
「ロッソネロの魂」
抜群の戦術眼を備え、的確かつ冷静な状況判断でディフェンスラインを統率。ボールを奪ってからの押し上げで攻撃の組み立て役も担った。その卓越した守備能力とプレーメーカーとしての働きで、イタリアが生んだ世界最高のリベロと言われたのが、フランコ・バレージ( Francheschino Baresi )だ。
14歳で名門ACミランの門を叩き、37歳で引退するまでそのキャリアを「ロッソネロ」で貫いた硬骨のバンディエラ。アリゴ・サッキ監督の唱える “ゾーンプレス戦術” の要となり、80年代後半から90年代半ばまでのミラン黄金期を最後尾から支えた。若手時代からクラブのリーダーとなり、「偉大なカピタン」と呼ばれた。
イタリア代表では長い間ガエターノ・シレアの控えに甘んじるも、自国開催となった90年W杯ではレギュラーとして7試合に出場。鉄壁守備陣の一翼を担い、アズーリを3位に導く。94年W杯にはキャプテンとして出場。G/Lで手術を受けるほどの重傷を負いながら、ブラジルとの決勝で執念の戦線復帰。しかしPK戦に敗れて優勝を逃してしまう。
フランコ・バレージは1960年5月8日、北イタリアのトラヴァリアート郊外にある農場の家で生まれた。熱狂的なミラニスタ一家で育ったバレージは、二人の兄とともにプロサッカー選手を目指しての練習に励む。
まず長兄のアンジェロがACミランのセレクションに合格。続いて次兄のジュゼッペがミランのセレクションに挑むが、運悪く失敗。そのあと同じ都市のライバルクラブ、インテル・ミラノのセレクションを受けて合格となった。
最後は三男のフランコがミランとインテルのセレクションに挑戦。細身で小柄だった身体を理由にインテルを不合格となるが、希有な守備センスが認められてミランのテストは合格。プリマヴェーラ(ジュニアチーム)に入団を果たすことになったフランコ・バレージは、「ロッソネロ」(ミランのクラブカラーからの愛称)一筋の道を歩み始めた。
そしてプリマヴェーラでもすぐに注目を浴びるようになり、18歳となった78年にトップチーム昇格。同年4月のヴェローナ戦でセリエAデビューを飾る。プロ1年目はベンチ要員として公式戦3試合の出場にとどまったが、その意思の強さ、戦術理解度の高さで、当時の主将ジャンニ・リベラから「この少年は長く活躍する選手になるだろう」と評価された。
その言葉通り、2年目には若手とは思えない自身と落ち着きでレギュラーの座に定着。78-79シーズンは公式戦40試合に出場し、リーグ優勝を果たしたチームの立役者の一人となった。
だがその栄光も一転。翌80年に「トトネロ」と呼ばれるイタリア・サッカー界の八百長スキャンダルが発覚すると、ミランもその不正への関与が疑われた。そして79-80シーズンは3位で終えたにも関わらず、司法判断で有罪とされセリエBへの降格処分を受けてしまう。
この降格処分に加え、クラブの財政状況も悪化。主力たちは次々とチームを離れていゆき、バレージのもとにも数々のオファーが舞い込むが、ミランへの忠誠を誓う彼は残留を選択した。
バレージが残ったミランは、80-81年シーズンにセリエBを制覇、セリエAへの復帰を果たした。しかし弱体化していたチームは復帰した81-82年シーズンを14位と低迷、再びセリエBへ降格することになってしまう。
この窮地に、弱冠22歳にしてミランのカピタン(キャプテン)を任されることになったバレージ。ユベントスやインテルからの誘いを断り、クラブ復活の機会を待つことになる。83年、ミランは再びセリエAに復帰。シーズンをどうにか8位で乗り切り、残留に成功。バレージは苦闘するクラブを支え、リーダーとしての地位を着々と築いていった。
翌85-86シーズンにミランは5位と健闘。しかし財政難にあえいでいたクラブは、シーズン終了後に経営破綻してしまう。そこに登場したのは、「イタリアのメディア王」と呼ばれたシルヴィオ・ベルルスコーニだった。ベルルスコーニは破綻したミランを買収し、経済力をバックに名門クラブの再建に乗り出す。
新生ミランの監督には、当時まだ無名だった新進気鋭のアリゴ・サッキを招聘。さらにフリット、ファン バステン、アンチェロッティ、ドナドーニといった能力の高い選手たちをかき集め、チームの強化を図った。そしてバレージはサッキ監督が唱えるプレッシングサッカーの担い手となり、「世界最高のリベロ」としてチームを躍進させる。
87-88シーズン、新加入ライカールトら「オランダトリオ」の活躍もあって17勝2敗11引き分けの好成績を残し、マラドーナ率いるナポリを破って9年ぶりのスクデットを獲得する。マルディーニ、コスタクルタ、タソッティと形成する守備ラインは鉄壁。リーグ30試合でわずか14失点しか許さなかった。
翌88-89シーズンは3位に終わるも、チャンピオンズカップでは決勝に進出。ステアウア・ブカレスト(ルーマニア)を4-0と一蹴し、20年ぶり3度目となる優勝。カピタンとしてチームを統率したバレージは、栄光のビッグイアーを掲げた。その顕著な活躍により、この年のバロンドール投票ではファン バステンに続く2位の得票を集めている。
翌89-90シーズンのチャンピオンズカップも、決勝でベンフィカ(ポルトガル)を1-0と破って大会を連覇。さらにトヨタカップでも89年、90年と連覇の偉業を成し、鮮やかな復活劇を遂げた「ロッソネロ」は黄金期を迎えた。
イタリア代表には80年に20歳で初招集され、同年の欧州選手権メンバーに兄のジュゼッペとともに選ばれる。2年後の82年W杯スペイン大会にもメンバー招集。44年ぶりの優勝を果したチームの一員となったが、当時のアズーリにはイタリア最高のリベロと称されたガエターノ・シレアがいたため、若きバレージの出番はなかった。
代表初キャップを刻んだのは、82年12月に行なわれた欧州選手権予選のルーマニア戦。だがイタリアは予選敗退を喫し、バレージもシレアからポジションを奪うほどの存在感を見せられなかった。
84年にはロサンゼルス五輪に出場して4位入賞を果したものの、86年W杯メキシコ大会はメンバー落選。ボランチとして3試合に出場した兄ジュゼッペの姿を、フィールドの外から見守るだけだった。
86年W杯を最後にシレアがアズーリを引退。その後釜のリベロとして27歳のバレージがようやく代表レギュラーに定着。88年2月の親善試合、ソ連戦でPKによる初得点を記録する。
そしてマルディーニ、ジャンジーニ、ヴィアリらの新戦力を加えたイタリアは、88年6月の欧州選手権(西ドイツ開催)に出場。バレージは4試合すべてに先発して準決勝進出に貢献した。
90年6月、自国開催となるWカップ・イタリア大会が開幕。G/L初戦は新星スキラッチのゴールで1-0の白星スタート。第2戦はジャンジーニの先制点でアメリカに1-0と勝利し、第3戦はスキラッチとロベルト・バッジオの得点でチェコスロバキアに2-0の快勝。ホスト国が順調に首位突破を果す。
そしてトーナメントの1回戦もウルグアイを2-0と完封。準々決勝はスキラッチの決勝点でアイルランドを1-0と下し、ベスト4へ進出する。DFバレージ、ベルゴミ、マルディーニ、GKゼンガらで築く守備陣は盤石。ここまでの5試合で対戦相手に1点も許さなかった。
準決勝の相手は前回王者のアルゼンチン。マラドーナがホームとするナポリで行なわれたゲームは、前半17分にスキラッチの4試合連続ゴールで先制するが、後半67分にはカニーヒアにヘディングゴールを決められ同点。イタリアの連続無失点時間は517分で途絶えてしまった。
試合は1-1のまま延長戦を戦っても決着はつかず、勝負の行方はPK戦へ。1人目に登場したバレージはPKを決めて役目を果すが、4人目のドナドーニと5人目のセレナがGKゴイゴチェアの好セーブに阻まれて失敗。開催国は決勝進出を逃してしまった。
決勝へ進むことができなかったイタリアだが、3位決定戦でイングランドを2-1と破って開催国の面目を保った。7試合2失点の堅守に大きな役割を果したバレージは、大会のベストイレブンに選出される。
91-92シーズン、ミランはファビオ・カペッロ新監督のもとでセリエA初の無敗優勝を達成。翌92-93シーズンはリーグ連覇を果すが、チャンピオンズリーグ(チャンピオンズカップから改称)決勝ではマルセイユ・オリンピックに敗れて、3季ぶりの戴冠はならなかった。
93-94シーズンは「オランダトリオ」が姿を消しながらも、サビチェビッチ、マッサーロ、ボバン、デサイー、アルベルティーニと新たな戦力を揃えてリーグを3連覇。CLでは2季連続の決勝へ進む。
決勝の相手はヨハン・クライフ監督率いるバルセロナ。ロマーリオやストイチコフを擁するバルサの強力な攻撃陣に対し、ミランは守備の要であるバレージとコスタクルタが累積警告で出場停止。戦前は圧倒的不利が予想された。
だが開始2分にマッサーロのゴールで先制すると、前半ロスタイムにもマッサーロが追加点。後半立ち上がりの47分にサビチェビッチが3点目を挙げ、58分にはデサイーがダメ押し点。リーガ4連覇中の「ドリームチーム」を4-0と粉砕し、ミランが5度目の戴冠。欧州最強チームの実力を示した。
91年にアリゴ・サッキがイタリア代表監督に就任するも、92年の欧州選手権予選では不覚をとって本大会出場を逃してしまう。92年8月から始まったW杯欧州予選でも苦戦を強いられるが、最終戦でポルトガルを振り切って9大会連続の出場を決める。
94年6月、Wカップ・アメリカ大会が開幕。だが初戦のアイルランド戦を0-1と落としてしまい、苦しいスタートとなった。
続く第2戦はノルウェーと対戦。この試合でもアズーリたちは精彩を欠き、前半21分にはGKパリウカがPエリア外に飛び出して、相手の得点機をファールで阻止。それによりパリウカが一発退場となると、第2キーパーとの交代でエースのロベルト・バッジオがベンチに下げられる。
10人での戦いを強いられた後半49分、守備の要でキャプテンであるバレージが、膝の半月板損傷という重傷を負って退場。窮地に追い込まれたイタリアだが、69分にディノ・バッジオがCKから殊勲の決勝弾。どうにか1-0の勝利を収めた。
だが重傷を負ったバレージの次戦以降の欠場が決定。リーダー不在となったイタリアに暗雲が漂った。それでもメキシコとの最終節を1-1で引き分け、グループ3位ながらどうにかベスト16に進出。バレージの穴をマルディーニやコスタクルタ、タソッティらミランの同僚がカバーして埋め、イタリアがついに決勝へと勝ち上がる。
決勝の相手はブラジル。アメリカに残ってニューヨークでの内視鏡手術を受けたバレージは、ファイナルに間に合わせて執念の戦線復帰。決してコンディションは万全でなかったが、読みの深さと統率力でロマーリオ、べべトーの強力2トップを完封。延長となった決勝を0-0で終え、優勝を懸けたPK戦に臨む。
先攻となったイタリアの一番手は主将のバレージ。しかし負傷明けの疲労と、炎天下での120分が響いてすでに身体は限界。足の痙攣を抑えながら蹴ったボールは、クロスバーの上を越えていった。
このあとブラジル1番手マルシオ・サントスのキックをパリウカが止めるが、イタリア4人目のマッサーロがPKを外し、5人目のR・バッジオも失敗。W杯の栄冠はアズーリの手をすり抜けていった。
失意のまま最後のW杯を終えたバレージは、同年9月の欧州選手権予選・スロベニア戦を最後に代表を引退。12年間の代表歴で81試合に出場、1ゴールを挙げている。
94-95シーズン、ミランは3季連続となるCL決勝に進出。バレージは主将としてCLファイナルの大舞台に立ったが、勢いに乗るアヤックスに0-1と敗れて、4度目のビッグイアーを掲げることはできなかった。
このシーズン限りでの引退を決意したバレージだが、周囲の慰留を受けて撤回。95-96シーズンはリーグ戦30試合に出場して2季ぶりのスクデット獲得に貢献する。
そして翌96-97シーズン終了後、体力の衰えを理由に37歳で現役を引退。20年を過ごしたACミランでは公式戦719試合出場の記録を残す。ミランはクラブのバンディエラとして黄金期を支えたバレージの功績に敬意を表し、彼の背番号6を永久欠番とした。
引退後はミランの副会長に就任。2002年にはイングランドのフルハムでテクニカルディレクターを務めたが、ジャン・ティガナ監督との間に緊張関係が生じて数ヶ月で辞任。ミラン復帰後は下部組織の指導にあたり、その後マーケティング部門の仕事にも携わった。
2017年4月、ミランの隆盛期を築いたオーナーのベルルスコーがクラブの経営権を売却。ミランのレジェンドであるバレージは、新オーナー「エリオット・マネジメント Co.」のもとでクラブの名誉会長を務めている。