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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》レフ・ヤシン(ソビエト)

 

「モスクワの黒い蜘蛛」

高い身体能力でアクロバティックなセービングを見せ、鋭い反応で至近距離からのシュートを阻止。ペナルティーエリアを飛び出しての守備範囲の広さは、「スイーパー・キーパー」の先駆けとなった。190㎝近い長身と長い手足、濃い色のユニフォームから「黒蜘蛛」の異名で呼ばれたのが、レフ・ヤシン(Lev Ivanovich Yasin )だ。

 

1949年に入団したディナモ・モスクワでは、アイスホッケーのゴールキーパーとしても活躍。54年にサッカーで正GKの座を奪うと、ソ連リーグ優勝5回、ソ連カップ優勝3回など数々のタイトル獲得に貢献。63年には、現在でもキーパーとして唯一となるバロンドールを受賞する。

 

ソ連代表では、56年メルボルン五輪の金メダル獲得に大きく貢献。60年の第1回・欧州選手権にも出場し、ソ連を初代チャンピオンに導く。W杯メンバーには4度選出。58年スウェーデン大会の準々決勝、66年イングランド大会の準決勝進出に大きな役割を果す。最後となった70年ブラジル大会での出番はなかったが、チームの精神的支柱となった。

 

スポーツ万能の少年

レフ・ヤシンは1929年10月22日、首都モスクワ郊外のボゴロツコエ地区に、錠前職人の息子として誕生した。母親は早くに結核で亡くなってしまうが、のちに父親が再婚してボリヤという名の弟が生まれている。ミリオンナヤ通りにある共同住宅で親族と共に暮らす大家族の中で育ち、そのアパートの中庭で近所の友達とサッカーをして遊ぶ毎日を過ごす。

少年時代から「エッフェル塔」と呼ばれたように背が高く、サッカー、バレー、バスケット、ボクシング、陸上、水球、飛び込み、冬にはアイスホッケーやスキー、スケートとスポーツ万能。さらにフェンシングやチェスでも学校チャンピオンに輝き、「自分でも何が一番得意なのか分からなかった」とのちに振り返るほどの多彩な才能を誇っていた。

だが11歳のときに祖国がナチスドイツの侵攻(大祖国戦争)を受け、一家は父親が働く工場の労働者とともにウリヤノフスク近くの村へ避難する。そして13歳となった43年の春には軍需工場へ駆り出されることになり、旋盤工としての見習いを始める。

しかし戦争奉仕のため少年に課せられた工場労働は苛酷なもの。食糧事情も悪く、療養生活を強いられてしまう。ヤシンの父親は疲れ果てて帰宅する息子に、煙草を与えてストレスを和らげさせた。この喫煙習慣は生涯続くことになり、彼の健康を害する要因となっていく。

ドイツ軍がソ連から撤退した44年に国内リーグが再開すると、モスクワに戻ったヤシンは工場のサッカーチームに入団。仕事のあとの時間をピッチで過ごした。当初はフィールドプレーヤを務めるが、背が高かったためキーパーへ転向する。

18歳となった47年のある日、根が真面目なヤシンは蓄積されたストレスからうつ病を患い、「私の中の何かが突然壊れた」ことで工場への出勤を拒否。自宅へ閉じこもるようになってしまった。

しかし工場の無断欠勤は当局から罪に問われる恐れがあり、チームメイトの助言に従って兵役へ志願。内務省の国内軍に配属されたヤシンは、軍隊と繋がりの深い総合スポーツクラブ、ディナモ・モスクワにスカウトされ入団する。

 

遅咲きの守護神

ディナモ・モスクワではアイスホッケーのゴールキーパーとしてプレーし、49年には潜在能力を見込まれてサッカー部門にも所属。だがチームには、45年の英国遠征で観客を魅了して「タイガー」と呼ばれたアレクセイ・ホミッチが守護神に君臨。彼から正GKの座を奪うのは至難の業だった。

50年のプレシーズンマッチ、ローターヴォル戦でチャンスを与えられてゴールマウスを守るも、Pエリアへ飛んできたボールを拾おうとして味方にぶつかるアクシデント。ボールは無人のゴールへ転がり1点を失ってしまう。

痛恨のミスだったが、それでも第3キーパーとしてトップチームに残留。そして50年シーズンが始まると、ホミッチの怪我と第2キーパーの病欠が重なり、ヤシンに千載一遇のチャンス。50年1月のスパルタク・モスクワ戦でトップリーグデビューを果す。

しかしこのデビュー戦でヤシンは前回と同じミスを犯してしまい、試合は1-1の引き分け。続くディナモ・トリビシ戦で最後のチャンスを与えられるが、前半で4-1とリードしながら、後半ヤシンのファールでPKを与えるなどミスが重なり4失点。どうにか敗戦は逃れたものの、ヤシンはリザーブチーム降格となってしまった。

このあと2年間リザーブチームでの下積みを余儀なくされ、一時はサッカーを断念することも考えたヤシンだが、彼を後継者と考えるホミッチに励まされて猛練習に取り組む。アイスホッケーではソビエトカップ優勝に貢献して代表候補にもなるが、サッカーへ集中するため氷上を離れることを決意する。

そして53年に23歳でトップチーム再昇格を果すと、リーグ戦13試合に出場。ソビエトカップでは5試合に出場して優勝に寄与した。翌54シーズンはホミッチがスパルタク・モスクワへ移籍したこともあり、正GKの座を獲得。24試合に出場してチームの4季ぶりとなるリーグ優勝に貢献する。

GKの守備範囲が限定されていた当時にあって、運動能力に優れていたヤシンはPエリア全体をカバー。時に果敢に飛び出して攻撃の起点となった。この斬新なプレーは当初物議を醸したが、やがて「革新的スタイル」を確立したという称賛へと変わっていった。

 

黒蜘蛛の世界デビュー

ソ連代表には54年に初招集され、9月8日の親善試合スウェーデン戦で初キャップを刻む。そのあとスイスW杯王者である西ドイツや準優勝のハンガリーとの親善試合でも好守を見せ、代表の守護神に定着。56年のメルボルン五輪メンバーにも選ばれる。

ステートアマの東欧諸国が大半を占めた五輪サッカー競技でソ連は決勝へ進み、最後はユーゴスラビアを1-0と下して同競技初の金メダル。ヤシンは5試合中4試合でゴールマウスを守り、チームの失点をわずか2つに抑えて金メダル獲得に大きく貢献した。

ヤシンの鋭い反応と高い運動能力、そして守備範囲の広さは世界に強い印象を与え、この年から創設されたバロンドールでは、マシューズ、ディ・ステファノ、レイモン・コパ、プスカシュに続く第5位の票を集めた。そして特徴的な長い手足と黒ずくめ(実際は濃紺色)のユニフォーム、俊敏な動きで「黒蜘蛛」「黒豹」などのニックネームで呼ばるようになる。

 

欧州初タイトル

ディナモ・モスクワは55年、57年とソ連リーグ優勝のタイトルを獲得。守護神のヤシンは持病となった胃潰瘍に苦しみながらも、高いパフォーマンスでゴールを守り続けた。

メルボルン五輪で金メダルを獲得したソ連代表は、このあと始まったW杯欧州予選にも初めて参加。グループリーグで首位に並んだポーラーンドをプレーオフで2-0と下し、W杯初出場を決める。

58年6月、Wカップスウェーデン大会が開幕。初戦のイングランド戦は前半で2点をリードするも、後半66分にケヴィンのヘディングゴールを許して1点差。終盤の85分にもトム・フィーニーのPKで同点とされ、2-2の引き分け。真の世界大会の難しさを味わうことになった。

第2戦はオーストリアに2-0と快勝し、第3戦は南米の雄ブラジルと対戦する。ヤシンは再三の好セーブでブラジルを苦しめるが、この試合でW杯デビューを果したペレとガリンシャが躍動。2失点を喫して敗れてしまった。それでもヤシンはブラジル戦で12もの美技を連発し、「彼からゴールを奪うのは不可能だ」と当時17歳のペレを感嘆させたという。

1勝1敗1分けとなったソ連は、3引き分けのイングランドと勝点3で並び、決勝トーナメント進出を決めるプレーオフが行なわれる。68分にソ連が先制すると、相手の反撃にヤシンが立ち塞がりゴールを死守。イングランドとのプレーオフを1-0と制してベスト8に進む。

準々決勝では地元スウェーデンと対戦。プレーオフからわずか中一日の試合でソ連の動きは鈍かったが、ヤシンの頑張りでどうにか前半を0-0。しかし後半48分にハムリンの先制点を許すと、終盤の87分にはシモンソンに追加点を決められ0-2。ついに力尽きてしまった。

だがW杯敗退の雪辱を果すチャンスは、その2年後に訪れる。60年に創設された欧州ネイションズ・カップ(別名アンリ・ドロネーカップ。のち欧州選手権)にソ連も参戦。予選を勝ち抜いた4ヶ国がフランスでの本大会に臨み、ソ連は準決勝でチェコスロバキアと対戦。ヤシンは相手にゴールを割らせず3-0の完勝。決勝へと駒を進めた。

決勝を戦ったのは、メルボルン五輪でも優勝を争ったユーゴスラビア。前半終了直前の43分、相手クロスが味方DFをかすってゴール。不運な形で先制点を与えてしまった。それでも後半立ち上がりの49分に追いついて延長に持ち込むと、113分にソ連のポネデリニクが決勝弾。2-1と勝利したソ連が初代欧州王者に輝く。

ヤシンはボラ・コスシッチの2本のFKを防ぐなど安定したセーブでチームのピンチを救い、ソ連の初となるビッグタイトル獲得に貢献。大会ベストイレブンにも選出され、名実ともに世界最高のキーパーと認められるようになる。

 

復活のバロンドール受賞

62年5月、2度目となるWカップ・チリ大会に出場。欧州王者のソ連は優勝候補の一角にも数えられていた。初戦は好敵手ユーゴスラビアに2-0と勝利。続くコロンビア戦は前半で3-1とリードしながら、後半に追いつかれて4-4の引き分け。68分にはCKから転がってきたボテボテのボールを、ヤシンが連携ミスにより見逃しゴールを許すという失態。32歳となった守護神の不調が囁かれた。

それでも第3戦で難敵ウルグアイを2-1と下し、首位突破を決めて2大会連続のベスト8進出。準々決勝では地元チリと対戦した。前半11分、左45度からの何でもないFKを決められ早くも失点。27分に同点へ追いつくも、直後の28分に25mのロングシュートを叩き込まれて再びリードを許す。

いつものヤシンなら難なく止めていた2本のシュートだったが、試合中に2度も脳震盪を起こすなどパフォーマンスは低調。ベスト8敗退の戦犯とされ、ソ連マスコミのスケープゴートとなってしまう。

帰国したヤシンには批判の声が浴びせられ、自家用車に落書きをされたり、脅迫状を送られたりと心ない嫌がらせ。精神的に追い詰められたヤシンは引退まで考えるようになるが、コーチの勧めでしばらくモスクワを離れて休養する。

1ヶ月後の復帰戦では観客から激しいヤジを受けるも、立ち直ったヤシンは毅然とした姿で安定したプレーを披露。スタンドのブーイングにも屈しなかった。

その汚名を晴らす機会はすぐにやってきた。63年10年、FA創立100周年を記念したイベントマッチの世界選抜メンバーとして、ウェンブリー・スタジアムへ招待。イングランド代表との試合で前半のみの出場だったが、ジミー・グリーブスの強烈なシュートを阻止するなど再三の好セーブ。「黒蜘蛛」健在を強く印象づけた。

これで自信を取り戻したヤシンは、ディナモ・モスクワでも守護神の座を奪い返し、27試合6失点という驚異の堅守で完全復活。クラブ4季ぶりのリーグ優勝に大きく貢献し、この年のバロンドールに輝く。ゴールキーパーとしては今もなお史上唯一の受賞という、最高の栄誉だった。

 

スポーツマンシップのお手本

ソ連は64年の欧州ネイションズカップで2大会連続となる決勝に進出。決勝では地元スペインに1-2と敗れて大会2連覇を逃すが、ヤシンは前回に続いてベストイレブンに選ばれる。

66年7月、Wカップイングランド大会が開幕。チーム最年長の36歳となっていたヤシンは初戦で先発を外れるも、子分格の北朝鮮を3-0と一蹴。イタリアとの第2戦は経験豊富なヤシンが守護神を務め、強敵を1-0と撃破する。第3戦は怪我で再びベンチに戻るが、チームは前回敗れたチリに2-1とリベンジ。3戦全勝で3大会連続のベスト8に進む。

準々決勝のハンガリー戦は、ヤシンが先発に復帰。相手キーパーのミスにより前半で2点をリードするも、後半57分にフェレンツ・ベネのゴールを許して1点差に迫られる。終盤の80分にはラコーシに決定的なシュートを撃たれるが、ヤシンが驚異的なセービングでピンチを阻止。ソ連が2-1と逃げ切り、初のベスト4へ勝ち上がる。

準決勝は西ドイツと対戦。試合は双方が闘志むき出しの荒れ模様となり、開始早々にソ連MFサボが負傷で退場。当時は選手交代が許されていなかったため、ソ連はいきなり数的不利を強いられることになった。

44分に先制点を奪われると、それに苛立ったMFチスレンコがラフプレーで一発退場。ソ連は9人での戦いを余儀なくされる。後半68分にはベッケンバウアーのゴールで2点差。そんな崩壊の瀬戸際にあったチームを救ったのは、守護神のヤシンだった。

ヤシンは熱くなる両チームの中、ただ一人冷静にプレー。的確な守備陣への指示と、持ち前の堅守で追加点を許さない。いきり立って荒いタックルを仕掛けてくる西ドイツFWには、指を振って諭さとす仕草で相手にせず、スポーツマンシップの姿勢を貫いた。

終盤の88分には果敢に攻めて1点を返し、試合には敗れたが、劣勢から一矢を報いて準決勝を終えた。3位決定戦ではエウゼビオ擁するポルトガルに1-2の敗戦を喫するも、ソ連の最高成績となるW杯4位の実績。ゴードン・バンクスディノ・ゾフら名手の手本となった。

 

病気と闘った晩年

欧州選手権」と改称された68年の欧州大会でソ連は4位に入るが、すでにキャリアのピークを過ぎていたヤシンがゴールを守ることはなかった。

それでもソ連が70年メキシコW杯への出場を決めると、ガチャリン監督は40歳のヤシンをメンバー招集。ヤシンは自ら申し出て第3キーパーとアシスタントコーチの役割を受け持ち、出番はなくともソ連の4大会連続となる決勝トーナメント進出に貢献した。

70年末、現役からの引退を発表。14年間の代表歴で74キャップを刻んだ。21年を過ごしたディナモ・モスクワでは公式戦358試合に出場、代表と合わせて275ものクリーンシートを達成したと言われている。

翌71年5月に行なわれた引退試合にはペレ、ゲルト・ミュラーエウゼビオボビー・チャールトンベッケンバウアーファケッティ、ルバンスキーら世界中のスター選手が駆けつけ、会場となったレーニン・スタジアムには10万人もの観客が集まった。収益からヤシンには莫大な報酬が支払われたが、その大半は孤児のために寄付されたという。

現役引退後はディナモ・モスクワに残り、20年近くサッカー部門やホッケー部門の責任者を務めた。そのあとソ連スポーツ界の要職を歴任して後進の育成に尽力するも、晩年には心臓病や脳卒中などの難病に苦しめられるようになる。

86年には血栓性静脈炎を発症して右足を切断。試合の緊張を和らげるためのウォッカと、長年のヘビースモーカー習慣が彼の健康を蝕んでいたのだ。

そして90年には若い頃からの持病である胃潰瘍が、いつしか悪性の腫瘍へと変性。同年3月21日、胃がんにより60年の生涯を閉じる。ソ連の英雄は国葬で見送られたあと、モスクワ市内の墓地で永遠の眠りについた。