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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》カルロス・バルデラマ ( コロンビア )

 

「金髪のライオン」

ライオンのたてがみのような金髪アフロをなびかせ、サルサを彷彿とさせる独特のリズムでゲームを構築。一度ボールを支配すれば決して失うことなく、巧みな足技でチャンスを演出した。一撃必殺のスルーパスを繰り出してチームを勝利に導いたコロンビアの10番が、カルロス・バルデラマ( Carlos Alberto Valderrama Palacio )だ。

 

独自のプレースタイルを貫いてしばらく雌伏の時を過ごすも、85年に移籍したデポルティーボ・カリでその才能を発揮。その活躍により、88年にはコロンビア人として初めて欧州のクラブへ移籍する。そのあと96年に発足した北米リーグでも活躍。ハイレベルのテクニックと個性的なルックスで人気を博した。

 

代表では87年のコパ・アメリカで国際舞台に登場し、特異な風貌と針の穴を通す正確なパスで世間を驚かすと、以降10年以上にわたりコロンビアの顔としてプレー。イギータリンコンアスプリージャらの個性派集団を司令塔として操り、南米でもアウトサイダーだったコロンビアを90年、94年、98年と3大会連続でW杯出場に導いた。

 
エル・ビッペの生い立ち

カルロス・バルデラマは1961年9月2日、コロンビア北部のカリブ海に面する都市サンタ・マルタで生まれた。父ハリコは地元クラブのウニオン・マグダレナでプレーし、コロンビア代表経験もあるサッカー選手だった。

また父方の叔父と母方の叔父も元サッカー選手で、兄ロナルドものちにウニオン・マグダレナでプレー。従兄弟や甥にも将来のプロ選手が揃うという、生粋のフットボール一族に育つ。

小さな頃のバルデラマはウニオン・マグダレナのアルゼンチン人選手に可愛がられ、クラブに顔を出さない時には、「今日 “エル・ビッペ” (アルゼンチン流の言い回しで、坊やの意)はどうしたんだい」と父親に尋ねられたことから、“エル・ビッペ” が愛称となる。この愛称はバルデラマが成長し人気者になると、コロンビア国民からも親しみを込めて呼ばれるようになった。

近所の仲間とのストリートサッカーで足技を磨いたバルデラマは、父親がコーチを務めるリセオセレドン・スクール(初・中等教育学校)のチームで本格的な競技を開始。すでに12歳の時から「自分は自由人だ」と主張し、金髪アフロのたてがみを揺らしていたという。

そして17歳でウニオン・マグダレナと契約を結び、2年のユース期間を経て81年にトップチーム昇格。3月のインデペンディエンテ・サンタフェ戦で、途中出場からのプリメーラA(コロンビア1部)デビュー。8月のデポルテス・キンディオ戦で初ゴールを記録する。

2年目の82シーズンからは主力としてプレー。84年にはその活躍が認められ、首都ボゴタの名門ミジョナリオスへの移籍を果す。しかし国内随一の名門クラブでバルデラマの特徴は活かしきれず、次第に出場機会は減少。エル・ビッペは1年で放出されることになり、85年にはデポルティーボ・カリへ移った。

デポルティーボではMFベルナルド・レディンと息の合ったコンビを組み、移籍1年目から48試合13ゴールの活躍。リーグ5連覇中を達成した王者アメリカデ・カリの牙城は崩せなかったが、3年の在籍で2年連続2位の好成績に貢献。近年低迷していたデポルティーボを2大会連続のコパ・リベルタドーレス出場に導き、国内屈指のゲームメーカーと認められるようになった。

コロンビア代表には、85年10月に行なわれたメキシコW杯南米予選・パラグアイ戦で24歳にしてデビュー。しかし当時南米のアウトサイダーだったコロンビアは、あっけなく予選敗退を喫してメキシコW杯出場を逃す。

実のところ86年W杯はコロンビアがホスト国を務めると決まっていたのだが、出場枠拡大による負担の増加に経済不況が重なり、国内治安の不安もあって開催を返上。替わってメキシコが新たな開催国となっていた。

コロンビアがこれまでW杯に出場したのは、62年チリ大会のただ1度だけ。その時はソ連に引き分けたのみで、まだ白星すら挙げていない弱小チームだった。

50年代にはFIFAに承認されない海賊版リーグで国内に活況を呈した(ディ・ステファノらが在籍)時期もあったが、そのあと混迷と無秩序の時代が長く続き、コロンビアサッカーは停滞した。また国内リーグがアルゼンチンとウルグアイの選手に頼り過ぎていたのも、コロンビア人選手の育成を妨げていたのだ。

だが87年にフランシスコ・マツラナが代表監督に就任すると、ここからコロンビアサッカーが大きな変貌を遂げることになる。マツナラは歯科医免許を持つ異色の青年監督(当時37歳)で、古豪ナシオナル・メデジンの指揮官も兼任していた。

マツナラ監督は、まず不振にあえぐナシオナル・メデジンの改革に着手。GKレネ・イギータ、DFアンドレス・エスコバル、MFレオネル・アルバレスら若手の有望株を集め、彼らの能力を引き出すことに努めた。

そして力を発揮し始めたナシオナル・メデジンの選手たちを代表の中核に据え、卓越した技術とセンスを持つバルデラマを攻撃の司令塔として加える。マツラナは創造力と個人技を打ち出すコロンビアサッカーに最先端のゾーンプレス戦術を掛け合わせ、「モダン・ラテン」と呼ばれる魅惑的なチームを生み出した。

87年6月、アルゼンチン開催のコパ・アメリカに出場。マツナラ監督率いるコロンビアは1次予選でボリビアパラグアイを破り、グループ1位で準決勝に進出した。準決勝でチリに敗れるも、3位決定戦ではマラドーナ擁する地元アルゼンチンを2-1と撃破。世界を驚かせる。

鮮烈な印象を残したバルデラマは大会MVPを受賞し、加えて同年の南米年間最優秀選手賞にも選出。その名はヨーロッパにも届き、フランスのモンペリエからオファーが舞い込んだ。こうしてバルデラマは、コロンビア人選手として初めて欧州の舞台へ挑戦することになった。

 

会話のようなパス

移籍したモンペリエでは、88年7月のオリンピック・マルセイユ戦でディヴィジョン・アン(現リーグ・アン)デビュー。12月のスタッドマレブ・カーン戦で初ゴールを記録する。しかし動きの少ないバルデラマは、ヨーロッパの速さとタイトなスペースに困難を強いられ、チームへ適応できないままベンチを温める時間が増えていく。

だが翌89-90シーズン、バルデラマがサイドのポジションに配置されると状況は好転。サイドで自分を活かせるスペースを得たエル・ビッペは、クープ・ドゥ・フランス(フランスカップ)で本領を発揮。正確かつ効率的なパスで攻撃を操り、チームを準決勝へ導く。

サンテティエンヌとの準決勝は、エリック・カントナのゴールで1-0の勝利。モンペリエが59年ぶりとなる決勝へ進む。しかしバルデラマはこのサンテティエンヌ戦で退場となり、決勝に出場できなくなってしまった。

ラシン・パリとの決勝は0-0のまま延長に突入するが、ローラン・ブランのゴールをきっかけに2-1の勝利。モンペリエが61年ぶり2度目の優勝を果す。決勝の舞台に立てなかったバルデラマだが、優勝の殊勲者であることは明らか。シンプルながらメッセージの込められた彼のパスは、「まるで会話を交わしているようだ」と称賛された。

 

イタリアW杯の躍進

89年8月から始まったW杯南米予選でコロンビア代表は苦戦を強いられながらも、イスラエルとの大陸間プレーオフを勝ち抜いて38年ぶり2度目となる出場を決める。

90年6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。G/L初戦はUAEと対戦した。前半こそ相手のタイトな守備に手こずったが、後半50分にレディンのヘッドで先制。そこからコロンビアがペースを握り、心憎いばかりのパスワークで中東の王者を翻弄した。もちろんその中心にいたのは、バルデラマである。

コロンビアのあらゆる攻撃はバルデラマを経由して始まり、変幻自在のパスはたちまち相手を混乱に陥れた。そして終盤の85分にはバルデラマが決勝点を挙げ、コロンビアW杯初白星を2-0の快勝で飾る。

だが第2戦ではイヴィチャ・オシム監督率いるユーゴスラビアに0-1と敗れ、グループ突破は最終節の西ドイツ戦に持ち込まれた。試合はコロンビアの「モダン・ラテン」に、優勝候補の西ドイツが大苦戦。終盤までスコアレスの接戦が続いた。しかし88分、リトバルスキーにラインの裏を突かれて失点。残り時間は少なくコロンビアは万事休すとなった。

ところがロスタイムに入った後半の92分、コロンビアに4本のダイレクトパスが繋がり、最後はバルデラマが必殺のスルーパス。フリーとなったリンコンが右足インサイドで鮮やかな同点弾を決めた。土壇場で1-1と引き分けたコロンビアは、グループ3位に滑り込んで初めての決勝トーナメント進出を果たす。

トーナメント1回戦は、アフリカのカメルーンアウトサイダー同士の対戦。だが世界に衝撃を与えた「老雄」ロジェ・ミラに2得点を許し、コロンビアのベスト8入りは叶わなかった。

 

輝きを取り戻した金髪のライオン

91年、W杯で名を上げたマツナラ監督がバリャドリッド(スペイン)の指揮官に就任。モンペリエでの3シーズン目を終えたバルデラマも、代表の仲間であるアルバレスイギータと一緒にバリャドリッドへ移籍し、「コロンビア・コネクション」を形成した。

チームを引き上げる活躍を期待された「コロンビア・コネクション」だが、バリャドリッドは開幕から低迷。スペイン流に馴染めなかったバルデラマは、バルセロナ戦で退場処分を受けるとそのまま帰国。17試合1ゴールの成績を残し、92年に同クラブを退団となった。

帰国後はインデペンディエンテでのプレーを経て、93年にはアトレティコジュニオールと契約。ここで本来の輝きを取り戻し、93シーズンのプリメーラA優勝に貢献した。

そして93年8月から始まったW杯南米予選でも好調さを維持し、ホームの第2節ではアルゼンチンを2-1と撃破。そしてW杯出場が懸かった予選最終節でも、敵地ブエノスアイレスでアルゼンチンと対戦する。

この試合では司令塔バルデラマのパスが冴え渡り、快足を誇るアタッカーたちがDFラインを切り裂き得点を量産。リンコンアスプリージャが2得点ずつを挙げ、最後はバレンシアがダメ押し点。強豪アルゼンチン相手に5-0の歴史的大勝を収め、2大会連続のW杯出場を決めた。コロンビアを予選首位突破に導いたバルデラマは、2度目の南米年間最優秀選手に輝く。

 

失意に終わったアメリカW杯

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。豊富なタレントを擁し、奔放なパスサッカーとハイプレスの戦術で「最も魅惑的なチーム」と注目されたコロンビアだが、初戦でゲオルゲ・ハジ擁するルーマニアに1-3と完敗を喫してしまう。

第2戦の相手は開催国アメリカ。コロンビアは地元の大声援を受ける相手の勢いに押され、前半35分にDFエスコバルオウンゴールで失点。さらに後半52分にはカウンターから2点目を許す。終了直前の90分にバレンシアが1点を返すも、1-2の敗戦。早くもグループ突破の可能性は消えてしまった。

消化試合となった最終節はスペインに2-0と勝利するが、コロンビアは国民の期待を裏切る失意の敗退。バルデラマは大会4ヶ月前の親善試合、スウェーデン戦で膝半月板損傷の重傷を負っており、そのプレーは精彩を欠いていた。

W杯敗退から1週間も経たない7月2日、アメリカ戦でオウンゴールを犯したエスコバルが、帰国したコロンビアで射殺されるという事件が発生。バルデラマはこの悲報にショックを受け、代表から退くことを考える。

 

人気者の引退

96年に北米MLSメジャーリーグ・サッカー)が発足すると、好条件の誘いを受けてタンパベイ・ミューティニーに移籍。すでに35歳の大ベテランとなっていたが、23試合4ゴール17アシストの好成績を残し、サポターズシールド(リーグ最高ポイント賞)のタイトル獲得に貢献。リーグMVPにも選ばれる。

コロンビア代表には95年7月のコパ・アメリカで復帰。チームは準決勝で開催国ウルグアイに敗れるも、アメリカとの3位決定戦ではバルデラマの得点などで4-1の勝利。大会ベスト3の好成績を収めた。

96年4月から始まったW杯予選でも安定した攻撃力を見せつけ、司令塔のバルデラマは3ゴールの活躍。コロンビアはアルゼンチン、パラグアイに続く3位で、3大会連続のW杯出場を決める。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。だが37歳のバルデラマを始め、高齢化したチームにグループリーグを勝ち抜く力はなく、1勝2敗の3位で敗退。W杯終了後、バルデラマは正式に代表を引退する。14年間の代表歴で111試合に出場、11ゴールを記録した。

MLSでは北米の人気選手として9年間プレー。年間ベストイレブンには3度選ばれ、オールスターゲームにも5年連続で出場した。そしてコロラド・ラピッズでのプレーを最後に、02年に41歳で現役を引退する。

引退後はサッカーコメンテーターとして活動する一方、2014年には「Un Rato Con El Pibe」(しばしエル・ビッペと共に)と題するyou tubeチャンネルを開設。現在約20万人の登録者を有し、国内有名選手との対談や試合解説動画などで人気を博している。