「魅惑の魔法陣」
フランスに第二次黄金期を築いた「将軍」プラティニの80年代。 そのプラティニとともに「魔法陣」と呼ばれる魅惑の中盤を形成した名選手が、アラン・ジレス( Alain Giresse )とジャン・ティガナ( Jean Tigana )だ。
プラティニの技術とファンタジー、ジレスの配球とインスピレーション、ティガナの運動量と戦術眼で生み出される華麗なパスワークは、「シャンパン・サッカー」と讃えられた。 82年のWカップでは、ブラジル「黄金の4人」とともに世界を魅了し、ベスト4入りを果たす。
84年にはルイス・フェルナンデスを加えた「銀の中盤」で、自国開催の欧州選手権を初制覇。 86年のWカップでは念願の優勝を果たせなかったが、準々決勝のブラジル戦で歴史的名勝負を演じた。
アラン・ジレスは1952年8月2日、ボルドー近郊の小さな町ランゴワランで生まれた。小さい頃はストリートサッカーに熱中し、 12歳でジロンダン・ド・ボルドーのユースチーム入り。18歳となった70年にトップチーム昇格を果たす。
163㎝と小柄だが、技術とセンス、豊富なスタミナと確かな判断力によるゲームメークは、それを補って余りあるほど素晴らしいもの。時に体格に似合わない強烈なシュートを放って、チームの勝利に貢献した。
ルーキーの年からコンスタントに試合へ出場し、4年目となる73-74シーズンに31試合12ゴールの活躍。その後も2ケタ得点を続け、押しも押されもせぬボルドーの中心選手と認められるようになる。
75年9月、22歳でフランス代表に選ばれ、7日のポーランド戦で代表デビュー。しかしジレスのポジションであるトップ下には、3歳年下のプラティニが君臨。所属クラブでともに「ナポレオン」の異名を持つ二人の共存は難しいと思われ、ジレスに活躍の場は与えられなかった。
ジレスが80年までに刻んだ代表キャップは僅か5試合。78年のWカップ・アルゼンチン大会ではプラティニが若手の有望株として脚光を浴びたが、ジレスはメンバーにも選ばれていない。
だがある試合で二人が一緒にピッチへ立つと、互いが協調し合い持ち味を引き出す良い結果。ジレスとプラティニの併用で、相乗効果を生み出すことが明らかとなった。
こうしてジレスは代表のレギュラーに定着。81年から始まったW杯欧州予選でも主力として活躍し、本大会出場決定に貢献する。
ジャン・ティガナは1955年6月23日、当時フランス領スーダンのバマコ(現、西アフリカ・マリ共和国)で、マリ人の父親とフランス人の母親との間に生まれた。
地元クラブのレアル・バマコで本格的にサッカーを始め、その後一家でフランスに移住。カシスのユースアカデミーを経て、75年にトゥールーン(2部リーグ所属)へ入団する。
ティガナは若手のホープとして期待はされたものの、度重なる怪我で結果を出せず、スパゲティ工場や郵便配達員のアルバイトをしながら下積み時代を送った。
そして78年にはその可能性を認められ、エメ・ジャケ監督にスカウトされてディヴィジョン・アンのオリンピック・リヨンにフリー移籍する。
ティガナはリヨンでMFの才能を開花。ボール奪取からの的確な繋ぎ、スペースへの飛び出し、ドリブル突破などを幅広くこなし、豊富なスタミナによるボックス・ツー・ボックスの働きで攻守の要となった。
80年にはリーグ最優秀新人賞に選ばれ、その活躍で24歳にして代表へ初招集。5月23日のソ連戦でデビューを果たす。このまま代表に定着し、81年のW杯欧州予選に出場。82年のWカップ代表メンバーにも選ばれる。
82年6月、Wカップ・スペイン大会が開幕。1次リーグ初戦はイングランドとの戦い、開始27秒でブライアン・ロブソンの先制点を許し、前半27分に追いつくも、後半に突き放されて1-3の敗戦。ジレスはWカップ初先発を果たすも、途中出場のティガナは15分あまりのプレーに留まった。
第2戦はクウェートと対戦。前半31分、初出場ジャンジーニのFKでフランスが先制。43分にはジレスのパスからキャプテンのプラティニが追加点を決める。
そしてフランスが3-1とリードした試合終盤、プラティニのパスからジレスがゴール。しかしそのシュートの前に、ファールの笛が吹かれたとクウェートが猛抗議。実際は観客席から聞こえた笛だったが、クウェート選手はそれでプレーが止まったと執拗に抗議を続けた。
すると貴賓席で観戦していたクウェート・サッカー協会会長のファハド王子が、選手に合図を送ってグラウンドからの引き揚げを指示。結局主審がジレスのゴールを取り消し、ゲームは再開された。
試合は終了直前に1点を追加したフランスが4-1と勝利。このあとクウェートは、FIFAから罰金を科せられている。
第3戦はチェコスロバキアと1-1の引き分け。フランスはイングランドに続く2位で2次リーグに進んだ。だが第2戦と第3戦でティガナの出番はなかった。
2次リーグ初戦のオーストリア戦は、プラティニが怪我で欠場。その代役をジレスが務めることになり、ティガナが初めて先発メンバーに起用された。試合はジャンジーニのFKによる得点で1-0の勝利。ティガナも攻守にわたる活躍で勝利に貢献する。
次の北アイルランド戦はプラティニが復帰、ティガナも続けて起用された。ここにプラティニ、ジレス、ティガナ、ジャンジーニの4人による魅惑的な中盤、「カーレ・マジック(魔法陣)」が初めて姿を現す。
4人の高い技術とイマジネーションによる「シャンパン・サッカー」で中盤を支配し、北アイルランドを圧倒。33分に敵陣深く切れ込んだプラティニの折り返しを、ジレスが決めて先制。2-0とリードした68分には、ティガナの鋭いクロスからロシュトーの追加点が生まれる。
1点を返された80分にはジレスがヘッドでダメ押し点。4-1の快勝を収めたフランスは、5大会以来の準決勝進出を決めた。
準決勝は西ドイツとの戦い。開始17分、こぼれ球を決めたリトバルスキーのゴールで西ドイツが先制。だがその9分後、ジレスのFKからロシュトーが倒されPKを獲得。これをプラティニが冷静に決め同点とする。
フランスが優勢に試合を進めた51分、ジャンジーニが太腿を痛めて若手のバティストンと交代する。その7分後、プラティニの浮き球に反応したバティストンが、DF裏を抜け出してゴールへ突進。GKシューマッハと1対1になる。
シュートを放とうとした瞬間、シューマッハがボールも見ずに体当たり。激しいパンチを顔面に受けたバティストンは、血だらけとなってピッチに倒れ込み、意識朦朧のまま担架で運ばれていった。
西ドイツ側の悪質な反則行為と思えたが、主審はフランスにPKを与えることも、シューマッハを退場させることもしなかった。
ゲームはこのまま90分を終え、1-1で延長戦に突入。その92分、ジレスのFKが壁に跳ね返されたところを、ベテランのトレゾールが拾ってシュート。フランスに勝ち越し点が生まれた。さらに98分にはジレスが強烈なシュートを叩き込み、リードを2点に広げる。
勝負あったかに思えた102分、延長から投入されたルンメニゲが執念のスライディングゴール。そして延長後半の108分、フランスの足が止まったところをフィッシャーがバイシクルシュートで同点弾。ゲームは振り出しに戻った。
こうして延長の120分を終え、勝負はWカップ史上初のPK戦(スペイン大会から採用)へ。PK戦ではシューマッハがフランスの2本を止める活躍。歴史に残る死闘は、西ドイツに凱歌が挙がった。
このあとフランスは若手中心で3位決定戦に臨み、ポーランドに2-3と敗れて大会4位。それでもフランスの華麗な中盤は、ブラジルの「クアトロ・オーメン・ジ・オロ(黄金の4人)」と並び称賛された。
81年、ティガナがボルドーへ移籍。ジレスとチームメイトになる。チームは80年からエメ・ジャケを監督に迎え、83-84、84-85シーズンのディヴィジョン・アンを連覇。85-86シーズンにはクープ・ドゥ・フランス(フランス杯)も制した。
84-85シーズンにはチャンピオンズ・カップの準決勝に進出、プラティニ擁するユベントスに2戦合計2-3と惜しくも敗れている。
チームの中心選手となってボルドーの黄金期を支えた二人。ジレスは82年と83年、ティガナは84年にフランス年間最優秀選手賞を受賞した。
84年6月、自国開催の欧州選手権が開幕。守りに難のあるジャンジーニと代わり、攻守に高い能力を持つルイス・フェルナンデスが「魔法陣」へ加わる。
マイナーチェンジした「魔法陣」は、1次リーグ初戦のデンマークをプラティニのゴールで1-0と下し、第2戦はプラティニのハットトリック、ジレスとフェルナンデスのゴールでベルギーを5-0と粉砕した。
第3戦も、プラティニの連続ハットトリックでユーゴスラビアに3-0の完勝。開催国フランスは1次リーグを圧倒的な強さで勝ち上がり、準決勝でポルトガルと対戦する。
準決勝は大会史上に残る大熱戦。フランスが前半にリードするも、終盤に追いつかれて延長戦へ突入。延長ではともに1点を取り合い、PK戦にもつれるかと思えた119分、プラティニのゴールでフランスが劇的勝利。初の決勝進出となった。
決勝の相手はスペイン。後半の57分にプラティニのFKで先制、その後も1点を追加し、2-0と勝利したフランスが念願の初優勝を果たす。
「魔法陣」が繰り出す攻撃は大会を席巻、その中心であるプラティニは大会得点王とMVPを獲得した。そしてフランスが次に狙うのは、Wカップのタイトルだった。
86年6月、Wカップ・メキシコ大会が開幕。G/Lの初戦は、ジレスのアシストから新鋭パパンが決勝ゴール、カナダに1-0と勝利する。第2戦は智将ロバノフスキー監督率いるソ連と対戦。先制を許したものの、60分にジレスのパスをフェルナンデスが決めて追いつき、1-1と引き分ける。
第3戦はハンガリーに3-0と快勝。この試合でディガナが代表唯一のゴールを記録している。フランスはソ連に続くグループ2位でベスト16に進出。トーナメント1回戦では前回王者のイタリアと対戦し、前半プラティニのゴールで先制。後半にもティガナがドリブル突破で追加点を演出して2-0の勝利、フランスは準々決勝に進む。
準決勝はブラジルとの対戦。すでにブラジル「黄金の中盤」は解体していたが、プラティニとジーコの顔合わせは「夢の対決」と話題を呼んだ。
だがそのジーコは怪我でベンチスタート、「黄金の中盤」の生き残りであるソクラテスがゲームメークを担った。
開始18分、ブラジルが芸術的なパス回しから前線にボールを繋ぎ、最後はカレカが抜け出して先制。40分、ジレスの展開からロシュトーが右サイドを破り、その折り返しに飛び込んだプラティニが同点弾。試合は熱戦の様相を帯びてきた。
後半60分過ぎにティガナがあわやの場面をつくると、負けじとカレカもヘディングシュートでゴールを脅かした。一進一退の攻防が続いた71分、ブラジルは切り札のジーコを投入。その直後、ジーコのスルーパスに抜けだしたブランコが倒されPK。フランスは窮地に立たされる。
しかしジーコのキックをGKバツがナイスセーブ、絶体絶命のピンチを逃れる。試合は延長戦に突入、両チームが繰り広げる華麗な戦いに、スタンドに詰めかけた観客は息をのんだ。
スコアは動かないまま延長の120分を終了し、決着はPK戦にもつれ込む。ブラジルは1人目のソクラテスが失敗、だがフランスも4人目のプラティニがボールを吹かしてしまう。それでも直後に蹴ったジュニオ・セザールのシュートがポストを直撃、最後はフェルナンデスが冷静にゴール左へ流し込み、フランスが激闘を制した。
しかしこの激闘が響いたのか、4日後に行われた準決勝の西ドイツ戦はなすすべもなく0-2の完敗。4年前の雪辱と悲願の優勝を果たせなかった。3位決定戦では若手主体のチームでベルギーに4-2の勝利、フランスは58年大会に並ぶ好成績を残す。
この大会を最後に、プラティニとジレスが代表を引退。ここに「魔法陣」は解散となった。ジレスは代表歴13年で47試合に出場、6ゴールを記録している。
Wカップ終了後、ジレスはオリンピック・マルセイユに移籍。87年には3度目となる年間最優秀選手に選ばれ、88年のシーズン終了後に36歳で現役を引退。18年を過ごしたディヴィジョン・アンでは当時歴代最多となる587試合に出場、163ゴールを挙げた。
ボルドーの看板となったティガナは、86-87シーズンのリーグ優勝とクープ・ドゥ・フランス制覇の2冠達成に貢献。89年にはオリンピック・マルセイユに移籍し、89-90、90-91シーズンのリーグ連覇に寄与する。
フランスが欧州選手権出場を逃した88年に代表から退き、91年に36歳で現役を引退。代表歴9年で52キャップを刻み、13年を過ごしたディヴィジョン・アンでは411試合に出場、26ゴールを記録している。
引退後は二人とも指導者の道に進み、ジレスは国内クラブやアフリカ諸国の代表監督を歴任。ティガナもリヨンやモナコで監督を務め、00~03年には稲本潤一が所属するイングランドのフラムを指揮した。