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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》ロベルト・バッジオ(イタリア)

 

「美しき修験者」

優れたテクニックとイマジネーション溢れるプレー、そして輝きを放つ個性で観客を魅了。さらにはゴールゲッターとしての高い能力も備え、大舞台で奇跡を演じた。タイトな現代サッカーでファンタジスタの輝きを放ち、「イタリアの至宝」と呼ばれたのが、ロベルト・バッジオ( Robert Baggio )だ。

 

16歳でセリエCデビューを果すと、85年に移籍したフィオレンティーナでは、ファンタジーあふれるプレーとキャッチーなルックスでアイドル的人気を博した。その後はたび重なる怪我に苦しみながらも、ユベントスACミランインテル・ミラノなどの名門クラブで活躍する。

 

イタリア代表では、90年自国開催W杯に初めて出場。G/Lのチェコスロバキア戦で鮮やかなドリブルからのゴールを決め、世界に強烈なインパクトを残した。94年アメリカW杯ではエースとしてチームを牽引し、3大会ぶりの決勝へ導く。だがブラジルとの決勝では勝負を決めるPKを外してしまい、失意の結末を迎えた。

 
ポニーテールの人気者

ロベルト・バッジオは1967年2月18日、北東イタリア・ビチェンツァ州のカルドーニョに生まれた。ロベルトという名は、アマチュアクラブの元GKだった父フロリンドが、イタリアの名FWロベルト・ボニンセーニャにあやかって付けたものである。

8人兄弟の6番目という大家族の中で育ち、幼い頃からサッカーに熱中。7歳下の弟エディ・バッジオも、のちにセリエBなどでプレーするプロ選手となっている。ロベルトは9歳で地元のジュニアチームに入団。その豊かな才能を認められ、14歳で当時セリエCに所属するヴィアチェンツァにスカウトされた。

ここでプロを目指してトレーニングに励んでいた82年、ヴィアチェンツァでのある試合でバッジオの左足に激痛が走る。ゲーム中に半月板を痛めてしまったのだが、これが選手生活における怪我との闘いの始まりとなった。それでも1年後には期間限定でトップチームに引き上げられ、16歳でプロデビューを果たすことになった。

そして次第にトップチームでの出場を増やしていったバッジオは、84-85シーズンに12得点を挙げてヴィアチェンツァのセリエB昇格に貢献、注目の若手株としてその名を知られるようになる。

この将来のスターを抱えるヴィアチェンツァに対し、セリエAの各クラブによる激しい争奪戦が発生。一時はトリノへの移籍が発表されたが、数日後に一転、28億リラの移籍金でフィオレンティーナとの契約が決まった。

ところがこの契約が決まった2日後、シーズン最終戦のゲームでバッジオは相手選手と交錯。右膝十字靱帯断裂という重傷を負う。選手生命を失いかねないほどの大怪我だったが、フィオレンティーナバッジオの回復を待ってくれた。

そしてフランスで受けた手術は成功。バッジオはその後イタリアに戻って半年以上に及ぶ厳しいリハビリに取り組み、86年1月のコパ・イタリアで復帰した。

しかし9月には再び膝を痛め、12月には半月板の再手術。フィオレンティーナに加入してからの2シーズンは、僅か5試合の出場に留まってしまった。相次ぐ怪我に悩まされたバッジオは、心の安定を東洋の精神に求め、21歳で日本の創価学会に入信する。

87-88シーズンには膝の状態も良くなり、リーグ戦27試合とカップ戦7試合に出場して計9得点。本来の真価を発揮し始める。翌88-89シーズンはリーグ戦30試合で15ゴール、89-90シーズンも32試合で17ゴールを挙げる活躍を見せた。あの特徴的な “ポニーテール・スタイル” の確立も伴い、フィレンツェ市民のアイドルとなる。

 

ユベントスへの移籍

アンダー世代代表から名を知られていたバッジオは、88年11月の親善試合オランダ戦で21歳にしてフル代表デビュー。翌年4月のウルグアイ戦でFKによる初得点を挙げ、自国開催となる90年W杯のメンバーにも選出。23歳で初の大舞台に臨むことになった。

だがそんなバッジオの活躍とは裏腹に、所属するフィオレンティーナには暗い影が差し始めていた。ホーム・スタジアムがW杯会場のひとつに選ばれ、それに備えて大改修を行なったことから多額の負債を抱えることになり、経営危機に陥ってしまったのだ。

W杯開催を直前に控えた5月17日、フィオレンティーナが損失補填のため、バッジオをライバルチームのユベントスに160億リラで譲り渡すことが発表される。するとチームの象徴となる選手の放出を知った市民は、怒りにまかせて暴徒化。フィレンツェの街は2日間混乱し、負傷者50名、逮捕者15名を出すという大騒ぎになった。

翌年ユベントスで古巣フィオレンティーナと対戦したバッジオは、PKの場面で指名されるもそれを拒否。監督の怒りを買って即座に交替を命じられるが、彼の首にはピッチへ投げ込まれたフィオレンティーナのマフラーが巻かれていた。それまでフィオ・サポーターに裏切り者扱いされていたバッジオだが、古巣への愛情を示した男にはスタンドから拍手が送られている。

鮮烈なW杯デビュー

まだ騒動の余韻が残る6月、Wカップ・イタリア大会が開幕。オーストリアとの初戦を終盤から投入されたスキラッチのゴールで1-0と勝利するが、ベンチスタートとなったバッジオの出番は訪れなかった。

続く第2戦は、格下アメリカに苦戦して1-0の辛勝。開催国イタリアは連勝で決勝トーナメント進出を決めるも、内容の悪さは今後に不安を感じさせた。

ここまでの2試合をベンチで眺めていたバッジオは、最終節のチェコスロバキア戦で先発出場。開始9分にスキラッチの得点で先制すると、試合終盤にはバッジオが鮮やかなドリブルで相手をかわしシュート。芸術的な追加点で2-0の勝利に貢献し、鮮烈なW杯デビューを飾った。

グループを全勝で突破したイタリアは、決勝トーナメントでもスキラッチが躍動してウルグアイに2-0、アイルランドも1-0と打ち破り、ついにベスト8へ進む。

準決勝の相手は前回王者のアルゼンチン。チェコ戦以降3試合連続で先発のピッチに立っていたバッジオだが、この大一番ではスターティングメンバーから外れてしまう。試合は前半17分にスキラッチのゴールでリードを奪うも、後半67分にマラドーナの起点からカニーヒアの同点弾を許す。これが今大会イタリアの初失点だった。

ゲームは1-1で延長に突入するも決着がつかず、勝負の行方はPK戦へ。イタリアはアルゼンチンGKゴイゴチェアの好守連発に阻まれ、ベスト4敗退を喫してしまった。

イングランドとの3位決定戦は、バッジオスキラッチのゴールで2-1の勝利。アズーリの56年ぶりとなる地元優勝はならなかったが、鮮やかな活躍を見せたバッジオは「イタリアの至宝」と呼ばれ、次世代エースとしての期待が高まった。

 

バロンドール受賞

ユベントス移籍1年目の90-91シーズン、33試合14ゴール12アシストと好成績を残すも、チームはリーグ7位に終わる。翌91-92シーズンは32試で18ゴール8アシストを記録し、ミランのファン バステンに続く(25点)得点ランク2位。スクデット争いでもライバルのミランに及ばず、リーグ2位に甘んじてしまう。

キャリアのハイライトとなったのは92-93シーズン。リーグ戦では4位と苦戦するが、バッジオ自身は27試合21ゴール6アシストと好調。UEFAカップ(現EL)でもキャプテンとしてチームを引っ張り、ユベントスを3季ぶりの決勝に導く。

決勝の相手はボルシア・ドルトムント。アウェーの第1戦、開始2分にミヒャエル・ルンメニゲ(カール=ハインツ・ルンメニゲの弟)の先制ゴールを許すも、26分にディノ・バッジオが同点弾。30分にロベルト・バッジオのゴールで逆転すると、後半74分にもロベルトが追加点。敵地で3-1の勝利という大きなアドバンテージを得た。

ホームに戻った第2戦は、ディノ・バッジオの2得点とアンドレアス・メラーのゴールで3-0の快勝。2戦合計6-1の圧勝を収め、ユベントスが3度目の優勝。第2戦でもアシストを記録して欧州タイトル獲得の立役者となったロベルトは、この年のバロンドールFIFA年間最優秀選手賞にダブル選出。「イタリアの至宝」がようやく世界で輝いた。

翌93-94シーズンも32試合17ゴール8アシストと好調さを維持するが、またも王者ミランに届かずリーグ2位。ディフェンディングチャンピオンとして臨んだUEFAカップも、準々決勝敗退を喫する。しかもUEFAカップカリアリ戦で右膝を強打。3度目となる古傷の手術を受け、間近に迫っていたW杯への出場が危ぶまれる状態となった。

 

2度目のW杯

92年の欧州選手権はビチーニ監督に招集されなかったバッジオだが、その後就任したアリゴ・サッキ監督のもとで再びレギュラーの座を取り戻す。

92年10月から始まったW杯欧州予選では、チーム最多となる5ゴールの活躍。イタリアのW杯出場決定に大きく貢献する。大会開幕3ヶ月前に膝を手術して出場が危ぶまれるも、どうにか間に合わせて大会に臨む。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。エースFW不在のイタリアは攻撃に迫力を欠き、初戦でアイルランドに0-1の敗戦。続くノルウェー戦は、前半21分にGKパリウカが一発退場。第2キーパー投入のためバッジオがベンチに下げられると、屈辱の交代に「あいつは気が狂ってる」との暴言を吐いてしまう。

後半69分にディノ・バッジオが決勝ゴールを決めて1-0と辛勝するも、主将のバレージが膝を痛めてしまい、次戦以降の出場が絶望的。優勝を狙うチームに暗雲が漂い始めた。

第3戦はメキシコと1-1で引き分け、どうにかグループ3位でベスト16進出。決勝トーナメント1回戦でアフリカの雄ナイジェリアと対戦する。試合は終盤まで1点のリードを許す苦しい展開。切り札として投入されたゾラもわずか13分で一発退場となってしまい、イタリアの命運は尽きたかに思えた。

だが終了時間が近づいた88分、ムッシのパスを受けたロベルト・バッジオが起死回生の同点弾。延長に突入した100分にもR・バッジオがPKを沈め、2-1の逆転勝ち。苦戦を凌いでベスト8に勝ち上がる。

準々決勝の相手はスペイン。1-1の接戦で進んだ終盤の87分、カウンターからR・バッジオが難しい角度でのゴールを流し込み、殊勲の決勝弾。2大会連続のベスト4進出となった。

 

悲運のエース

準決勝はブルガリアとの対戦。ここに来て調子を上げたイタリアは、20分、25分とR・バッジオが立て続けに得点を挙げ、たちまち2点をリード。ブルガリアの反撃をストイチコフのPK1点に抑え、2-1の勝利。ついにイタリアは決勝へと駒を進めたが、ハムストリングを痛めたバッジオは70分に交代となった。

決勝で戦う相手はブラジル。試合は執念の復帰を果たしたバレージを中心とした堅守でロマーリオ、ベベトーの2トップを抑え、延長スコアレスでPK戦へともつれ込む。

PK戦は1人目のバレージがシュートをふかすと、4人目のマッサーロも失敗。イタリアは2-3と追い込まれ、最後の望みは5人目のバッジオに託された。しかし脚の故障と疲労で限界にあったバッジオのキックはクロスバーを越え、失意の結末。敗戦のピッチには、腰に手を当てうなだれるバッジオの姿があった。

 

ボローニャでの輝き

94-95シーズン、ユベントスは9季ぶりとなるスクデットを獲得。コッパ・イタリアも5年ぶりに制す。しかし前半戦をケガで欠場したバッジオは、若手のデル・ピエロにポジションを奪われ、17試合8ゴール8アシストの成績。マルチェロ・リッピ監督ともソリが合わず、5シーズンを過ごしたユベントスを退団する。

95年夏にはACミランへ移籍。95-96シーズンは慢性化した膝の故障に悩まされながら、28試合7ゴール12アシストの活躍。ユベントス時代に続く2年連続のセリエA優勝に貢献した。

だが翌96-97シーズン途中に監督がアリゴ・サッキへと交代すると、バッジオの先発機会は減少。97年には中堅クラブのボローニャへ放出される。

ボローニャでも期待されたわけではなかったが、97-98シーズンは30試合で22ゴールを挙げて復活の輝き。得点ランク3位の活躍で、しばらく離れていたイタリア代表にも復帰。98年W杯のメンバーに選ばれる。

 

最後の大舞台

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。チューザレ・マルディーニ監督がエースと期待したデル・ピエロは不調に陥っており、代わって31歳のバッジオが初戦に先発出場する。

試合はサラス、サモラノの強力コンビを擁するチリに苦しめられ、終盤まで1-2とリードを許す苦しい展開。だが80分にバッジオがゴール前へ出したパスが、相手DFの手に当たりPKを獲得。これをバッジオ自身が沈めて、土壇場で勝点1を得た。

第2戦でカメルーンに3-0と快勝すると、第3戦はバッジオの決勝ゴールでオーストリアに2-1の勝利。イタリアは首位でグループを突破する。

トーナメント1回戦でノルウェーを1-0と下し、準々決勝では開催国フランスと対戦。緊迫したゲームは両チーム無得点のまま進み、バッジオは先発のデル・ピエロに替わって67分に途中出場。フランスの司令塔ジダンと互角に渡り合った。

試合は延長の120分を戦っても0-0のまま終わり、勝負の行方はPK戦に持ち込まれた。1人目のキッカーとして登場したバッジオは確実にゴールを決めるが、3-4の結果で勝利の女神はフランスに微笑み、イタリアはベスト8敗退となる。

 

故障に苦しんだサッカー人生

98年、バッジオインテル・ミラノへ移籍。だが頻繁に選手や監督を入れ替えるモラッティ会長のやり方にチームは混乱、怪我が再発したバッジオもあまり活躍できなかった。99年、マルチェロ・リッピが新監督に就任すると、バッジオの出場機会は激減する。

00年には弱小クラブのブレシアに移籍。膝の故障に苦しみながら4度目のW杯出場を目指すが、ついにその望みは叶わず、04年4月にスペインとの親善試合を最後に代表を退く。実質12年間の代表歴で57試合に出場、27ゴールの記録を残した。

ブレシアの03-04シーズン、史上5人目となるセリエA200ゴールを達成。バッジオはこの偉業を置き土産とし、04年5月に37歳で現役を引退する。

引退後はスポーツ用品店や牧場を経営しながら、フリーの身で活動。2010年8月にイタリアサッカー連盟の要請を受けて技術部門の責任者に就任するも、数々の改善策が上層部に受け入れられることなく、13年1月に職を辞す。

12年はUEFAのプロコーチングライセンスを取得しているが、しばらくしてサッカーの現場から離れ、現在は故郷カルドーニョに近いアルタヴィッラ・ヴィチェンティーナで静かな生活を送っている。