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サッカーの歴史や人物について

《サッカー人物伝》フェルナンド・イエロ(スペイン)

 

「銀河系軍団の元帥」

大柄で頑丈な体を持ち、類い希なポジショニングセンスと激しいタックルで相手の攻撃を封じ込めた守備の鉄人。また正確で強いキックを活かして速攻の起点となり、シュート力も非凡。不屈の精神力とキャプテンシーでチームを統率し「スペイン最高のディフェンダー」と言われたのが、フェルナンド・イエロ( Fernando Ruiz Hierro )だ。

 

長らく名門レアル・マドリードのDFリーダとして君臨。「ギャラクティコ(銀河系)」と呼ばれたスーパースター軍団で、持ち前のカリスマ性とリーダーシップでチームをまとめた。さらにヘディングの強さに加え、FKやPKも得意とし、21ゴールを挙げて得点ランキング2位となったシーズンもあった。

 

スペイン代表でもセンターバックや守備的MFとして活躍。3度のW杯と2度のユーロに出場し、守備だけではなく攻撃でも大きな功績を残した。しかし優秀なタレント揃えたスペインにあって勝負運に恵まれず、代表でビッグタイトルを手にすることはなかった。

 

埋もれかけた人材

フェルナンド・イエロは1968年3月23日、スペイン南部の港町ベレス=マラガに生まれた。農夫として働く父レメディオスは、3部リーグのベレス=マラガでもプレーしていた元サッカー選手。フェルナンドは3人の兄とともに、サッカーに親しむ少年時代を過ごした。

12歳で地元ベレス=マラガのユースチームに入団。ここで攻撃的MFとしてプレーし、自動車修理工場で働きながらプロデビューする機会を待った。

しかしフェルナンドのプレーはチームのコーチに認められることなく、トップチーム昇格を果たせないまま18歳でユースを卒業。ズバ抜けたスピードがあるわけでも、華麗なテクニックを持っていたわけでもないフェルナンドは、特に目立つ存在ではなかったのだ。

そんな失意にある彼を救ったのが、当時バリャドリードでプレーしていた兄マノーロだった。マノーロはチームの監督ビセンテ・カンタトーレに、「うちの弟を一度テストして貰えませんか」と懇願。カンタトーレ監督はその願いを聞き入れ、期待をせずにマノーロの弟を見てみることにした。

だがフェルナンドがテストでプレーを初めると、カンタトーレ監督はすぐにその才能を見抜き「このまま伸びれば、すぐにでもトップでやれる。早ければ来年にも代表チームの一員になっているだろう」と絶賛。即座にバリャドリードはフェルナンドとプロ契約を結んだ。

そしてバリャドリードBで短期プレーしたあと、87-88シーズンにトップチーム昇格。10月4日のエスパニョール戦で1部リーグデビューを果たし、1-0の勝利に寄与。献身的なプレーでさっそく中盤右サイドに定着し、88年3月のマジョルカ戦でプロ初ゴールを記録している。

2年目の88-89シーズンはコパ・デル・レイ(国王杯)決勝進出に貢献。決勝ではレアル・マドリードに0-1と敗れるが、強豪の攻撃を抑えたフェルナンドの存在はスペイン中に知られるところとなった。

シーズン終了後、フェルナンドの争奪戦が繰り広げられ、最終的にレアル・マドリードへの移籍が決定。イエロは21歳で名門クラブへの入団を果たす。

 

攻撃力を備えたディフェンダー

当時のレアルはブトラゲーニョ、ウーゴ・サンチェス、ベルント・シュスター、ミッチェルなど攻撃のタレントを揃えたスペイン最強チーム。イエロはトシャック監督によってCBへコンバートされ、優れた守備力でレアルのリーグ5連覇と国内スーパーカップ優勝に貢献する。

ボールの落下地点を瞬時に予測し、先回りして対処する能力は天性のもの。また187㎝の長身を活かして敵陣からのハイボールをことごとく跳ね返し、相手エースに仕事をさせなかった。

91-92シーズンにアンティッチ新監督が就任すると、持ち前の攻撃力を活かすべくインナーハーフのポジションに起用される。イエロは期待通りヘディングで多くのゴールを生み出し、破壊力抜群のシュートでフリーキッカーも務めた。

同シーズンはキャリア最高の21ゴールを記録。これはアトレティコのFWマヌエル・サンチェスに続く(27ゴール)、得点ランキング2位の数字だった。

92-93シーズンも13ゴールを記録、うち6ゴールはヘディングによるものである。コパ・デル・レイでも7試合3得点の活躍を見せ、クラブの5季ぶりとなる優勝に貢献する。守備よりも攻撃の仕事を好んだイエロは、「プロ生活で最高に楽しかったシーズン」とこの時期を振り返っている。

 

スペイン代表とワールドカップ

スペインのフル代表には21歳で招集され、89年9月のポーランド戦で初キャップを刻んだ。翌90年にはイタリアW杯のメンバーに選ばれるが、1試合も出場することなく大会を終えている。

ユーロ92はブロック予選で敗退、国際大舞台への登場はお預けとなった。92年4月からW杯予選が始まり、スペインは同組のアイルランドデンマークと、出場2枠を懸けてデッドヒートを繰り広げた。

そしてグループ戦最終節を残し、1位は勝点18のデンマーク。続いてスペインとアイルランドが勝点17で並ぶ(当時は勝利ポイント2)という大混戦となった。

スペイン最終節の対戦相手は、1差で追う首位のデンマーク。0-0で折り返した後半の63分、イエロが貴重なゴールを叩き出し1-0の勝利。勝点を19に伸ばす。

一方のアイルランドは、最終節で北アイルランドと1-1の引き分けに終わり勝点18。この結果、スペインが逆転の首位でW杯出場を決定。残り2チームが勝点と得失点差で並ぶも、総得点で上回るアイルランドがW杯出場権を得た。

94年6月、Wカップアメリカ大会が開幕。初戦は韓国と2-2、第2戦はドイツと1-1で引き分けるも、グループ最終節でボリビアに3-1の勝利。スペインは予選2位で決勝トーナメントに進む。

トーナメントの1回戦は、イエロの先制点などでスイスに3-0の快勝。準々決勝でイタリアと対戦する。しかし1-1で進んだ終盤の87分、ロベルト・バッジオの決勝弾を許し、ベスト8敗退を喫してしまう。

 

白い巨人」不動のディフェンダー

94-95シーズンは、バルダーノ新監督によりCBへと再配置。レアルは5シーズンぶりのリーグ優勝を果たし、ここからイエロは「白い巨人」不動のディフェンダーとなる。

96-97シーズンは自身3度目のリーグ優勝に輝き、97-98シーズンはチャンピオンズリーグの決勝へ進出。ジダンデル・ピエロを擁する強豪ユベントスを1-0と完封し、チームを32年ぶり7度目の栄冠に導いた。

イエロはディフェンダーに専念してからも、毎年コンスタントに得点を記録。CKからのヘディングに絶対的な強さを発揮した。96年にロベルト・カルロスが加入してからフリーキッカーを務める機会は減ったが、ロベカルが55回蹴って3得点だったのに対し、イエロは18回蹴って3得点を記録。決定率の高さを誇った。

 

無敵艦隊」の敗北

96年6月には初めてとなるユーロに出場し、ノックアウトステージ進出に貢献。準々決勝では開催国イングランドと延長で0-0の接戦を演じるも、PK戦で1人目を任されたイエロが失敗。2-4の結果で、2年前のW杯に続くベスト8止まりとなった。

96年4月から始まったW杯予選では、イエロがアウェーのユーゴスラビア戦、ホームのチェコ戦で貴重な得点を挙げてグループ1位突破に貢献する。

98年6月、Wカップ・フランス大会が開幕。レアルの若きエース、ラウル・ゴンザレスなど攻守にタレントを揃えたスペインは、94年W杯以降に32戦無敗(PK戦は引き分け扱い)の快挙。大記録を打ち立てたスペインは「無敵艦隊」と呼ばれ、優勝候補の一角と目されていた。

しかし大会前にチームの司令塔、グアルディオラが負傷離脱。「無敵艦隊」に暗雲が漂い始める。

G/Lの初戦は「スーパーイーグルス」のナイジェリアと対戦。イエロの1ゴール1アシストで前半を2-1とリードするも、後半は高い個人技と身体能力を誇るナイジェリアの反撃を許し、2-3の逆転負けを喫する。

続くパラグアイ戦は圧倒的に攻めながら、GKチラベルト、DFガマラを中心とする相手の堅い守りに防がれ0-0の引き分け。自力突破の可能性が消滅してしまう。

最終節はイエロのPKと2アシストでブルガリアに6-1の圧勝を収めるが、同時刻に行なわれた試合でパラグアイが首位ナイジェリアに3-1の勝利。優勝候補スペインはグループ3位に沈み、あえなく大会から消えていった。

98年9月から始まったユーロ予選では、ラウルの11ゴールに次ぐ5ゴールを叩き出し、本大会出場に貢献。だがユーロ2000(オランダ / ベルギー共催)では、準々決勝でフランスに2-1と敗れてまたもやベスト8敗退。世界有数の国内リーグを持ちながら、大舞台で勝負弱いスペイン代表の評価を覆すことが出来なかった。

 

銀河系軍団の元帥

2000年7月には、バルセロナルイス・フィーゴ獲得を公約としたフロレンティーノ・ペレスがレアルの新会長に就任。公約通りフィーゴとの契約を成功させると、翌01-02シーズンはユベントスからジダンを獲得。CLでは5季ぶりの優勝を果たした。

さらに02-03シーズンは怪物ロナウドインテルから引き抜き、スーパースターを集めたレアルは「ロス・ガラティコス(銀河系軍団)」と呼ばれるようになった。

01年からキャプテンとなったイエロは、最終ラインからチームを鼓舞。スター選手といえども喝を入れて士気を高め、萎縮しがちな若手選手を叱咤激励。持ち前のリーダーシップで個性派集団を束ねていった。

また前掛かりになりがちなチームのバランスをとり、手薄になった守備のスペースをCBイヴァン・エルゲラボランチマケレレとともにカバー。02-03シーズンのリーグ優勝は、「銀河系軍団の元帥」と呼ばれるイエロの統率力が支えていた。

イエロはスター選手偏重主義に異議を唱え、守備陣の補強と待遇改善を訴えてペレス会長に直言。しかしレアルの出した答えは、年齢的な衰えの見えるイエロとの契約更新を行なわないというものだった。レアルを退団したイエロは、多くのサポーターに惜しまれながら中東カタールのクラブへ移籍していった。

03年の夏、マンチェスター・ユナイテッドを放出されたベッカムが加わると、守りを軽視するクラブ方針に不満を抱いたマケレレチェルシーへ移籍。守備の要である2人の主力を失ったレアルは、急失速していく。

 

失意のワールドカップ・韓国戦

2002年6月、Wカップ日韓大会に出場。34歳のイエロはキャプテンマークを巻いて4度目のW杯に臨んだ。G/Lではスロベニアに3-1、パラグアイに3-1、南アフリカに3-2と3戦全勝。スペインは順当に1位突破を決めた。ペナルティーキッカーを任されたイエロは、2度得たチャンスを確実に決めている。

トーナメント1回戦の相手はアイルランド。開始8分にプジョルの上げたクロスから、モリエンテスが頭で決めて先制点。後半63分にPKを与えてしまうも、GKカシージャスが防いでピンチを逃れた。

このままスペインが勝ちきるかに思えたが、ロスタイムの90分、アイルランドのセットプレーの場面でイエロが相手のユニフォームを引っ張りPK判定。これを21歳のロビー・キーンに決められ、土壇場で追いつかれてしまう。

このあと延長120分を戦ってもスコアは動かず、勝負はPK戦へ。スペインは1人目のイエロを始め3人が成功。若き守護神カシージャスアイルランドの3人を止め、粘るアイルランドを振り切ってベスト8に進む。

準々決勝は開催国の韓国と対戦。エースのラウルを怪我で欠くスペインは、ハードワークで挑む韓国に苦戦する。0-0で折り返した後半の50分、右FKのチャンスからバラハがヘッドでゴールネットを揺らすが、ファールがあったとして取り消されてしまった。

試合は延長戦に突入。延長前半の2分、右サイド深くに切れ込んだホアキンが絶好のクロス。これをモリエンテスがヘッドで叩き込み、勝負は決まったかに見えた。

しかしホアキンのクロスはエンドラインを割っていたと判定され、ゴールは認められなかった。その5分後には、ホアキンスローイングから再びモリエンテスがヘディングシュートを放つも、左ポストに嫌われてしまう。

勝負はまたもPK戦にもつれ込み、両チームとも4人が続けて成功。だがスペイン5人目ホアキンが止められ、そのあと韓国の洪 明甫ホンミョンボがシュートを沈めて戦いは決着。スペインは微妙な判定に泣くことになった。

この大会を最後にイエロは代表を引退。14年間の代表歴で刻んだ89キャップは当時の最多出場記録、通算29得点もブトラゲーニョの26ゴールを抜く歴代1位の記録(現在は5位)だった。

 

ロシアW杯の緊急登板

中東には1年滞在し、04-05シーズンはイングランドボルトン・ワンダラーズに移籍。29試合に出場してクラブからは1年の契約延長をオファーされるも、イエロはそれを断り05年5月に37歳で現役を引退する。

引退後の07年には、スペインサッカー協会のスポーツディレクターに就任。スペイン代表のユーロ08、98年W杯・南アフリカ大会優勝に尽力した。

その後は故郷マラガのGMに就任するも、クラブの放漫経営に嫌気がさして1年で退任。14年からは古巣のレアル・マドリードへ復帰し、Bチームの監督を務めた。

17年にはサッカー協会のスポーツディレクターに再任。そしてロシアW杯を直前に控えた18年6月、代表監督を解任されたジュレン・ロペテギ(レアル・マドリードと勝手に監督契約を結んだことが問題視された)の後任として、急遽W杯の指揮官に任命される。

イエロ監督率いるスペイン代表は、ポルトガル、イラン、モロッコと戦ったG/Lを1位突破。しかし開催国ロシアと対戦したトーナメント1回戦ではPK戦負けを喫し、ベスト16敗退。この後イエロは代表監督を辞任。在任期間わずか25日の任務を終えた。