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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ホルヘ・カンポス(メキシコ)

 

「異色の二刀流」

170㎝に満たないという身長で、10年間メキシコ代表のゴールを守り続けた小さな守護神。小柄というハンディをものともせず、抜群の反射神経と高い身体能力でカバー。自身のデザインした派手なユニフォームが話題を集めて人気者となったのが、ホルヘ・カンポス( Jorge Campos Navarrete )だ。

 

その高い身体能力と判断の良さでゴールを死守するだけではなく、ペナルティーエリアを大きく飛び出してスイーパーの役割も果たした。また足元の技術と非凡なスピードも持ち合わせ、時には背番号9を背負うフィールドプレイヤーとして試合に出場。二刀流の活躍は観客を沸かせた。

 

メキシコ代表としては3度のW杯に出場。94年、98年W杯と正ゴールキーパーを務め、2大会連続となる決勝トーナメント進出に貢献する。さらに93年のコパ・アメリカで準優勝を果たし、CONCACAFコンカカフゴールドカップ(北中米カリブ海選手権)では大会2連覇に寄与。米大陸屈指のGKと呼ばれた。

 

二刀流の萌芽

ホルヘ・カンポスは1966年10月15日、メキシコの高級リゾート地アカプルコに近いブラン・デ・ロス・アマテスに誕生した。中流階級の恵まれた家庭で7人兄弟の一人として育ち、子供時代は祖父の所有する馬に乗ってよく遊んでいたという。

小さい頃から運動神経は抜群。サーフィンでも一流のセンスを見せたが、熱狂的なサッカーファンだった父アルバロの影響を受けてサッカーに邁進。早朝からのビーチランニングでボディバランスを鍛え、早くからメキシコ代表選手を目指すようになる。

高校卒業後、メキシコ3部リーグの地元アマチュアクラブに入団。すぐにレギュラーGKとして活躍する。そんな彼にチャンスが訪れたのは88年、首都メキシコシティを本拠地とする1部リーグの強豪プーマス・デ・ウナム(UNAMプーマス)とプレシーズンマッチを行った時だった。

強豪を相手にしたカンポスは、小さな身体をフルに使ってゴールマウスを死守。さらに味方のカウンターチャンスには、Pエリアを飛び出しドリブルで前線へ切り込んでいった。しかもプレースキッカーまで務めるという大胆さと技術の高さが対戦相手の目に止まり、カンポスはプーマスとプロ契約を交わすことになる。

当時プーマスにはアドルフォ・リオスという優秀なGKがいたため、カンポスはFWとして起用されてゲームに出場。プロ2年目の89-90シーズンは40試合で14ゴールを記録し、チームのトップスコアラーを争った。

そして89年に出場したCONCACAFチャンピオンズカップでは決勝に進出。キューバのピナール・デルリオを2戦合計4-2と破り、プロ初のタイトルを得た。翌90-91シーズンはリオスの怪我もあり、GKとFWの二刀流で活躍。44試合に出場(2ゴール)してプーマスのリーグ制覇に貢献する。

その後は主にキーパーとして秀でた活躍を見せ、91年から5年連続でゴールデングラブ(リーグ最優秀GK賞)を獲得。93年にはIFFHS国際サッカー歴史統計連盟)の世界最優秀GK部門で、ピーター・シュマイケル、セルヒオ・ゴイゴチェアに続く3位に選定された。

93年の末には、世界選抜メンバーの正GKに選ばれてチャリティーマッチに参加。故郷アカプルコの賑やかさをイメージして自らデザインしたという蛍光色のユニフォームは、フールドへ大きく飛び出すプレーと共に注目を浴びた。

無念のPK戦

メキシコ代表には91年に初選出、7月26日のエルサルバドル戦でデビューを飾った。92年には正GKの座を掴み、93年6月にはCONMEBOLコンメボル(南米サッカー連盟)から初めて招待されたコパ・アメリカに出場する。

G/Lでは3位となったものの決勝トーナメントに進出。準々決勝でペルーを4-2と破り、準決勝ではエクアドルを2-0と完封して決勝に勝ち上がった。決勝ではバティストゥータの2得点を許してアルゼンチンに0-2と敗れてしまうが、メキシコは初出場で準優勝の成績を残してレベルの高さを証明した。

翌7月には、息つく暇もなくCONCACAFコンカカフゴールドカップに出場。この地域で格の違いを見せつけるメキシコは圧倒的強さで決勝に進み、ファイナルではアメリカを4-0と圧倒して大会2度目の優勝を果たす。カンポスは5試合にフル出場し、喫した失点はわずか2つだった。

92年11月から始まったW杯CONCACAF予選でも、メキシコは余裕の首位突破。2大会ぶり(前大会は不祥事により予選失格)10度目のW杯出場を決める。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。メキシコの入ったグループEの初戦はノルウェーに0-1と敗れるが、続く第2戦でアイルランドに2-1の勝利。グループ突破を懸けた最終節では、R・バッジオ擁するイタリアと1-1と引き分ける。

死のグループ」と呼ばれたE組は、3試合を終えて4チームが勝点と得失点差で並ぶ大混戦。それでも総得点でわずか上回ったメキシコが1位を確保し、86年自国開催大会以来となる決勝トーナメントに進む。

トーナメント1回戦はブルガリアと対戦。開始6分にストイチコフの先制ゴールを許すも、18分にPKを得て1-1の同点に追いつく。このあとゲームは合計10枚のイエローカードが乱れ飛び、両チーム一人ずつの退場者を出すという大乱戦。延長の120分を戦ってもスコアは動かず、勝負はPK戦に持ち込まれた。

PK戦ではブルガリア1人目のコースを読んで阻止するも、続く選手にはカンポスの手が届かないコーナーギリギリを狙われ、連続3本のゴールを許してしまう。対するメキシコは3人が続けて失敗。身長のハンディを突かれたカンポスにとって、無念の敗退になってしまった。

 

二刀流の真骨頂

95-96シーズン、プーマスのライバルクラブであるアトランテFCに移籍。そのカンポスが世間を驚かせたのは、96年3月のクルス・アルス戦だった。1点のビハインドで迎えた試合終盤、得点が生まれそうにない状況にしびれを切らしたハビエル・アギーレ監督は、カンポスをピッチに残したまま第2GKを投入。二刀流プレーヤーを前線に上げて攻撃の一翼を担わせる。

するとカンポスは味方のクロスに鋭く反応、アクロバティックなジャンピングボレーで同点弾を叩き込む。まさにカンポスが二刀流の真骨頂を見せつけた、衝撃的ゴールだった。

メキシコでの人気を買われ、96年の春には発足したばかりの北米MLSメジャーリーグ・サッカー)ロサンゼルス・ギャラクシーと契約。メキシコリーグのオフシーズンにMLSが行なわれるため、カンポスは2チームを掛け持ちでプレーすることになった。

96年6月16日、カルフォルニア州ローズボール・スタジアムに9万2千人の観客を集め、USカップ(4ヶ国対抗戦)の最終戦アメリカ対メキシコの試合が行われた。当然メキシコのゴールはカンポスが守り、試合は2-2の引き分け。勝点を5と伸ばして母国のUSカップ優勝に貢献する。

その30分後、カンポスLAギャラクシーのGKとしてタンパベイ・ミューティニーとのMLS開幕戦に登場。サッカー選手としては前代未聞のダブルヘッダー登場となった。しかも後半70分にはユニフォームを着替えてFWに変身、巧みな足技で詰めかけた観客を喜ばせている。

試合はLAギャラクシーが3-2で勝利、このあと無傷の11連勝を記録して西カンファレンス優勝(MLSカップは準優勝)を果たす。カンポスの二刀流スタイルと、そのカラフルなユニフォームはたちまちサポーターの心を掴み、MLS最初の外国人スターとして絶大な人気を誇った。

MLSのオフシーズンにはアトランテに戻り、96-97シーズンは16試合に出場。アメリカとメキシコを行き来するカンポスは、2ヶ国リーグの二刀流も実現した。

 

2度目のワールドカップ

96年のCONCACAFゴールドカップでメキシコは2連覇を達成。ゴールを守ったカンポスは、全4試合を完封して優勝に貢献した。同年夏にはオーバーエイジ枠としてアトランタオリンピックに参加。G/Lでは3試合1失点に抑えて首位突破を果たすも、準々決勝でこのあと優勝したナイジェリアに0-2の敗戦。惜しくもメダルに届かなかった。

97年には2度目のコパ・アメリカに出場。準決勝でボリビアに1-3と敗れて、2大会連続の決勝進出とはならなかったが、3位決定戦ではペルーを1-0と完封。大会ベスト3の好成績を残している。

97年3月から始まったW杯CONCACAF予選も、メキシコが順調に首位突破。カンポスは前大会の雪辱を期し、2度目の大舞台に臨んだ。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。しかし自身がデザインした派手なユニフォームの着用が認められず、フィールドプレイヤーと同じユニフォームで臨む試合もあった。G/L初戦は河錫舟ハ・ソクジュの25mフリーキック弾を許し韓国に先制されるが、後半にエルナンデスの2ゴールで逆転して3-1の勝利を収める。

続く第2戦は退場者を出してベルギーに2点をリードされるも、その後巻き返して2-2の引き分けに持ち込んだ。最終節のオランダ戦も先に2点を奪われて苦しい展開となるが、1点を返した後半終了直前にエルナンデスが値千金の同点弾。勝点1を拾ったメキシコは、グループ2位で2大会連続のベスト16に進んだ。

トーナメント1回戦では強豪ドイツと対戦。エルナンデスのゴールでメキシコは大会初のリードを奪うも、終盤クリンスマンビアホフに決められて1-2の逆転負けを喫してしまう。4試合のすべてでゴールを守ったカンポスだが、計7失点と不本意な内容で終わってしまった。

99年7月には日本も参加したコパ・アメリカに出場。G/Lではブラジルに敗れるもチリとベネズエラに勝利しベスト8入り、PK戦にもつれた準々決勝ではペルーの2人を止めて準決勝進出に貢献する。準決勝ではまたもブラジルに敗れて決勝には進めなかったが、メキシコは2大会連続の3位入賞を果たす。

キャリア晩年の輝き

97年シーズンはLAギャラクシーで19試合に出場。オフシーズンにメキシコへ戻ったカンポスは、新たにクルス・アズールと契約。しかしここにはオスカル・ペレスが絶対的守護神として君臨しており、控えキーパーに回ったカンポスはわずか2試合の出場。出番を求めてシーズン途中に古巣のプーマスへ復帰する。

MLSでは98年にシカゴ・ファイヤーと契約。公式戦10試合に出場し、MLSカップ優勝とUSオープンカップ制覇に貢献。このタイトルを置き土産とし、カンポスMLSでの活動を終えた。

99年2月、香港で開催されたニューイヤーズ・カップにメキシコ代表が招待され、カンポスもメンバーとして参加。だが父アルバロが誘拐されたという報を聞いて、トーナメント途中に緊急帰国。父親は6日後に解放されているが、カンポスが身代金を払ったかどうかは明らかにされていない。

同年夏、自国で開催されたコンフェデレーションズカップに出場。メキシコはG/Lを首位で通過すると、準決勝では宿敵アメリカに1-0の勝利。アステカスタジアムで行なわれた決勝では、強豪ブラジルを4-3と打ち負かし、地元メキシコが初となる世界大会優勝。カンポスは5試合を守り切って優勝に貢献した。

02年には3度目となるWカップ・日韓大会のメンバーに選ばれるが、代表守護神の座はオスカル・ペレスに奪われていた。チームは3大会連続の決勝トーナメント進出を果たすも、第3キーパーに甘んじたカンポスに出場の機会はなく、虚しく大会を終えた。

翌03年にはメキシコ代表を引退。13年間の代表歴で129試合ゴールを守ったが、フィールドプレイヤーとしてピッチに立つことはなかった。

メキシコクラブでは02年に移籍したプエブラFCでのプレーを最後に、04年に35歳で現役を引退。26年に及ぶ現役生活で、GKとしては異例となる35ゴールの記録を残す。

引退後は一時メキシコ代表のアシスタントコーチを務めるが、その後フリーの身で活動。故郷のアカプルコゴールキーパーのスクールを運営しながら、ファストフード・チェーン「SPORTRTAS」を経営。またFIFAのスポーツアンバサダーとして世界各地を巡り、サッカーを通じた慈善活動も行なっている。