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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》エンツォ・フランチェスコリ(ウルグアイ)

 

リーベルの王子」

イデアとテクニックを駆使してさまざまな状況を打開し、アクロバティックなプレーでサポーターを熱狂させた攻撃のカリスマ。たぐいまれなゴールセンスを持ち、細身で端正なルックスとその華麗なプレーから「エル・プリンシベ(王子)」と呼ばれたのが、エンツォ・フランチェスコリ( Enzo Francescoli Uriarte )だ。

 

80年代にアルゼンチンの名門リーベル・プレートで大活躍し、クラブをリーグ優勝に導いて数々の個人タイトルにも輝く。そのあとフランスやイタリアの欧州リーグで活躍。優雅で流れるようなボール捌きで、マルセイユ時代には若きジダンに「永遠のNo.1」と憧れられる存在となった。

 

ウルグアイ代表では、チームの攻撃をリードして3度のコパ・アメリカ優勝に貢献。86年と90年のW杯でもベスト16に進出にした。しかし同世代のマラドーナと並ぶ南米屈指の選手と目されながら、W杯では本来の力を出せず存在感を示せなかった。

 
南米の若きスター

フランチェスコリは1961年11月12日、首都モンテビデオのバリオ・カプロ地区でイタリア系中産階級の家に生まれた。6歳のときに地元のジュニアチームでプレーを始め、早くから抜群のテクニックで注目される。

モンテビデオの名門ペニャロールのトライアルを受けたこともあったが、「エル・フラコ(やせっぽち)」とあだ名された線の細さと、内気な性格で不合格となってしまう。

その後学校のクラブチームに参加し、2度の全国優勝に貢献。その活躍が認められ、14歳の時にプリメーラ・ディビシオンウルグアイ1部リーグ)に所属するモンテビデオ・ワンダラーズからスカウトされる。

80年に18歳でトップチームデビューを果たすと、それからの3シーズンで74試合20ゴールを記録。国内2強であるペニャロールとナシオナルの壁に阻まれタイトル獲得はならなかったが、リーグ2位やコパ・リベルタドーレス出場など大きな実績を残した。

若きフランチェスコリのエレガントなプレースタイルは、ワンダラーズのサポーターを魅了。クラブレジェンドであるハンニバル・チョッカが持っていた「エル・プリンシベ(王子)」の愛称を受け継ぐ。

また81年には南米ユース選手権に出場し、大会MVPの活躍で優勝に貢献。やがてその名前は南米中に知られるようになり、83年にはアルゼンチンの名門リーベル・プレートへ移籍する。

移籍1年目の83シーズンは、プレッシャーや怪我で調子が上がらず27試合11ゴールの成績。試合中に緊張してしまうフランチェスコリは、口の渇きを防ぐためいつもガムを噛んでいたという。

それでもリーベルの環境に慣れると、その高い能力を遺憾なく発揮。かつての名選手ルイス・クビジャが監督に就任した84シーズンは49試合29ゴールと爆発し、初のリーグ得点王を獲得。前年18位に低迷したチームを、2位へと浮上させる原動力となった。こうして代表での活躍と合わせて、23歳の若さで南米年間最優秀選手賞に選ばれる。

ウルグアイ代表の新星

A代表には83年に21歳で初招集。10月に行なわれたコパ・アメリカ準決勝のペルー戦で代表デビューを飾る。ホーム&アウェーの2戦合計でペルーに2-1と勝利し、ウルグアイは3大会ぶりとなる決勝へ進出した。

決勝の相手はブラジル。ホームでの第1戦をフランチェスコリの先制点で2-0と勝利すると、アウェーの第2戦は1-1の引き分け。16年ぶり(8年の中断期間あり)の優勝に大きく貢献したフランチェスコリは、近年低迷するウルグアイ期待の新星として注目を浴びた。

85年3月からはW杯南米予選が開始。3チームで対戦するグループ予選は激戦となったが、ウルグアイは勝点で並んでいたチリを最後の試合で下し、3大会ぶりとなるW杯出場を決める。

86年6月、Wカップ・メキシコ大会が開幕。G/L初戦は前大会準優勝の西ドイツを1-0とリードしながら、終盤の84分に失点を喫して惜しくも引き分け。第2戦で欧州の新興勢力、デンマークと戦う。

開始11分にエルケーアの先制ゴールを許すと、41分にも失点。前半終了直前にフランチェスコリがPKで1点を返すも、後半はデンマークの勢いに押されて防戦一方となってしまう。

52分にはミカエル・ラウドルップにDFラインを突破されて3失点目。このあとエルケーアにハットトリックを達成され、終了直前にもダメ押し点を決められ1-6の惨敗。過去2度の優勝を誇る古豪のプライドは打ち砕かれてしまった。

最終節のスコットランド戦も低調な内容で0-0と引き分けるが、どうにか24チーム中の16位以内を確保して決勝トーナメント進出を果す。

トーナメントの1回戦は南米のライバル、アルゼンチンと対戦。W杯では、自国ウルグアイで開催された第1回大会の決勝以来となる対戦だった。だが圧倒的なプレーで試合を支配するマラドーナを止められず、0-1の敗戦。対するフランチェスコリは見せ場なく終わり、1歳年上の好敵手との貫禄差を思い知らされることになった。

 

欧州への挑戦

リーベル3年目の85-86シーズン(この年から秋/春の1シーズン制へ移行)、37試合28ゴールと好調なフランチェスコリは2季連続の得点王。チームを5年ぶりの優勝へ導く。

リーベルでも「エル・プリンシベ」と呼ばれ、サポーターに愛されたフランチェスコリだが、アルゼンチン経済不況のあおりを受けてクラブの経営が悪化。リーベルフランチェスコリを手放さざるを得なくなる。

そして86年夏、「リーベルの王子」は在籍3シーズンで113試合に出場し、68得点という成績を残してフランスのラシン・パリへ移籍した。フランチェスコリのいなくなったリーベルだが、リーグ優勝の勢いままコパ・リベルタドーレスを初制覇、同年のトヨタカップでも優勝している。

ラシンの1年目は35試合14ゴールとそれなりの成績を残すも、リトバルスキールイス・フェルナンデス、ダビド・ジノラといった有名選手をかき集めたチームの歯車は合わず、リーグ13位と低迷する。

このあともラシンの不振は続き、投資に見合わない成績で低迷するチームに業を煮やしたスポンサーが降板。経営破綻が噂された3年目の88-89シーズンはついに17位へと沈み、2部リーグ降格。89-90シーズンには、当時ディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)で隆盛を極めていたオリンピック・マルセイユに移籍する。

この時のマルセイユはJPパパン、アベディ・ペレバシール・ボリ、ディディエ・デシャンクリス・ワドルらを擁するスター軍団。フランチェスコリもスター選手の一人として89年のリーグ優勝に貢献するも、いまひとつ力を出し切れずに不本意なシーズンを送った。

そして90年のチャンピオンズカップ準決勝、ベンフィカ戦でミスを連発。マルセイユは決勝進出を逃してしまう。戦犯の一人と非難されたフランチェスコリは、チーム戦術に馴染めなかったこともあり、1シーズンで強豪クラブを離れることになった。

それでもマルセイユ時代に見せたエレガントさは、当時ASカンヌで下積み時代を送っていたジダンに感銘を与えている。

 

代表での苦闘

87年6月、アルゼンチン開催(ホーム&アウェイ方式は廃止)のコパ・アメリカに出場。ディフェンディングチャンピオンウルグアイは準決勝からの参加となった。その準決勝ではフランチェスコリのアシストから決勝ゴールが生まれ、マラドーナ率いるアルゼンチンを1-0と撃破。W杯の雪辱を果す。

決勝の相手はチリ。試合は荒れた展開となり、開始14分にチリDFのゴメスが2枚目のイエローで退場。その27分には、集中攻撃を受けたフランチェスコリが報復行為で一発レッド。このあとウルグアイが1-0と勝利して大会2連覇を達成するが、試合終盤にも双方1人ずつ退場者を出すなど後味の悪い結果となってしまった。

89年7月にはブラジル開催のコパ・アメリカに出場。1次リーグから参戦したウルグアイは、アルゼンチンに続く2位で決勝リーグへ進出。決勝リーグ初戦のパラグアイ戦をフランチェスコリの先制点などで3-0と快勝すると、続くアルゼンチン戦も2-0の勝利。

マラカナン・スタジアムで行なわれた最終戦は、地元ブラジルと優勝を争う一戦となったが、ロマーリオの先制ゴールを許して1-0の敗戦。大会3連覇はならなかった。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。フランチェスコリはキャプテンマークを巻いて2度目の大舞台に臨んだ。

初戦はスペインと0-0で引き分けるも、第2戦では数的優位となりながらベルギーに0-3の完敗。最終節も韓国相手に苦戦を強いられるが、後半ロスタイムに起死回生の決勝弾。ギリギリで16位以内を確保し、決勝トーナメントへ進んだ。

しかしトーナメントの1回戦ではホスト国のイタリアに0-2の敗戦。フランチェスコリのプレーは精彩を欠き、大舞台でその実力を発揮することなく2度目のW杯を終えた。

W杯後、リーベル時代の指揮官でもあるルイス・クビジャが代表の新監督に就任。しかしクビジャ監督はなぜか欧州でプレーする選手を敵視し、「奴らは傭兵だ」と挑発。これにフランチェスコリら欧州組が反発し、91年のコパ・アメリカをボイコット。主力を失ったウルグアイは4大会ぶりとなる1次リーグ敗退を喫してしまう。

 

リーベルの王子」の復活

マルセイユを退団後、イタリアのカリアリへ移籍。カリアリでは代表チームメートであるホセ・エレーラやダニエル・フォンセカと合流。セリエA昇格を果したばかりのチームで、フランチェスコリは目玉選手と期待された。

カリアリではチームのゲームメークを担い、最初の2シーズンは14位、13位と苦戦するも、3年目の92-93シーズンは6位の好位置確保に大きな役割を果す。これで使命を果したフランチェスコリは、UEFAカップ出場権獲得を置き土産にして、93-94シーズンはトリノと新たな契約を交わした。

しかしトリノでのパフォーマンスは芳しくなく、24試合3ゴールの成績。33歳となり欧州での戦いを終えることにしたフランチェスコリは、Jリーグ横浜マリノスへの移籍も噂される中、古巣リーベル・プレートへ復帰する。

すでにピークを過ぎたと思われたフランチェスコリだが、復帰した1年目から27試合17ゴールの活躍。8年ぶりとなる得点王を獲得し、前期リーグ優勝(90年から前後期制を採用)に貢献。こうして再び「リーベルの王子」の輝きを取り戻す。

翌95-96シーズンも好調さを維持し、優勝したコパ・リベルタドーレスでは19試合13ゴールの大活躍。キャプテンとしてチームをまとめ、オルテガクレスポソラーリ、ソリン、アルメイダ、アジャラらの若い選手たちをリード。南米クラブ王者の立役者となり、南米年間最優秀選手とアルゼンチンリーグ最優秀選手の個人タイトルをダブル受賞する。

95年12月にはトヨタカップユベントスと対戦。試合は惜しくも0-1で敗れてしまったが、自分を敬愛するジダンとの直接対決が実現した。

96-97シーズンも31試合19ゴールと絶好調。コパ・リベルタドーレス2連覇は逃すが、前後期リーグを完全制覇。新たにスーペルコパ・スダメリカーナ(歴代南米チャンピオンを集めたスーパーカップ)のタイトルを加え、36歳にしてキャリアの絶頂期を迎えた。

 

雪辱のコパ・アメリカ優勝

93年に代表復帰したフランチェスコリだが、クビジャ監督との関係は修復せず、同年のコパ・アメリカエクアドル開催)に招集されるも出場はなし。ウルグアイはベスト8敗退に終わった。

W杯南米予選で先発復帰するが、依然チームは大苦戦。ブラジルとの予選最終戦で敗退が決定し、クビジャ監督から「あの男は裏切り者だ。パスポートを取り上げるべき」といわれなき非難を浴びせられたフランチェスコリは、ひとり悔し涙を流したという。

95年7月には自国開催のコパ・アメリカが開幕。監督が交代して息を吹き返したエースは、予選リーグで2得点を挙げて1位突破に大きく貢献。決勝トーナメントも快調に勝ち上がり、3大会ぶりのファイナルへ進む。

決勝の相手は94年W杯チャンピオンのブラジル。前半30分に先制を許すも、後半の51分に同点へ追いつく。このあと延長120分を戦っても決着はつかず、勝負の行方はPK戦に持ち込まれた。

先攻のブラジルは3人目が失敗。後攻のウルグアイは1人目のフランチェスコリを始め5人全員がPKを決め、4大会ぶりとなる南米の頂点に立った。キャプテンとしてチームを牽引したフランチェスコリは大会MVPに選出。クビジャ監督時代の鬱憤を晴らし、高々と優勝トロフィーを掲げた。

謙虚なスター選手

コパ・アメリカのあと代表からの引退を表明するが、96年から始まったW杯欧州予選で苦戦するチームのため復帰。しかし力及ばず敗退を喫してしまい、97年に正式に代表を引退する。実質13年間の代表歴で73試合に出場、17ゴールの記録を残した。

それから間もない98年2月、怪我に苦しんでいたフランチェスコリは36歳で現役引退を表明。翌年に行なわれた引退記念試合には、アルゼンチンのカルロス・ムネス大統領やウルグアイのフリオ・サンギネッティ大統領も臨席した。

10代の頃からスター選手だったフランチェスコリだが、決して驕ることなく、常に謙虚でスキャンダルとも無縁だったという。引退後はサッカーの現場から離れ、現在は主に実業家として活動している。