「アンデスのペレ」
柔らかなボールタッチと天才的な足さばきのドリブルで、対峙する者を幻惑。ショートパスやワンツーから狭い地域を抜け出し、強烈なシュートでゴールを陥れた。ペルーでは唯一3度のWカップに出場し、南米が生んだ最高の選手の一人とされるのが、テオフィロ・クビジャス( Teófilo Juan Cubillas Arisaga )だ。
その少年のような顔立ちから「エル・ネネ(坊や)」の愛称を持つが、多彩で正確なキックを駆使してのミドルパスやシュートは威力抜群。Wカップで挙げた通算10得点は、南米選手の中でブラジルのロナウド(15点)とペレ(12点)に次ぐ3番目の記録である。
またPKやフリーキックの名手としても知られ、Wカップ78年大会のイラン戦でPK2本を含むゴールでハットトリックを達成。そのあとのスコットランド戦で決めた、左足アウトにかけた芸術的なフリーキックは、大会一美しいシュートと賞賛された。
クビジャスは1949年3月8日、首都リマ北部のプエンテピエドラ地区で生まれた。少年時代からサッカーの才能を発揮したクビジャスは、地元アリアンサ・リマの下部組織でプレー。主力として65年と66年の国内ユース選手権2連覇に貢献した。
その活躍が認められ、17歳でトップチームデビュー。早くも最初のシーズンで19ゴールを記録してリーグ得点王を獲得し、神童ぶりを発揮した。翌68年にはペルー代表に招集され、7月17日のブラジル戦で初出場を果たし、Wカップ南米予選のメンバーにも選ばれた。
この時のペルー代表監督は、ブラジル人のバウジール・ペレイラ。通称 “ジジ” と呼ばれた元セレソンの司令塔である。58年と62年のWカップではカナリア軍団の頭脳として、大会連覇に重要な役割を果たした名選手だった。
ジジは精密なパスの達人で、ボールキープのスタイルはエレガントそのもの。「フォーリャ・セッカ(枯れ葉)」と呼ばれた鋭く落ちるフリーキックでも知られ、若きクビジャスはその名人技を受け継ぐ事になる。
個人技に優れていたペルー代表だが、奔放で攻撃的なサッカーは組織力に欠け、チームとしての実力はいまひとつ。1930年のWカップ第1回大会に参加したあとは、南米予選敗退や棄権を繰り返し、世界の大舞台とは縁遠いままだった。
ペルー代表の変革を図るジジ監督は、ワンツーを基本にしたコンビネーション・プレーの確立に着手。ブラジルが得意とした壁パスのノウハウを叩き込んだ。こうして力をつけたペルー代表は、南米予選で古豪アルゼンチンを撃破。40年ぶりとなるWカップ出場を果たしたのである。
70年、21歳のクビジャスも代表メンバーに選ばれ、Wカップ・メキシコ大会に出場する。だが予選リーグの初戦を控えた2日前、ペルーで大地震が発生。死者5万人の大被害となった。ペルー選手は腕に喪章をつけて初戦のブルガリア戦に臨み、試合前には1分間の黙祷が捧げられた。
しかしその重い雰囲気が影響したのか、ブルガリアに2本のFKを決められ、ペルーは劣勢に立たされる。そこでジジ監督は選手交代で攻撃を活性化、クビジャスも巧みなドリブルで反撃を始める。すると50分、55分と立て続けにゴールが生まれ同点、73分にはクビジャスが逆転弾を決めた。
このあとペルーが逃げ切り試合は3-2で終了、40年越しのWカップ初勝利を逆転で飾った。ちなみにこの試合、日本人審判として初めてWカップ大会に派遣された丸山義行さんが線審を務めている。
続くモロッコ戦は、好調クビジャスが2ゴールの活躍。アフリカの新興勢力を3-0と退け、1次リーグ突破を確実にした。最終節は強豪西ドイツと対戦したが、ゴールマシンと化したゲルト・ミュラーに前半でハットトリックを決められ、クビジャスが1点返すも1-3の敗戦となった。
結果グループ2位となったペルーは、初の決勝トーナメントに進出。1回戦の準々決勝で、ジジ監督の母国であるブラジルと戦うことになった。王様ペレを擁して優勝候補とされたブラジルに対し、ペルーは旺盛な挑戦意欲で果敢な攻撃に出る。
だが開始11分、ペルーのミスからブラジルにボールが渡り、リベリーノの強烈な一撃がゴールネットを叩いた。その4分後、先制弾をアシストしたトスタンの華麗なフェイント技にGKが抜かれ、早々と2点のリードを許す。
それでも恐れずに攻め続けるペルー。28分にガジャルドが回転の掛かったロングクロスを送ると、ブラジルGKフェリックスが判断を誤りゴールイン。積極的な姿勢が幸運な得点を生んだ。この勢いのまま後半も攻め続けるペルーだが、52分にペレが放ったロングシュートを、触ったトスタンが角度を変えゴール。またもや離されてしまった。
粘るペルーは反撃を開始。70分には、クリアミスを拾ったクビジャスが鮮やかなミドルシュートを決め、再び1点差に迫る。しかしその5分後には、ジャイルジーニョが勝負を決める4点目。奮戦叶わずペルーは2-4と散っていった。
しかし最期まで優勝候補を苦しめたペルーの健闘にはスタジアムから大きな拍手が送られ、大会5ゴールを記録したクビジャスは一気にスターの仲間入りをした。
このあとブラジルが大会3度目の優勝を達成。報道陣から次のWカップも出場するのかと尋ねられたペレは、「そのつもりはないが、心配しなくていい。私たちにはすでにテオフィロ・クビジャスという後継者がいるじゃないか」と答えたという。
コパ・アメリカ優勝
国内リーグに戻ったクビジャスは、シーズン22ゴールを記録。2度目の得点王を獲得した。その後も高い決定力で得点を重ね、72年にはコパ・リベルタドーレス(南米クラブ選手権)に出場。チームはグループリーグ敗退を喫したが、6ゴールを挙げたクビジャスは大会得点王。その活躍で南米年間最優秀選手に選ばれた。
翌73年、クビジャスは高額な移籍金でスイスのFCバーゼルに移籍。しかしスイスの涼しすぎる気候に適応できず、半年後には他国への移籍を希望するようになった。そしていくつかオファーが届いた中で、気候の温かいポルトガルでのプレーを選び、FCポルトのユニフォームに袖を通した。
同年には、74年に西ドイツで開催されるWカップの南米予選に参加。しかしチリとのグループ1位決定戦に敗れてしまい、ペルーは予選敗退。25歳と働き盛りにあったクビジャスも、大舞台のピッチに立つことが出来なかった。
それでも翌75年には、8年ぶりの開催(ホーム&アウェー形式)となったコパ・アメリカに出場。ジジ監督のもとでアシスタントコーチを務めていたカルデロンに率いられたチームは、グループリーグを勝ち上がり、準決勝で強豪ブラジルと対戦する。
アウェーでの第1戦は、クビジャスの決勝点でブラジルに3-1と歴史的勝利。しかしホームに迎えた第2戦は逆に0-2と敗れてしまった。それでもアウェーゴールの差でペルーが決勝に進出することになり、3戦行われた決勝ではペルーが2勝1敗、39年大会以来2度目の南米チャンピオンとなった。
FCポルトでは77年までプレー。個人タイトルは獲れなかったが、4シーズンで108試合に出場し65ゴールを記録。76-77シーズンにはキャプテンマークを巻いて、ポルトガル・カップ優勝に貢献した。77年夏にはアリアンサ・リマに復帰し、77年、78年のリーグ連覇に寄与した。
ペルー代表では、77年に行われたWカップ南米予選に参加。そしてグループリーグでチリに雪辱を果たしてプレーオフへ進出し、ブラジルとともに本大会出場を決めた。
スコットランド戦のゴール
78年6月、Wカップ・アルゼンチン大会が開幕。ペルーは1次リーグの初戦で、ダークホースとして注目されていたスコットランドと戦った。スコットランドはイングランド・リーグで活躍するタレントを揃え、76年の欧州選手権王者チェコスロバキアを下してWカップ出場を果たすなど、勢いに乗るチームだった。
ペルーは立ち上がりからスコットランドのスピードに押され、早くも14分には失点を喫してしまう。しかしスコットランドがペルーの実力を甘く見積もり、クビジャスをフリーにしてしまったことから、形勢は徐々に逆転していく。
ペルーはクビジャスを中心にゲームを立て直すと、軽快なリズムを刻むワンツーを駆使。強固に築かれたスコットランドの守備網を易々と突破した。そして前半の42分、クビジャスを起点にクエトのゴールで追いつき、後半は完全にペルーの流れとなった。
68分、スコットランドの得たPKを、守護神キローガがスーパーセーブ。その4分後、クビジャスが右足アウトにかけた25m弾。キーパーも反応できない速さとコースでネットを揺らした。77分、今度はゴール左側20mの距離にFKのチャンス。強烈なスライス回転がかかったクビジャスのボールは、5人の壁を巻き、絶妙な変化でニアポスト上に吸い込まれていった。
こうしてペルーはスコットランドに3-1と逆転勝利。続く第2戦では前大会準優勝国のオランダを相手に慎重に戦い、0-0と引き分ける。最終節は格下イランとの試合。前半で2本のPKを決めたクビジャスは、後半79にも鮮やかなシュートを叩き込んでハットトリックを達成。4-1の快勝を収めて、ペルーが首位で2次リーグに進んだ。
ところが2次リーグではその強みが影を潜め、ペルーは存外の脆さを露呈してしまう。初戦では、クビジャスがブラジルの密着マークに遭って身動き取れず、0-3の完敗を喫する。第2戦はポーランドと接戦を演じるも、ラトーのクロスに合わせたシャルマッフの一発に沈んでしまった。
さらに最悪の試合となってしまったのは、地元アルゼンチンと戦った最終節。ペルーは猛攻を仕掛けるアルゼンチンの前に、なすすべもなく0-6と撃沈した。この大差がついたスコアの結果、開催国アルゼンチンが得失点差でブラジルをかわして決勝に進出、大敗したペルーには「八百長試合」の汚名が浴びせられた。
北米の人気者
79年にはアメリカに渡って、北米サッカーリーグ(NASL)のフォートローダーデール・ストライカーズと契約。チームにはゴードン・バンクスやゲルト・ミュラー、ジョージ・ベストといった、往年のスター選手が数多く在籍していた。そして個人技に優れたクビジャスは、たちまちNASLの人気者となった。
82年、Wカップ・スペイン大会に出場。1次リーグではカメルーンに0-0、イタリアには1-1と引き分け、最終節ポーランド戦に1-5の大敗を喫して終戦となった。すでに33歳となったクビジャスの衰えは隠せず、大会の1ヶ月後に代表からの引退を発表、赤タスキのユニフォームに別れを告げた。
87年、38歳のクビジャスは古巣のアリアンサ・リマで現役を引退。代表では81試合26得点、クラブでは534試合312得点の記録を残した。引退後はアメリカに定住、テレビの人気コメンテーターとして活躍している。