「フィールド上のスラローマー」
ドリブラーとしての類い希な才能を持ち、ワンツーやスルーパスの名手として知られた。得意のドリブルを駆使し、流れるようにボールを運ぶスタイルから「フィールド上のスラローマー」と呼ばれたのが、ヨゼフ・マソプスト( Josef Masopust )だ。
戦術眼に優れた中盤の指揮官として、チェコスロバキアの伝統的なショートパスによる組み立ての中枢を担い、62年のWカップではチームを大会準優勝に導いた。またゲームメークをこなすだけではなく、高い得点力も備え、ブラジルとのWカップ決勝戦では先制点を決めている。
キャリアのほとんど過ごしたデュクラ・プラハでは8回のリーグ優勝、3回の国内カップ優勝を果たし、Wカップで活躍した62年に東欧選手で初めてのバロンドール賞に輝く。そしてチェコがスロバキアと分裂した04年には、同国最高選手の認定を受けた。
マソプストは1931年2月9日、チェコスロバキア共和国のストリミツェに、鉱山労働者の父のもと6人兄弟の4番目として生まれた。ナチス・ドイツの占領期に少年時代を過ごし、終戦後の45年に下部リーグに所属するバニク・モストへ入団。ようやく14歳でサッカーの本格的なキャリアを開始する。
それでもすぐさま優れた才能を発揮し、17歳でトップチーム昇格。左インサイド・フォワードの選手として、バニク・モストでの5年間を過ごした。そのあと50年には首都プラハの1部リーグ所属、ボドテチナ・テプリチェへ移り、19歳でトップリーグデビューを果たす。
優秀な選手として認められるようになったマソプストは、名門スラヴィア・プラハでのプレーを望むが、52年にATK・プラハへの入団を余儀なくされる。48年に創設された陸軍の体育クラブ、ATKプラハは徴兵を口実とした強制的な選手集めをしており、マソプストも有望選手の一人として目を付けられたのだ。
ATKプラハに移ったマソプストがポジションをインサイド・フォワードからハーフバックに換えると、ゲームメーカーとしての才能が開花。チームの攻撃を担う選手として頭角を現わす。そして代表でも活躍するスパトブルク・プルスカルと中盤でコンビを組み、53年のリーグ優勝に貢献。クラブがデュクラ・プラハと改称した56年にも2度目の優勝を果たした。
代表には54年10月に初めて招集され、21日の親善試合・ハンガリー戦で初キャップを記録した。その後は1年半近く招集されなかったが、56年4月のブラジル戦で代表復帰。その次のスイス戦で初得点を記録し、ようやく代表に定着することになった。
57年に始まったWカップ欧州予選にも参加。代表でもプルスカルと中盤コンビを組んだマソプストは、ウェールズと東ドイツを破っての本大会出場決定に大きな役割を果たす。
58年6月、Wカップ・スウェーデン大会が開幕。1次リーグの初戦は北アイルランドに不意を突かれて先制を許すと、劣勢を挽回出来ずに0-1と敗れた。第2戦は前大会チャンピオンの西ドイツと対戦。前の試合の反省を生かして、攻撃陣を入れ替え試合に臨んだ。それが功を奏し前半で2点をリードするが、後半西ドイツの粘りに遭い2-2と引き分けてしまう。
第3戦は動きの鈍いアルゼンチンを6-1と圧倒、北アイルランドと勝点で並ぶグループ2位となる。そこで準々決勝進出を決めるプレーオフが行われたが、怪我人続きだったチェコは、延長戦で北アイルランドに1-2と逆転負け。惜しくもグループリーグ敗退となってしまった。マソプストは4戦すべてに出場したものの、目立った活躍もなく終わってしまった。
驚異の6人抜きゴール
59年、デュクラ・プラハはアメリカ遠征を行い、メキシコシティーでブラジルのサントスFCと親善試合を行う。サントスFCは、前年ブラジルが初優勝を果たしたWカップで新星の如く現れ、世界にセンセーショナルを起こした若きスター、ペレを擁したチームだった。
試合はサントスFCが前半に2点をリード、詰めかけた9万人の観客を熱狂させた。しかしデュクラは後半に反撃を開始。驚異的なスキルを誇るペレを抑えて、マソプストの2点を挙げる活躍で4-3と逆転勝利を果たす。翌60年5月には代表でオーストリアと親善試合を行い、驚異の6人抜きゴールを決めてその名を世に知らしめた。
また60年には、第1回欧州ネイションズカップ(のち欧州選手権)に出場。チェコはホーム&アウェーで行われた予選ラウンドで、アイルランドを2戦合計4-2、デンマークを7-3、ルーマニアを5-0と破って、フランスで行われた決勝トーナメントへ進んだ。
コンビを組むプルスカルがハードワークによる守備を身上とするのに対し、接触プレーを不得意としたマソプストは、読みの鋭さと豊富な運動量でその欠点をカバー。相手のボールをカットすると、巧みなドリブルと正確なパスで攻撃に繋げていった。
準決勝ではレフ・ヤシンがゴールを守るソビエトに0-3と完敗したが、チェコは3位決定戦でフランスに2-0と勝利。マソプストはチームを牽引する中心選手として、大会3位入賞に貢献した。
ペレの賛辞
翌年チェコは欧州予選のプレーオフでスコットランドを下し、62年Wカップ・チリ大会への出場を果たす。ほとんどをデュクラ・プラハの選手で固めた代表チームは、コンビネーションが抜群。しかも高いテクニックと強いフィジカルを兼ね備えていた。
G/L初戦は、名将エレニオ・エレラを監督に据え、ルイス・スアレス、フェレンツ・プスカシュ、フランシスコ・ヘントといったスター選手を揃えたスペインと対戦する。霧雨の中で行われた試合はチェコが1-0と勝利、選手のまとまりを欠く相手にスコア以上の内容を見せた。
続く第2戦の相手は、優勝候補のブラジル。開始25分、ガリンシャのパスを受けたペレが、20mの距離からポスト直撃の強烈シュート。その際、相手選手ともつれたペレは、大腿筋断裂の重傷を負ってしまう。当時は選手交代が許されていなかったため、ハーフタイムに応急処置を受け、ブラジルの10番は脚を引きずりながら後半のピッチに立った。
もはやゲーム参加することも出来ず、サイドラインの内側をただ歩くだけのペレ。そんな手負いの10番にボールが渡り、ボールを運ぼうとした彼の前にマソプストが立ち塞がる。だがマソプストは重傷を負った10番と間をとり、その気遣いに応えてペレはボールを外に蹴り出した。
その後もチェコの選手たちはペレを狙うこともなく、試合は0-0のスコアレスドローで終了。重傷を負ったペレは大会を去ることになるが、暴力的なプレーがはびこっていた時代のスポーツマンシップに感激し、「私のキャリアの中で一番美しい出来事」と、マソプストを始めとするチェコの選手に賛辞を送った。
最終節のメキシコ戦が行われる前に、スペインがブラジルに敗れ、チェコのベスト8進出が決まった。するとチェコはメキシコに1-3と敗戦、この敗戦は、準々決勝で強豪イングランドと当たるのを避け、あえてG/L2位を狙ったのだと言われている。
準々決勝ではハンガリーと対戦。試合は拮抗したものとなるが、GKシュロイフが好守を連発。難敵を1-0と下して準決勝へ進んだ。準決勝はユーゴスラビアとの試合。前半は双方様子見で試合を進めるが、後半にチェコが攻勢を開始。3-1と強敵を撃破して、第2回イタリア大会以来28年ぶりの決勝へ進出した。
決勝で相まみえることになったのは、G/Lでも戦ったブラジル。大会連覇を狙うブラジルはペレを負傷で失うも、代わってガリンシャが大活躍。エースの穴を感じさせない強さで決勝に勝ち上がっていた。
劣勢が予想されたチェコ。だが試合開始15分、右サイドからの斜めロングパスを追ったマソプストが、DF網を突破してGKジウマールの足元を抜く先制ゴールを決めた。しかしその僅か2分後、ペレに代わって先発入りしたアマリルドが、角度の無いところからファーポストを狙うシュート。たちまちブラジルに同点とされる。
1-1で折り返した後半の69分、左ゴールライン際から個人技で抜け出したアマリルドが中央へクロス。それをジトに頭で合わせられ、ついにブラジルのリードを許してしまう。さらに78分には、ジャウマ・サントスの高く上げたクロスをシェロイフがファンブル。そこへ詰めたババに、難なくダメ押し点を流し込まれる。
試合は1-3で終了。後半ブラジルに圧倒されたチェコは、第2回大会の決勝(対イタリア)と同じく逆転負けを喫し、念願のジュール・リメ杯を手にすることが出来なかった。だが中盤の指揮官としてチームを準優勝に導いたマソプストは、その活躍で同年のバロンドール賞に選ばれている。
チェコ史上最高の選手
34歳となった65年にもWカップ欧州予選に参加するが、エウゼビオ擁するポルトガルに敗れて本大会出場を逃し、これを最後にマソプストは代表から退いた。代表の13年間で66試合に出場し、10得点の記録を残している。
デュクラ・プラハでは68年までプレー。在籍16年間でリーグ優勝8回、カップ戦3回制覇に貢献した。またUEFAチャンピオン・カップにも、61-62シーズンから4季連続出場。63-64シーズンには準々決勝まで進んだ。デュクラでは386試合に出場し、79ゴールを挙げている。
その後、軍務が解かれたことから海外移籍が許され、68年からベルギーのモレンビークでプレー。チームの1部昇格に貢献すると、70年に39歳で現役を引退した。引退後は指導者の道を進み、ズブロヨフカ・ブルノを率いて77-78シーズンにリーグ優勝。84年から3年間、代表監督も務めた。
04年にはチェコサッカー協会から自国最高の選手の認定を受け、15年6月29日にプラハの自宅で死去。死因は明らかにされていないが、晩年は長い闘病生活を送っていたと伝えられている。享年84歳。