「世紀のベストゴール」
スピード、フィジカル、テクニック、センス、決定力とすべてを兼ね備え、80年代のサッカー界を席巻したスーパーストライカー。類い稀なる能力で次々とゴールを陥れ、数々の名場面をつくった。その活躍でチームに多くのタイトルをもたらしたオランダの名選手が、マルコ・ファン バステン( Marcel van Basten )だ。
オランダの名門アヤックスでプロ生活のスタートを切り、17歳の若さでトップチームデビュー。以降の5年間で4度のエールディヴィジ得点王に輝き、リーグ優勝や国内カップ優勝に貢献する。87年にはACミランへ移籍。フリット、ライカールトとの「オランダトリオ」で、チームの黄金期を築いた。
オランダ代表では、88年の欧州選手権で得点王の活躍。決勝のソ連戦では「世紀のベストゴール」を決め、同国に初のビッグタイトルをもたらした。この年を含めて3度のバロンドールに輝くも、慢性的な足首の故障に悩まされ、30歳での現役引退を余儀なくされる。
ファン バステンは1964年10月31日、オランダ中央部に位置する都市のユトレヒトで3人兄弟の末っ子として生まれた。本来のファーストネームはマルセルだが、祖母が発音しやすい「マルコ」で呼んだため、それが通名となった。
父親のユップは、当時エールディヴィジのFCユトレヒトでディフェンダーとしてプレーするプロサッカー選手。その遺伝子を受け継いだマルコは、6歳で地元クラブのEDOに入団。ここで才能の輝きを見せると、10歳でより環境が整ったFCユトレヒトへ移籍。チームのコーチを務める父親の指導を受け、さらに力を伸ばしていった。
だが成長期にある15歳のとき、足首に異常を感じて医師の診断を仰ぐ。その診断結果は、「このまま競技レベルのサッカーを続けていたら、車椅子生活を送ることになる」と深刻なもの。しかしファン バステン親子はこの忠告に従うことなく、ユトレヒト最大のクラブであるUSVエリンベイクのユースチームに加入。違和感を抱えながらレベルアップを目指してのトレーニングに励んだ。
するとその名はすぐに知られるところとなり、16歳となった80年にアヤックス・アムステルダムからスカウト。ファン バステンはエリンベイクのチームメイトであるファネンブルグと共に、オランダきっての名門クラブへ移籍する。
アヤックのアカデミーで1年を過ごし、シーズンが終盤を迎えた82年4月のNEC戦でトップチームのベンチ入り。憧れであるヨハン・クライフとの交代で出場を果すと、たちまち初ゴールを記録。弱冠17歳の若者が大器の片鱗を見せた。
翌82-83シーズンに正式なトップチーム昇格。代表FWのヴィム・キーストとポジションを争いながら、20試合9ゴールの成績。チームのエールディヴィジ2連覇とKNVBカップ(オランダカップ)優勝に貢献する。
そしてプロ2年目の83-84シーズン、レギュラーの座を掴んで26試合28ゴールとブレイク。19歳にしてリーグ得点王に輝く。翌84-85シーズンも22ゴールを挙げて連続得点王。2季ぶりのリーグ優勝に大きな役割を果した。
85-86シーズン、フェイエノールトで現役を終えたクライフが監督(肩書きはテクニカル・ディレクター)としてアヤックスに復帰。ファン バステンはレジェンドのもとでさらにプレーを磨き、26試合37ゴールの大活躍。3年連続の得点王とともに、欧州リーグ最多得点者に与えられるヨーロッパ・ゴールデンブーツを獲得。トップスコアラーの名声を確立する。
86-87シーズンも31ゴールで得点王の座をキープすると、KNVBカップでも6ゴールを挙げて連覇に貢献。さらに欧州カップウィナーズ・カップでも得点を重ね、チームを初の決勝へ導く。決勝ではドイツのライプツィヒと対戦。試合はファン バステンが前半に先制点を決め、このまま逃げ切って1-0の勝利。アヤックスに13年ぶりとなるヨーロッパタイトルをもたらした。
しかしこの頃から、騙し騙しやってきた足首の痛みが悪化。試合中に怪我を負ったことから、86年12月には大きな手術を受ける。だが足首の故障は完全に治ることなく、固いテーピングとアイシングでケアをしながらのプレー。キャリアを通じてこの痛みに悩まされ続けることになった。
83年のワールドユース選手権で活躍するなど早くから注目されていたファン バステンは、同年9月7日のアイスランド戦で18歳にしてA代表デビュー。2週間後のベルギー戦で初ゴールを記録する。
このまま代表に定着し、翌月の欧州選手権予選・アイルランド戦では2歳上のルート・フリットとともにゴールを決め、3-2の勝利に貢献した。
次戦では強敵スペインを2-1と下し、勝点で並ぶも得失点差で首位を奪取。最後のマルタ戦も5-0と快勝して予選突破を確実にしたかに思えたオランダだが、このあと最終戦を残していたスペインがマルタに12-1とまさかの大勝。オランダは得失点差での逆転を許し、予選グループ敗退。ファン バステンのメジャー大会デビューはお預けとなった。
84年5月から始まったW杯欧州予選では、苦戦しながらも2位を確保するが、プレーオフでベルギーに破れて敗退。オランダはファン バステン、フリット、フランク・ライカールト、ロナルド・クーマンと若い人材を揃えながら、78年W杯以降の低迷から抜け出せずにいた。
カップウィナーズ・カップ制覇を果した87年の夏、セリエAのACミランから破格条件のオファー。ファン バステンは6年を過ごしたアヤックスを離れ、PSVのフリットとともにイタリアへ渡る。
80年の八百長スキャンダル以来、2部落ちするなど低迷期にあったミランダだが、86年に「イタリアのメディア王」ベルルスコーニがクラブを買収。豊富な資金力をバックに有力選手を集め、監督には当時無名のアリゴ・サッキを招聘。彼のゾーンプレス戦術に名門再建を託した。
その87-88シーズン、序盤こそ出遅れたミランダだが、試合を重ねてリーグ戦を快走。そしてシーズン終盤には、最大5差をひっくり返してマラドーナ擁するナポリを逆転。9季ぶりのスクデット獲得となった。
しかし万能MFとして優勝に大きく貢献したフリットに対し、前年から続く足首の故障に苦しむファン バステンは、リハビリによる長期離脱を余儀なくされて11試合3ゴールと期待を裏切る成績。それでも優勝を争うナポリとの直接対決では、途中出場での決勝ゴールで意地を見せた。
86年4月、74年W杯でオランダを準優勝に導いた名将リヌス・ミケルスが代表監督に復帰。ミケルス監督は低迷するオレンジ軍団を立て直し、同年9月から始まった欧州選手権予選を首位突破。オランダが雌伏の時を経て、8年ぶりとなる国際舞台へ戻ってきた。
88年6月、西ドイツで行なわれた欧州選手権が開幕。しかし足首の故障に苦しんでいたファン バステンは、欧州選手権予選で2ゴールと不調。本大会ではサブ扱いとなり、予選9ゴールのジョン・ボスマンに先発の座を明け渡す。
サブナンバーの12番を与えられてプライドを傷つけられたファン バステンは、荷物をまとめて帰ろうとする(クライフにそそのかされたとも・・)も、ミケルス監督に説得されて思い留まる。
ファン バステンがベンチスタートとなった初戦は、ソ連に0-1の完封負け。続くイングランド戦でボスマンに代わって先発に起用されると、鬱憤を晴らすかのような大活躍。ハットトリックを決めてサッカーの母国を3-1と沈めた。
第3戦はアイルランドを1-0と退け、グループ2位突破。準決勝の相手は開催国の西ドイツとなった。オランダにとって西ドイツは、74年W杯決勝と80年の欧州選手権で苦杯を舐めさせられた因縁の相手。雪辱を狙いたい宿敵だった。
しかし試合は西ドイツのペースで進み、54分にはローター・マテウスにPKを決められ先制を許してしまう。反撃の糸口を掴めないでいたオランダだが、73分にファン バステンと競りあったユルゲン・コーラーのタックルがファールとなり、PKを獲得。これをクーマンが決めて追いつく。
そして終了間際の88分。スルーパスに反応したファン バステンが、右足ダイレクトシュートを叩き込んで決勝点。鮮やかなゴールでファイナル進出を決めた。
決勝はG/L初戦で破れたソ連が相手。エースの復調を受け躍動するオランダは、32分のCKのチャンスにファン バステンが頭で折り返し。フリットの先制弾が生まれた。
さらに53分、ミューレンが左サイドからロングクロスを送ると、ボールはゴール前を大きく横切りファーに走り込んだファン バステンのもとへ。角度のない位置から強烈なボレーシュートが放たれ、ボールはわずかな隙間を突き抜け反対側のネットを揺らした。サッカーの歴史に残る「世紀のベストゴール」だった。
こうして知将ヴァレリー・ロバノフスキー監督率いるトータル・サッカーのソ連を2-0と打ち破り、オランダは国際メジャー大会のタイトルを初めて獲得。5得点を挙げたファン バステンは大会得点王に輝き、その活躍で同年のバロンドールにも選出された。
88-89シーズン、欧州選手権の勢いのままに33試合19ゴールの活躍。チームにはアヤックス時代の同僚であるライカールトが加わり、フリットとの「オランダトリオ」が形成された。
リーグ優勝はインテル・ミラノに譲ったものの、チャンピオンズカップでは20年ぶりの決勝へ進出。決勝ではファン バステンとフリットがそれぞれ2得点を挙げ、ゲオルゲ・ハジ擁するステアウア・ブカレスト(ルーマニア)に4-0の圧勝。クラブ3度目のビッグイアーを掲げた。
優勝の立役者となったファン バステンは大会10ゴールで得点王に輝き、その顕著な活躍で2年連続のバロンドールにも選ばれる。
翌89-90シーズンは26試合19ゴールでセリエA初の得点王。チャンピオンズカップでも前年に続いて決勝へ進み、ライカールトのゴールでベンフィカを1-0と下して大会連覇。トヨタカップも2年連続で制した。ファン バステンは黄金期を迎えたACミランのエースストライカーとして、その名を世界に轟かせていった。
88年8月から始まったW杯欧州予選では、同組となった西ドイツを上回り首位突破。3大会ぶりのW杯出場を決めた。90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。優勝候補にも挙げられていたオランダが、直前の監督交代劇や内紛などでチームの雰囲気は決して良くなかった。
それに影響されたのか、プレーの精彩を欠いたファン バステンは、グループリーグ3試合でノーゴール。エースの不振でオランダも3引き分けと勢いに乗れず、グループ3位でようやく決勝トーナメントに進む。
トーナメント1回戦の相手は因縁の西ドイツ。会場は「オランダトリオ」のミランがホームとするサンシーロ・スタジアムだった。
試合はライカールトと西ドイツのフェラーとの間で揉み合いが始まり、22分には両者2枚目のイエローカードを受けて退場。攻守の要を失ったオランダは劣勢を強いられ、クリンスマンとブレーメのゴールを許してしまう。
終了直前にクーマンのPKで1点を返すも、結局1-2の敗戦。優勝候補のオランダは1勝もできずにあえなく敗退となり、活躍を期待されたファン バステンも無得点のまま大会を去って行った。
90-91シーズンは31試合11ゴールの成績に終わり、3季連続でスクデットを逃したサッキ監督が退任。翌91-92シーズンにファビオ・カペッロが監督に就任すると、輝きを取り戻したファン バステンは31試合25ゴールの活躍。2季ぶりの得点王に輝くとともに、スクデットを奪還。FIFA年間最優秀選手と3度目のバロンドールにも選ばれ、クライフ、プラティニの偉業に並ぶ。
90年9月から始まった欧州選手権予選でも好調さを見せ、8ゴールを挙げて首位突破に貢献。ディフェンディングチャンピオンとして、92年欧州選手権(スウェーデン開催)に臨んだ。
グループステージでは統一後のドイツと同組になるも、新鋭ベルカンプの活躍などで1位を確保。順当に決勝ステージへ進む。
準決勝では伏兵デンマークと対戦。開始5分にラーセンのゴールで先制されるが、23分にベルカンプが同点弾。しかし33分に再びラーセンの得点を許し、1点のビハインドで終盤を迎える。
そして終了時間が迫った86分、右CKのチャンスからフリット、ファン バステンとボールが繋がり、最後はライカールトが起死回生の同点ゴール。ゲームは延長戦にもつれた。
戦いは延長戦でも決着がつかず、勝負の行方はPK戦へ。PKは両チーム1人目がきっちり沈め、先攻オランダの2人目にファン バステンが登場。だがコーナー左を狙ったキックは名手シュマイケルの好セーブに防がれ、ゴールならず。このあとデンマークの4人全員がPKを成功させ、オランダの敗退が決定。大会2連覇の夢は叶わなかった。
92-93シーズンも好調なスタートを切ったかに思えたが、無理を重ねた足首はすでに限界へ近づいていた。骨の擦れ合う痛みで日常の歩行も困難な状態となり、3度の手術も症状の進行を止めることができなかった。
そして93年5月に行なわれた第1回チャンピオンズリーグ決勝のマルセイユ戦。0-1とリードされて迎えた終盤、相手DFのタックルを受けたファン バステンが痛みを悪化させ途中退場。このままマルセイユに初代CL王者を許してしまう。
このあと4度目の手術を受けるも、もはや回復の見込みはなく、2年間のリハビリ期間で1度もピッチに立つことなく過ごした95年8月、30歳の若さで栄光のキャリアに終止符を打った。
8年を過ごしたミランで公式戦201試合に出場、124ゴールの記録を残した。10年間の代表歴では58試合に出場し、24ゴールを挙げている。
引退後は趣味のゴルフに取り組むなど悠々自適の生活を送っていたが、03年に古巣アヤックスのアシスタントコーチとして現場復帰。その1年後の04年7月にはオランダ代表監督に就任する。
ファン バステン監督はクライファート、セードルフ、ダーヴィッツ、マカーイらそれまでの主力をレギュラーから外し、チームを刷新。同年8月から始まったW杯欧州予選では、無敗の快進撃でオランダを2大会ぶりの出場に導く。
06年ドイツW杯では「死のグループ」を勝ち抜いて大会ベスト16の成績。ユーロ08(オーストリア/スイス共催)ではベスト8敗退となり、大会終了後に退任。その後アヤックスやヘーレンフェーンなどで監督を務めた。現在はFIFAの技術アドバイザーとして活動している。