとナチ嫌いのフランス人観客からの声援に押され、スイスは奮闘。1-1の引き分けで再試合となる。再試合は5日後に行なわれ、前半は実力に勝るドイツが2-1とリードする。しかし後半にスイスが猛反撃、怒濤の3連続得点でドイツを4-2と下した。

実のところ生真面目な職人気質のドイツ人と、即興を好む芸術肌のオーストリア人ではタイプが正反対で、チームは融合していなかったのだ。この敗北を教訓に、ヒトラーは科学的なスポーツアカデミーを設置。指導者の養成にも務めるが、皮肉にもその成果が現われるのは戦後になってからである。

一回戦で敗北したドイツに代わり、俄然注目を浴びるようになったのが、南米から唯一参加を果たしたブラジル。ブラジルは4年前にプロリーグを発足、3回目のワールドカップで初めてベストメンバーを組んできた。

そのチームの中心となるのが、CFレオニダス・ダ・シウバとSBドミンゴス・ダ・ギアの黒人選手二人。レオニダスは「黒いダイヤモンド」と呼ばれ、黒人選手特有のしなやかな球捌きは、当時欧州のサッカー人を驚かせている。

ブラジル第1回戦の相手はポーランド。ブラジルは開始18分にレオニダスが先制点を挙げるが、すぐにポーランドに追いつかれる。試合は打ち合いの展開で4-4の同点となり延長に突入。そこからレオニダスが2得点を記録し、終了直前に1点を返されたものの、大接戦の末ポーランドを6-5と振り切った。

続く準々決勝のチェコスロバキア戦は、『ボルドーの戦闘』と呼ばれるワールドカップ史上最も荒れた一戦となった。開始直後、ブラジルのゼゼが暴力的なプレーで退場処分。ブラジルは一人少なくなったものの、30分にレオニダスの先制点が生まれる。

その後もブラジルのラフプレーは続き、殴り合いも発生。チェコは主力のネイエドリーとプラニーチカが骨折、さらにブラジルの2名、チェコの1名が退場処分になるという大荒れの内容だった。

それでも後半チェコがネイエドリーのPKで追いつき、延長戦に突入。しかしこの日は決着がつかず、1-1の引き分けで再試合となった。5日後の試合にブラジルは9人、チェコは5人を入れ替えて再戦。今度はチェコが23分に先制した。

しかし56分、またもやレオニダスがゴールを決めると、60分にはロベルトのボレーシュートで逆転する。怪我人が続出したチェコに追いつく力は残されておらず、2-1と勝利したブラジルが準決勝に進んだ。

 

裏目に出たレオニダスの温存

大会2連覇を狙うイタリアを率いるのは、4年前と同じヴィットリオ・ポッツォ監督。ポッツォは前回の優勝直後から、次大会に向けて高齢化する選手の入れ替えを図っていた。そのボッツォが抜擢した若手の一人が、CFのシルビオ・ピオラ。ピオラは長身でヘディングが強く、俊足で運動量の多い万能選手だった。

こうしてアズーリは大胆な若手への切り替えがなされ、前回の優勝経験者は主将ジュゼッペ・メアッツアとフェラーリの二人だけとなっていた。しかしそんな若いチームの経験不足が出たのか、初戦のノルウェーでは苦戦を強いられることになる。

ワールドカップ初出場のノルウェーは、アマチュアチームで臨んできていた。イタリアは格下チームに早い時間で先制点を挙げるが、その後は膠着状態。モタモタしているうち、終盤の82分に追い着かれてしまう。それでも延長に入ると、ようやくピオラに得点が生まれ、2-1と薄氷の勝利を収めた。

準々決勝の相手は開催国フランス。今大会のハイライトとなる試合だった。この対戦はパリのコロンブ・スタジアムに、超満員となる5万9千人の観衆を集めた。その会場の周りは、10万を超える市民で溢れたと言われている。

試合は9分、さっそくイタリアが先制するが、直後の10分にフランスが点を取り返す。その後一進一退の展開が続くも、同点で折り返した後半の51分、ロングパスを受けたピオラが俊足で抜け出しての勝ち越し点を決める。さらに72分、味方の折り返しをピオラがヘディング、追加点となりフランスを3-1で撃破した。

こうして勝ち上がったイタリアの準決勝の相手はブラジル、事実上の決勝戦になると思われた。この大事な試合にブラジルは8人の選手を入れ替えて臨むが、その中にはエースのレオニダスも含まれていた。

ブラジルは延長・再戦を含め、3試合の激しいゲームが続いていた。そして準決勝のイタリア戦は、わずか中一日の試合。ブラジルはレオニダスの疲労を考慮し、絶対的エースを休養させることになったのだが、この判断には疑問の声が上がる事になる。

前半イタリアはゴール前に厚い壁を築き、ブラジルの攻めをことごとく跳ね返す。その粘り強い守りに、ブラジルの集中が切れた後半55分、コラウシが俊足を飛ばして先制点。流れは完全にイタリアに傾いた。その5分後、ドミンゴスが彼の横を抜き去ろうとするピオラを蹴り上げ、PKを献上する。それを主将のメアッツァが確実に決め、イタリアが優位に立った。

その後ブラジルの反撃を終了間際の1失点に抑え、イタリアが2-1と勝利。2大会連続の決勝進出を決めた。当時は選手交代が許されていなかったので、劣勢になってもレオニダスがピッチに立つことはなかった。

この後ブラジルはスウェーデンと3位決定戦を行なう。そしてこの試合に出場したレオニダスの2得点などで、ブラジルはスウェーデンを4-2と下し大会3位。レオニダスは大会通算得点を7まで伸ばし、得点王に輝く。

 

イタリアの大会連覇

勝戦は6月19日、パリのコロンブ・スタジアムで行なわれた。イタリアと決勝を戦うのは、ハンガリー。得点力の高いチームではあったが、組み合わせに恵まれて上がってきた感があった。

開始6分、イタリアはハンガリーからボールを奪うと一気に速攻をかける。そして相手陣内でボールを受けたメアッツァが、走り込んできたコラウシにパス。鮮やかな先制点が生まれた。直後には同点とされるが、15分にメアッツァのお膳立てからピオラがゴールを奪うと、35分にもコラウシが追加点を決めた。

前半を3-1で折り返すと、後半イタリアは余裕の戦いを展開する。70分には「ハンガリーの英雄」と呼ばれるジョルジ・シャロンのゴールで1点を返されるが、82分にピオラが豪快なシュートを蹴り込みダメ押し点。こうしてイタリアはハンガリーを4-2と下し、大会2連覇を達成した。

前回の地元開催優勝では、あからさまな工作が不興を買ったが、今回は紛れもない実力を見せつけた。アズーリはこの勝利で、4年前に「カップ泥棒」と呼ばれた汚名を返上したのだ。

そしてイタリア2連覇に貢献した主将メアッツァはその功績を讃えられ、所属クラブのホームであるサンシーロ・スタジアムに『ジュゼッペ・メアッツァ』の愛称が冠せられる。

また5得点と大活躍したピオラもその後順調にキャリアを重ね、イタリア史上最高のストライカーと呼ばれることになった。

 

 
この大会前のFIFA総会で、ドイツとブラジルが42年のワールドカップ開催国に立候補。大会終了後、アルゼンチも立候補の準備をしていることを表明した。

しかし翌1939年9月、ナチスドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発。風雲急を告げる事態にワールドカップは中止となり、このあと大会は12年間の空白を余儀なくされてしまう。

 

rincyu.hateblo.jp

rincyu.hateblo.jp